第8話 旧倉庫の記録表

旧倉庫の扉を開けると、雨の匂いに混じって、湿った段ボールと古い布の匂いが押し寄せてきた。

昼間でも薄暗い場所だった。屋根の低いベンチ裏に建てられた倉庫は、照明の光をほとんど受け入れない。外では雨が降り続いているのに、中へ入ると音が遠くなり、代わりに天井を伝う水の滴る音が近くなる。

私はスマートフォンのライトを点け、黒川先生から渡された記録表の束を抱え直した。

「これ、全部見るのかよ」

後ろから入ってきた蒼が、入口に立ったまま眉をしかめた。濡れたスパイクの底から、床へ小さな泥の塊が落ちる。

「全部」

「大会前夜にやる仕事じゃねえだろ。紙の墓場じゃん、ここ」

「ユニフォームが紛れているかもしれないから」

「白い布が、何年も前の記録表の下で静かに余生を送ってると思うか?」

「可能性はゼロじゃない」

「お前の『可能性はゼロじゃない』は、だいたい人を帰れなくするんだよ」

蒼はぶつぶつ言いながらも、床に積まれた段ボールを脇へ寄せた。重い箱を持つときだけ、彼の口数は少なくなる。濡れた手袋を外し、箱の底を両手で支えて、崩れかけた段ボールを慎重に移動させる。

箱の側面には、油性ペンで大会名が書かれていた。

県新人戦。秋季記録会。西陵・雨都南合同練習。

文字は湿気で滲み、年号の一部は読めなくなっている。何年も前の選手たちが、誰にも呼ばれないままここに積まれていた。

私は記録表を一枚ずつめくった。

選手名、種目、順位、記録。赤い丸や線が残っているものもあれば、何の印もないものもある。勝った人間の名前も、最下位になった人間の名前も、紙の上では同じ黒さだった。

ただ、記録の欄に並ぶ数字だけが、いつまでも鮮明に見えた。

「結衣」

蒼が、少し離れた棚から呼んだ。

「これ、何だ」

彼の手に、一枚の案内紙があった。紙の端は黄色く変色し、角が何度も折られている。

西陵学園・雨都南高校対抗戦。

明日の大会ではない。数年前に作られたらしい案内だった。合同練習会、交流種目、代表選手紹介。いまの大会要項より、ずっと簡素な構成になっている。

「対抗戦って、こんな昔から続いてたんだな」

「毎年恒例だと聞いています」

「恒例って便利な言葉だよな。昔からやってるってだけで、勝たなきゃいけない理由になる」

蒼は案内紙を裏返した。

裏には、鉛筆でいくつかの書き込みが残っていた。

雨天時、選手はテントへ。  用具は倉庫へ。  無理をさせないこと。

最後の一文だけ、何度もなぞった跡があった。紙の繊維が毛羽立ち、黒鉛が細い溝へ沈んでいる。

「無理をさせないこと、だってよ」

蒼の声が、倉庫の中で低く響いた。

「今より、ちゃんとしてたのかもな」

「今だって、先生は無理をさせていません」

「先生はな」

蒼は案内紙を見たまま言った。

「周りが勝手に無理をさせるんだよ。勝て、負けるな、学校の名前を背負え、エースなら崩れるな。そういうのを、本人が自分で望んでるみたいな顔にしてさ」

綾瀬の背中が浮かんだ。

雨の観客席で顔を覆っていた手。濡れたユニフォーム。喉の奥で擦れるような呼吸。見られたと気づいた瞬間、崩れた表情を整え直した動作。

蒼は、私の顔を見た。

「また、あいつのこと考えてるだろ」

「考えてない」

「嘘。お前、嘘つくときだけ記録表を丁寧にめくる」

私は手元へ視線を落とした。紙の端を揃え、束の角を机へ軽く打ちつける。

「綾瀬さんが、誰かに何か言われたのかな」

「本人に聞けば」

「聞けると思う?」

「聞こうと思えば聞けるだろ」

「敵校のエースに、どうして泣いていたのか聞くの?」

「お前は聞きたいんじゃねえの」

「聞きたいです。でも、聞いていいのか分からない」

蒼は鼻から短く息を吐いた。いつものように笑ってごまかすかと思ったが、笑わなかった。

「それ、結衣がよく言うやつだな」

「何が」

「聞きたい。でも聞いていいか分からない。助けたい。でも余計なことかもしれない。走りたい。でも迷惑かもしれない。お前、全部を相手に決めてもらおうとするよな」

胸の奥が、細い針で触れられたように痛んだ。

「相手に決めてもらったほうが、間違えたときに責任を取らなくて済むから」

言ってしまってから、倉庫の湿気が急に重くなった。

蒼はすぐには返さなかった。彼は本気で考えると、口数が減る。ふざけるための言葉を探すことさえやめて、相手の顔を見たまま黙る。

「……それ、ずいぶん寂しい考え方だな」

「そうかもしれない」

「かもしれない、じゃねえよ」

「蒼に決めてもらえば?」

「嫌だね」

返事は早かった。

「俺だって、自分のことで精いっぱいだ。明日、走るのは俺だし、失敗するのも俺だ。お前の代わりに決めたって、結果まで代わってやれない。だから、自分で決めろよ。間違えるのが嫌なら、間違えたあとに考え直せばいい」

「簡単に言う」

「簡単じゃねえ。俺だって、決めたあとで何度も後悔してる。中学の最後の大会で、焦って前へ出て、最後にフォームを崩した。あのとき誰かが止めてくれればって、ずっと思ってた。でも、止められたら止められたで、たぶん俺は自分で走りたかったって言う」

蒼は濡れたスパイクを見下ろした。

「人に決めてもらうと、負けたときに、その人のせいにできる。楽なんだよ。でも、そんな楽な走り方、俺はもうしたくない」

私は返事をせず、記録表の束へ手を伸ばした。

そのとき、棚の隙間から紙片が一枚落ちた。

白い紙だった。湿気を吸って、端がわずかに波打っている。

拾い上げると、西陵学園の古いメッセージカードの写しだった。代表選手へ向けた短い挨拶と、練習時の注意事項。その中に、綾瀬の名前はない。けれど、同じ封筒に入っていた別の紙には、見覚えのある名前があった。

綾瀬。

同じ姓の選手名が、数年前の記録表に載っている。種目の欄には「補助員」と書かれていた。

「これ、綾瀬の家族か?」

「分からない」

「またかよ」

「同じ姓だけでは判断できない」

「お前、こういうところだけ冷静だよな」

蒼が紙へ顔を近づける。濡れた前髪から、一滴が記録表へ落ちた。

「でも、気になるんだろ」

「気になります」

「だったら調べればいい」

「調べて何になるの」

「何かになるかどうかなんて、調べる前に分かるわけねえだろ」

そのとき、封筒の底から、薄い茶色の紙が覗いているのに気づいた。

宛名はない。

封は一度開けられ、また閉じたように糊が剥がれている。中に何かが入っているらしく、持ち上げるとわずかに重かった。

「それ、開けるのか?」

「迷っています」

「珍しいな。いつもなら、持ち主と保管場所と用途を確認してから開けるだろ」

「それができないから」

「じゃあ、開けないほうがいい」

そう言いながら、蒼は封筒を取り上げなかった。

私は指先で封の端に触れた。

紙一枚で、人との距離が変わることがある。父へ言い返したいことを書いたメモを、私は何度も破って捨ててきた。走りたい。まだ諦めていない。お父さんの失敗と、私の足は違う。

書けば、渡さなければならない。渡せば、受け取られるか、拒まれるかのどちらかになる。

書かない限り、言葉は自分の中だけに置いておけた。

私は封を開いた。

中から出てきたのは、スポーツ新聞の切り抜きだった。

「西陵学園・綾瀬蓮、終盤で逆転。無敗記録を更新」

見出しの下には、ゴール直後の綾瀬の写真がある。腕を上げているわけでも、笑っているわけでもない。ただ姿勢を崩さず、前だけを見ている。周囲の選手たちが喜んでいるのに、綾瀬だけが別の場所にいるようだった。

切り抜きの裏側に、薄い紙片が重なっていた。

私はそれをつまみ上げた。

一人で抱え込むな。

たったそれだけの言葉だった。

書き始めの線は強く、後半へ進むにつれて筆圧が弱くなっている。最後の文字は、途中でためらったようにわずかに歪んでいた。

「……誰の字だ」

蒼が尋ねた。

「分からない」

「綾瀬宛てか?」

「名前は書いてない」

「でも、切り抜きと一緒に入ってる」

「そうですね」

「渡すつもりだったのか」

私は紙片を見つめた。

「たぶん。でも、渡せなかった」

「どうして分かる」

「こういう字は、渡す相手が決まっていないと書けない。でも、渡す覚悟がある人の字でもないから」

「字だけでそこまで分かるかよ」

「分かるというより、そう見えるだけ」

「便利だな、その言い方」

蒼は冗談めかしたが、目は紙から離れなかった。

誰かを案じる言葉は、命令より遅く届く。遅いぶん、深く刺さることがある。

私はその文字を見ていた。

父へ言い返したかった言葉に似ている。綾瀬へ言いたかった言葉にも似ている。蒼へいつか言わなければならないと思いながら、まだ口にできていない言葉にも似ていた。

大丈夫ではないことを見抜かれたうえで、それでも一人で抱えなくていいと言われる。

それは、慰めより苦しい。

紙片へ手を伸ばした蒼の指が、途中で止まった。

「触らないで」

思ったより強い声が出た。

蒼は手を引いた。

「悪い」

「ごめん」

「お前、謝るの早すぎる」

「どうして」

「場を丸くするために言ってるのか、本当に悪いと思ってるのか分からなくなる」

言葉が詰まった。

私は、相手が怒る前に謝る。相手が困る前に動く。相手が離れる前に、こちらから一歩下がる。そうすれば、誰も傷つかずに済むと思っていた。

けれど、それは誰にも本当の自分を渡さない方法でもあった。

「その紙、綾瀬に渡すのか」

蒼が聞いた。

「分からない」

「渡したほうがいいと思う?」

「これが本当に綾瀬さんのために書かれたものか分からない。誰が書いたのかも、どうしてここにあるのかも分からない。勝手に渡したら、余計なことになるかもしれない」

「そうやって、正しい理由が揃うまで何もしないんだな」

「蒼」

「悪い。言い方が悪かった」

蒼は入口のほうへ歩き、雨の落ちる外を見た。

「でも、言葉って、書いた時点では半分しか終わってないと思う。相手が受け取って初めて、そこに残る。届かないなら、紙に書いてもただの跡だ」

「届いたせいで、返事をしなければならなくなることもある」

「返事?」

「一人で抱え込むな、と言われたら、頼らなければいけない気がする。でも、頼り方が分からない人もいる。頼ったあとで、相手を失望させるのが怖い人もいる」

蒼は黙った。

私は紙片の端を押さえた。少し力を入れれば、簡単に破れる。なのに、この文字は何年も残っていた。

「私も、そう言われたら困ると思う」

「何を」

「一人で抱え込むなって」

「お前が?」

「はい。抱え込んでいることを認めたら、その次に何をすればいいか分からなくなるから」

蒼は、今度は私の隣まで戻ってきた。けれど、半歩以上は近づかなかった。

「次に何をするかなんて、すぐ決めなくていいだろ」

「蒼は、すぐ決めろと言うくせに」

「そりゃ、お前がいつまでも黙ってるからだよ。けど、言ったあとまで全部できる奴なんかいねえ。走りたいって言ったからって、明日いきなり結果を出せるわけじゃない。人に頼るって言ったからって、今日からうまく頼れるわけでもない。最初は、紙切れ一枚を持ってるだけでもいいだろ」

「持っているだけで?」

「捨てなかったなら、何かは変わってる」

私は紙片を折らずに、封筒へ戻した。

そのとき、封筒の底に小さな金属の感触があることに気づいた。取り出すと、西陵学園の校章を模したキーホルダーだった。表面には細かな傷があり、金具の輪に白い糸が絡まっている。

「これも関係あるのかな」

「綾瀬のものかもしれない」

「でも、どうしてここに」

「誰かが拾って、入れたとか」

「いつ、誰が」

「だから探してるんだろ」

蒼はキーホルダーを見つめた。

記録表。新聞の切り抜き。渡されなかった紙片。傷のついたキーホルダー。

どれも、単独では何も語らない。けれど並べてみると、勝った記録の裏側に、誰かの言いかけた言葉が沈んでいるように見えた。

倉庫の外で、誰かが走る音がした。

扉の隙間から、濡れたジャージの一年生が顔を覗かせる。私たちと目が合うと、彼は一度だけ息を呑んだ。

「先生が、そろそろ部室へ戻れって」

「分かった」

蒼が答える。

一年生は何か言いたそうに口を開いた。けれど、結局何も言わず、視線を逸らして走り去った。

「何か知ってる顔だった」

私が言うと、蒼は外を見たまま答えた。

「呼び止めるか?」

「今はいい」

「どうして」

「話せる状態じゃないから」

「また待つのか」

「待つ」

「お前のそういうところ、優しいんだか臆病なんだか分かんねえな」

「どちらでもいいです」

「よくねえよ。自分で分からないまま、人のことばっかり分かろうとするな」

私は答えられなかった。

紙片の文字が、雨音の隙間で何度も浮かび上がる。

一人で抱え込むな。

それは綾瀬へ向けた言葉なのかもしれない。けれど、一度読んでしまった以上、私の中から完全に消すことはできなかった。

「先生に見せます」

「全部?」

「切り抜きも、紙片も、キーホルダーも」

「証拠かもしれないから?」

「はい」

「綾瀬の弱さまで、ユニフォームの捜索材料にするなよ」

その言葉が胸へ刺さった。

「しません」

「本当に?」

「分かりません」

「またそれかよ」

「でも、分からないものを分かったふりするよりはいいでしょう」

蒼はしばらく私を見ていた。やがて、わずかに口元を緩める。

「それはそうだな。前のお前なら、タオルを渡して、考えたこと自体を忘れようとしてた」

「私は、そんなに変わった?」

「変わったというより、面倒になった」

「褒めているの?」

「褒めてる。前は扱いやすかったからな。頼めば何でもやるし、文句も言わないし、壊れそうになっても黙ってる」

「最後のは褒めていない」

「だから、今のほうがいいって言ってんだよ」

蒼は床の補給ボックスを持ち上げた。私は封筒を鞄へしまい、スマートフォンで紙片の写真を撮った。黒い文字が画面の中へ残る。

一人で抱え込むな。

その言葉を閉じ込めるように、私は封筒の口を折った。

倉庫を出ると、雨は少し弱まっていた。外気は冷たく、湿った土の匂いが肺の奥へ入り込んでくる。蒼は補給ボックスを抱えたまま、私の歩幅に合わせて歩いていた。

「さっきの紙、誰が書いたと思う?」

「さあな」

「綾瀬さんの仲間かな」

「たぶん」

「どうして渡せなかったんだろう」

蒼は水たまりを避けながら、少し考えた。

「渡したら、綾瀬が何かを認めなきゃいけなくなるからじゃねえの」

「何を」

「苦しいとか、怖いとか、勝てないかもしれないとか。そういうのを言葉にして受け取ることになる」

「それが怖いなら、書かないほうがいいのかな」

「でも、書かなきゃ、相手が一人かどうかも分からない」

蒼はそこで私を見た。

「お前も書けばいいんじゃねえの」

「何を」

「親父さんに言いたいこと。綾瀬に言いたいこと。俺に言いたいこと。誰にも渡さなくていい。まず、自分の中に何があるか見ろよ」

鞄の中のメモ帳へ、手を伸ばしかけた。

けれど、まだ取り出せなかった。自分の文字を見るのが怖かった。

部室の明かりが見えてくる。窓の内側では、部員たちが互いの顔を探るように立っていた。松原先輩のロッカーは、まだ開いたままだろう。白いユニフォームが戻らない限り、疑いは消えない。

私は鞄の底へ手を添えた。

紙片の薄さが、指先へ伝わる。

「先生に見せる」

「そうしろ」

「そのあと、綾瀬さんへ返すかどうか考える」

蒼は頷いた。

「それでいい」

部室の扉を開ける。

湿った靴下とスポーツドリンクの匂いが、また喉の奥へまとわりついた。部員たちの視線がこちらへ集まる。蒼の抱えた補給ボックス。私の濡れた鞄。その中にある、誰かが渡せなかった言葉。

黒川先生は窓際で、古い記録ノートを開いていた。赤ペンを持ったまま、私を見る。視線は顔ではなく、鞄へ落ちた。

私は封筒を取り出した。

「先生。旧倉庫で見つけました」

先生はすぐには受け取らなかった。

「何が入っている」

「西陵学園の古い新聞記事と、紙片と、キーホルダーです。綾瀬さんに関係するものかもしれません」

「かもしれない、か」

「はい。まだ断定できません」

先生は私の手元を見た。

「持ち主へ返すつもりは」

私は一拍置いた。

「分かりません」

「考えている途中?」

「はい」

黒川先生は封筒を受け取った。紙片を取り出し、そこに書かれた文字を読む。

「一人で抱え込むな」

声は低く、感情の起伏がなかった。

けれど、その一言が部室の中央へ置かれた瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。

先生は紙片を封筒へ戻した。

「これは、誰かの弱さを探すための道具ではない」

私は頷いた。

「分かっています」

「本当に?」

問い返され、私は正直に答えた。

「分かりません。でも、道具にしたくないと思っています」

先生は私をしばらく見た。

それから、封筒を返してきた。

「なら、忘れずに考えなさい」

「はい」

紙一枚の重さしかない封筒が、濡れたスパイクより重く掌へ沈んだ。

窓の外で、雨脚が弱まっていた。照明に照らされたグラウンドの水たまりが、風もないのに細かく揺れている。その向こうを、濃い色の練習着が歩いていった。白いリストバンドが、一瞬だけ光る。

綾瀬蓮の姿だった。

私は窓辺へ近づきかけた。けれど、扉を開けることはしなかった。

まだ、行くべき時ではない。

ただ、鞄の中の紙片へ手を添えた。

一人で抱え込むな。

その言葉を、今すぐ彼へ渡すことはできない。

けれど、もう見なかったことにはしない。誰かが飲み込んだ言葉も、渡せなかった紙も、走りたいと思いながら黙っていた時間も、消えてしまったわけではない。

濡れた土の下へ沈み、誰にも気づかれないまま、足を置く場所を変えている。

私は開いたままの松原先輩のロッカーへ向かって歩き出した。

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