第1話 喪中の火鉢

四十九日の法要が終わったあとも、桐生家の仏間には線香の甘い匂いが残っていた。

畳に座っていると、足の裏から冷えが上がってくる。北向きの部屋は昼間でも薄暗く、夕方になると、仏壇の金具だけが水の底のように鈍く光った。雨戸の隙間から吹き込む夜気が、湿った柱の匂いを押し広げている。古い木は水を吸って膨らみ、家のどこかで、きい、と細い音を立てた。

私は玄関で脱いだ靴を揃え、濡れた傘を土間の隅に立ててから、仏間へ向かった。

祖父が死んで四十九日が過ぎた。今日の法要で、死者は仏になるのだと、寺の住職は穏やかな声で言った。親族の誰も異を唱えなかった。私も、唱えなかった。

けれど仏間の空気は、祖父がまだそこに座っている頃より重かった。

座敷の隅では、火鉢に残った炭が赤く息をしていた。法要のあいだ冷えた客の手を温めるために出したものだが、誰ももう近寄らない。灰の表面に細いひびが入り、その隙間から、消えかけた火が覗いていた。火鉢のそばには、祖父が生前使っていた低い椅子が置かれている。誰かが片づけ忘れたのだろう。椅子の背には、祖父の茶色い羽織が掛けられたままだった。

私はその羽織を見ないようにして、台所へ顔を出した。

「真琴ちゃん、帰ったの」

澄江叔母さんが、やかんの蓋を押さえながら振り向いた。薄い灰色のエプロンをつけ、濡れた手を何度も布巾で拭いている。法要の朝から一度も座っていないのではないかと思うほど、顔の輪郭から疲れが抜け落ちていた。

「うん。手伝うことある?」

「ない。お茶、もうすぐだから。仏間の灰だけ、見てくれる?」

頼み方はいつもと変わらなかった。けれど、目は私を見ていない。台所の隅に積まれた茶碗や、使い切った紙皿の袋ばかりを見ていた。

「灰って、火鉢の?」

「仏壇の。線香、まだ残ってるでしょう」

「わかった」

澄江さんは一度だけ頷き、またやかんへ向き直った。湯が煮立つ前の、細かな震えが金属の腹から伝わってくる。祖父が生きていた頃、夜中に何度も聞いた音だった。薬を飲ませるための湯、むせた喉を潤すための湯、冷めてしまった食事を温め直すための湯。澄江さんは、祖父が死んだあとも同じ時間に同じように湯を沸かしている。

私は何も言わず、仏間へ戻った。

隣の座敷では、浩一叔父さんが香典返しの控えと法要の進行表を畳の上に並べていた。紙の角を揃え、重ねる順番を確かめ、また最初から見直している。喪服の上着を脱いだあとも、白いシャツの襟はきちんと立っていた。

「矢野さん、明日の挨拶回りは」

「まず向こうの坂からでええでしょうな。あちらは今日、来られなんだ家もありますから」

縁側に座った矢野庄司が、湯呑みを両手で包んで笑った。雨に濡れた庭を見ながら、声だけは晴れた日のように柔らかい。

「順番は紙にしておいてください。口頭だと抜けます」

「はいはい。浩一さんは昔から、紙がお好きで」

「好き嫌いではありません。残すものを残すだけです」

浩一叔父さんはそう言って、進行表の端を指で押さえた。

「残さなくていいものまで残ると、あとで困りますから」

矢野さんは笑った。笑い声は短く、すぐ雨音に混じって消えた。

私はその言葉を聞き流そうとしたが、指先が冷えた。祖父の生前、私は何度も書類の下書きを清書した。町内会費の集計、役所へ出す事情説明、道路工事への要望書。祖父は自分では書かず、私の前に紙を置いて、「ここをこう」と短く言った。私は祖父の声よりも、机を叩く指の位置を見ながら文章を整えた。

その中に、残さなくていいものがあったのかもしれない。

私は仏壇の前に膝をついた。位牌の横には、祖父の遺影が置かれている。写真の中の祖父は、まだ頬に肉があり、眉間の皺も今より浅い。こちらを見る目だけが、生前と同じだった。何かを尋ねても答えず、こちらが諦めるまで黙っている目。

線香立てには、法要で使った灰が盛り上がっていた。私は小さなへらで表面をならし、燃え残った灰を取り除いた。灰は乾いているのに、指先へまとわりつくような重さがあった。

新しい線香を一本取り、火鉢の炭へ先端を近づける。

炭が、ぱち、と鳴った。

赤い火が一瞬だけ強くなり、線香の先に小さな火が移った。私は息を吹きかけて消す。白い煙がまっすぐ上がり、仏壇の屋根を越えたあたりで、ゆっくりと横へ流れた。

風はない。

雨戸は閉まっている。障子も動いていない。それなのに煙は、天井へ上がらず、仏間の鴨居へ向かっていた。細い糸のような煙が、途中で二度、三度とねじれる。私は線香を持ったまま、目だけを上げた。

鴨居に、黒い線があった。

長さは指一本分ほど。木目に沿って斜めに走り、墨を濡れた布で擦りつけたように見える。古い家だから、煤や黴はいくらでもある。天井近くなら、火鉢の煙が溜まっていてもおかしくない。

それでも、その線だけは木の表面に乗っていなかった。

木の内側から、濡れて浮き出しているように見えた。

私は線香を置き、立ち上がった。鴨居に手を伸ばす。届かない。指先を伸ばしても、黒い線まではあと少しの距離がある。踏み台を探そうと振り返ったとき、背後で衣擦れの音がした。

「何してる」

浩一叔父さんが、仏間の入口に立っていた。

「鴨居に……」

言いかけて、私は口を閉じた。

叔父さんの視線が私の顔を通り、鴨居へ向かう。ほんの短い間だった。けれど、見た。叔父さんは確かにあの線を見た。

「何かある?」

「黒いものが。煤みたいに見えるけど、少し変で」

「古い家だからな。火鉢も出したし、煙が回ったんだろう」

「でも、線になっています」

「線に見えるだけだろう」

「煙の跡なら、あんなふうに一本だけ残るでしょうか」

叔父さんは答えず、仏壇の前へ進んだ。私が置いた線香を見て、香炉の向きを直す。灰の表面に残った私のへらの跡まで、指でなぞるように整えた。

「今日は疲れている。細かいものが気になるのは分かるが、法要のあとに家の傷を探すようなことはするな」

「傷を探しているわけじゃないよ」

「なら、見なかったことにすればいい」

声は荒くなかった。だからこそ、逆らう余地がなかった。

「外から人が来ている。矢野さんもいる。変な話をされると困るんだ。煤の跡がどうとか、家の中に何かいるとか、そういう話は特に」

「私は、何かいるなんて言ってない」

「言葉は最初から最後まで聞かれるとは限らない。途中だけ切り取られて、別の家へ回る」

「じゃあ、事実も言わない方がいいの」

叔父さんの手が止まった。

自分でも、よくそんな言葉が出たと思う。だが言ってしまったあと、胸の奥が急に狭くなった。叔父さんの顔を見ることができず、私は畳の目を見つめた。

「事実というのは、確認できたものを言う」

「見えているのに、確認しないの?」

「真琴」

名前を呼ばれただけで、子どもの頃の感覚が戻ってきた。祖父の前で、余計なことを言ったときの空気。叱鳴られるわけではない。ただ、部屋の隅々から音が消えていく。誰かが湯呑みを置く音も、時計の針も、外の車の音も遠くなる。その静けさに耐えられず、いつも私の方が先に謝った。

叔父さんは、祖父ほど上手く黙れない。けれど祖父から、黙ることの効き目だけは受け継いでいた。

「外へは言うな。余計な話は、家のためにならない」

その言葉が、線香の煙よりも長く仏間に残った。

背後から矢野さんの声がした。

「まあまあ、若い人は目がよろしいから、いろいろ見つけますわな」

いつの間にか縁側から移ってきたらしい。矢野さんは鴨居を見上げたが、すぐに目を細め、庭の方へ顔を向けた。

「徳次郎さんも、昔は細かいことによう気をつける人でした。帳面の端が揃っておらんと、何度でもやり直させたもんです」

「祖父は、紙のことになると厳しかったですね」

私はそう返した。

「ええ。書いたものは残るから、と言うておりました」

「それは、矢野さんも聞いたことがあるんですか」

「聞いたというか……まあ、あの家の人ですからなあ」

「何か知っているなら、言ってください」

矢野さんは湯呑みを口元まで持ち上げたまま止まった。笑みが消えたわけではない。ただ、笑みの奥にあった柔らかさが引いた。

「何をです?」

「祖父のことです。私が知らない書類や、町内の昔の話を、皆さん知っているように見えるから」

「昔の話は、昔の話です。今さら掘り返しても、雨が降った日に地面がぬかるむだけでして」

「ぬかるんでいるなら、足元を見た方がいいでしょう」

「そういう真っ直ぐなところは、徳次郎さんに似ておらんねえ」

矢野さんは笑ったが、声が乾いていた。

私は鴨居を見た。黒い線の先で、煙が細く巻いている。まるでそこに小さな穴があり、煙だけが吸い込まれているようだった。

澄江さんが台所から顔を出した。

「お茶、入ったよ」

「ありがとう。すぐ行く」

叔父さんが答える。

澄江さんは私たちを見た。鴨居を見上げた私の姿と、仏壇の前に立つ叔父さんを、順に見た。それから何も聞かず、湯呑みを四つ盆に載せた。祖父の分だけ、無意識に五つ目を取ろうとしたのか、盆の脇に手を伸ばして止める。その指が宙で一度だけ迷った。

私はその迷いを見ていた。

澄江さんは、見られたことに気づいたようだった。けれど、手を引く代わりに、盆の湯呑みの位置を揃え直した。

「熱いうちに」

「叔母さん」

呼び止めると、澄江さんの背中がわずかに硬くなった。

「鴨居のこと、見た?」

雨戸の向こうで、雨が強くなった。屋根を打つ音が、家の中まで低く響く。

澄江さんはすぐには答えなかった。盆の上で、湯呑みの中の茶が小さく揺れている。

「古い家だから」

「それは叔父さんにも言われた」

「だったら、それでいいでしょう」

「よくないと思う」

私の声は小さかった。小さいまま、畳に落ちた。

澄江さんはようやく振り向いた。目の下の影が、仏間の暗さに溶けている。

「よくないことなんて、家にはいくらでもあるよ」

「だからって、全部見なかったことにするの?」

「見たら、片づけなきゃならないでしょう」

「片づければいい」

「片づけられないものもある」

その言い方には怒りがなかった。疲れている人間の声だった。怒る力さえ、ずっと前に使い果たしているような。

「紙なら燃やせる。灰ならならせる。食器なら洗える。そうやって毎日を回していれば、何とかなると思っていた。でも、何とかならないものは、何年経っても同じ場所にあるんだよ」

澄江さんはそこまで言って、口を閉じた。言い過ぎたと思ったのかもしれない。すぐに盆を持ち直し、台所へ戻ろうとした。

「祖父のこと?」

足が止まった。

「それとも、別のこと?」

澄江さんは振り向かなかった。

「真琴ちゃんは、字を書くのが上手だったね」

「話をそらさないで」

「そらしてない。字を書く人は、書かれていないところまで読もうとするから、疲れるんだよ」

「書かれていないから、読もうとしているの」

「読まなくていいものもある」

「誰が決めるの」

澄江さんは盆を抱えたまま、しばらく黙った。

「決められる人が、決めるんだよ」

それだけ言って、台所へ戻っていった。

叔父さんが茶を受け取り、矢野さんが礼を言った。三人の間に、法要の手順や香典返しの話が戻っていく。明日の挨拶、封筒の数、寺へ渡すもの。話は整っていた。整いすぎていて、どこにも人の息がなかった。

私はもう一度、鴨居を見上げた。

黒い線は、さっきより濃くなっていた。

一本しかなかったはずなのに、その隣に、ごく細い影がもう一つ見える。目を凝らすと、影ではなく線だった。木目の裂け目に沿って、短い黒い筋が伸びている。

私は指を折った。

一つ。

そして、二つ。

声には出さなかった。

線香の煙が、二本の染みの下で渦を巻いている。火鉢の炭がまた、ぱち、と鳴った。赤い火の奥から、誰かがこちらを見ているような気がした。

私は目を逸らせなかった。

その夜、眠る前に仏間を通った。火鉢の火はもう消えていた。灰の中央に黒い炭が沈み、触れれば崩れそうな形で残っている。祖父の椅子は空のまま、羽織だけが背に掛かっていた。

雨戸の向こうで風が鳴った。

私は鴨居を見上げた。

二本の染みは、並んでいなかった。一本は仏壇の真上にあり、もう一本は少し離れた場所から、こちらへ向かって斜めに伸びていた。まるで誰かが、暗い木の中から爪を立て、部屋の内側へ這い出ようとしているように見えた。

私は、祖父の万年筆を握っていた。

いつの間に手に取ったのか分からない。法要のあと、遺品箱から出したまま、ポケットに入れていたのだろう。軸には祖父の指の脂が染み、金具の隙間に黒い汚れが残っている。

書かれたものは消せる。

紙を破り、焼き、別の箱へ移すこともできる。

けれど、書かれなかったものは、どこへ行くのだろう。

私はその問いを、手帳の最初の頁に書こうとした。だが万年筆の先は紙に触れたまま、黒い線を引かなかった。インクが切れているわけではない。軸を振ると、ペン先の奥で液体が重く動く音がした。

それでも文字は出なかった。

仏間の鴨居で、二本の染みだけが、暗がりの中に残っていた。

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