第9話 父からの着信

帰り支度を始めたころ、部室の雨音が少しだけ遠くなった。
窓は開いたままだった。湿った空気が外へ逃げる代わりに、夜の冷たさが床を這って入ってくる。濡れたスパイクを並べ、使い終えたタオルを回収し、補給ボックスの中身を名簿と照合する。やることはまだ残っていたが、部員たちの動きには、先ほどまでの張りつめた硬さがなかった。
綾瀬から聞いた話を黒川先生へ伝えたあと、西陵学園の控え室を確認するため、先生が先方の顧問へ連絡を入れていた。見覚えのない白い布が本当に松原先輩のユニフォームなのかは、まだ分からない。それでも、盗難と決めつけていた空気は、ほんの少しだけ形を変えていた。
松原先輩は、開いたままのロッカーの前で立ち尽くしている。蒼はその隣で、濡れたスパイクの泥を落としていた。いつもなら「まだ帰らねえのか」と言う時間なのに、今日は何も言わない。
私は名簿の端を揃え、補欠欄にある自分の名前へ目を落とした。
神崎結衣。
その横には、明日の種目も、招集時刻も書かれていない。ただ、補欠という文字だけが、名前の右側に残っている。
スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見た瞬間、胸の奥が一段だけ冷えた。
神崎修一。
父からの着信だった。
一度、呼び出し音が止まるまで待とうかと思った。けれど、部室の中で音だけが妙に大きく響き、蒼がこちらを見た。彼は何も言わなかった。ただ、泥を擦っていた布を膝の上へ置いた。
私はロッカーの扉を半分だけ閉め、部室の隅へ移動した。
「もしもし」
『まだ学校か』
「うん。片づけをしてる」
『大会前夜に、いつまで残るつもりだ』
「ユニフォームのことがあるから。まだ、確認が終わってない」
『それは先生に任せろ』
「先生にも任せてる。でも、私にもやることがある」
電話の向こうで、父が一度息を止めた。
そのわずかな間を、私は知っている。父が怒りを飲み込むときの間だ。怒鳴ることはない。声を荒げることもない。その代わり、言葉が短くなる。
『明日、お前は走らないんだろうな』
「出場予定はない」
『予定の話はしていない。走らないんだな』
部室の中央で、誰かが椅子を引いた。金属の脚が床を擦り、音が伸びて消える。
私は窓の外を見た。
雨は細くなっていた。照明に照らされた水たまりの向こうで、白いレーンがところどころ見え始めている。溶けかけた境界線のようだった。
「まだ決めてない」
『何をだ』
「明日、走らないかどうか」
『結衣』
父の声が低くなった。
『お前は補欠だ。出る選手は決まっている。そこへ無理に割り込む必要はない』
「無理に割り込むつもりはないよ」
『なら、なぜ決めていない』
「走りたいから」
言葉にしたあと、部室の音が一つずつ遠ざかった。
父はすぐには何も言わなかった。
私はスマートフォンを耳へ押し当てたまま、空いたロッカーの扉を見ていた。白いユニフォームがなくなった棚には、畳み目の跡だけが残っている。その跡は、布が戻れば見えなくなるのかもしれない。けれど、一度そこにあったものが消えたことは、なかったことにはならない。
『走りたいだけで、続けられるほど甘くない』
「知ってる」
『記録が伸びないこともある』
「知ってる」
『故障すれば、そこで終わることもある』
「それも知ってる」
『なら、どうして――』
「お父さんは、壊れることしか話さない」
自分の声が震えた。けれど、途切れなかった。
「走れなくなったこと。故障したこと。努力しても残らなかったこと。私が走る話をすると、いつもそれを聞かせる。だから、走りたいと思うだけで悪いことをしているみたいになる」
『お前を悪いと言っているんじゃない』
「でも、そう聞こえる」
『聞こえ方の問題だ』
「違う。言い方の問題だよ」
父の呼吸が浅くなった。
『夢を見るのは勝手だ。だが、夢だけで身体は守れない。進路もある。お前は成績を落としてまで陸上をする必要はない』
「成績を落とすなんて言ってない」
『言っていないだけで、同じことをするつもりだろう』
「私が何をするか、先に決めないで」
電話の向こうで、何かを置く音がした。硬いものが机へ触れる音だった。父は感情が強くなると、物を並べ直す。昔からそうだった。玄関の靴も、工具箱の中身も、新聞の束も、父は黙って整える。
『お前は、自分の身体を分かっていない』
「分かってる」
『分かっていない。走りたいと思っているときほど、人間は痛みを見落とす。俺はそれを知っている』
「だからって、私までお父さんと同じになるとは限らない」
『同じになるとは言っていない』
「言ってるのと同じだよ。お父さんが壊れたから、私も壊れるかもしれない。お父さんが夢を失ったから、私も夢を見るべきじゃない。そうやって、私の足をお父さんの過去に置いていく」
『結衣』
今度の呼び方には、叱るときの硬さがなかった。
私はそこで初めて、父の声の奥にあるものを聞いた。怒りではない。焦りだった。私がどこかへ行ってしまうことへの、言葉にならない焦り。
けれど、それを優しさだと受け取って黙ることは、もうできなかった。
「私、明日、走るかもしれない」
『……誰が許可した』
「まだ誰にも許可を取ってない」
『勝手なことをするな』
「勝手じゃない。先生に相談して、自分で決める」
『お前には判断できない』
「できないかもしれない。でも、できないからって、お父さんに決めてもらうつもりはない」
電話の向こうで、雨の音がした。
父のいる場所にも雨が降っているのかもしれない。窓の外を眺めながら、古いスパイクの底を確かめている父の姿が浮かんだ。走れた頃の記録を、何度も見返してしまう人。娘の記録を褒める代わりに、靴底の減り方を確かめる人。
『中途半端なら、辞めてもいい』
父は言った。
何度も聞いてきた言葉だった。
けれど、今夜は少し違って聞こえた。突き放しているのではなく、続けるなら自分で選べという、父なりの不器用な線引きだった。
私はすぐには答えなかった。
「辞めるかどうかも、私が決める」
『……そうだな』
父の返事は、あまりにも小さかった。
私は聞き間違えたのかと思った。
「お父さん?」
『ただし、痛みを隠すな。走るなら、身体の状態を見ろ。速くなりたいからといって、痛みを無視するな。誰かに止められたくないなら、自分で止まる判断を覚えろ』
言葉は相変わらず現実的だった。夢の話をしているのに、父は夢ではなく、足首や膝や筋肉の話をする。
それでも今は、その硬さが少しだけありがたかった。
「分かった」
『分かっていない顔をしている』
「電話で顔は見えないでしょう」
『声で分かる』
「……お父さんも、無理しないで」
しばらく沈黙が続いた。
父が本気で感情を動かされたとき、逆に黙ることを私は知っている。今も、何かを言い返そうとしているのだろう。けれど、言葉にできないまま、呼吸だけが電話の向こうに残った。
やがて父は、低い声で言った。
『明日の朝、競技場まで送る』
「来るの?」
『送るだけだ。観るとは言っていない』
「分かった」
『それと』
「何」
『古い靴、まだ捨てていないだろうな』
私は足元を見た。鞄の底に、走るのをやめようか迷った夜に履いていた練習靴が入っている。雨の日には使わない。底が減っていて、紐も少し色褪せている。それでも、捨てられなかった。
「捨ててない」
『そうか』
父はそれだけ言った。
通話が切れたあと、部室の騒がしさがゆっくり戻ってきた。
冷蔵庫の低い音。窓から入り込む雨の匂い。誰かがボトルの蓋を閉める音。蒼が布を畳む音。全部が、さっきまで遠くの水底にあったようだった。
私はスマートフォンを下ろした。
蒼がこちらへ歩いてくる。何を聞いたのか、どこまで聞こえていたのか、たぶん私には分からない。彼はいつものように、わざと雑な息を吐いた。
「親父さん、相変わらず優しくねえな」
「うん」
「でも、送ってくるって?」
「うん」
「それ、かなりの進歩じゃねえの」
「そうかな」
「お前の家では、車で送るのが告白なのかもな」
「変なこと言わないで」
「じゃあ、何だよ。『頑張れ』よりは具体的だろ」
蒼はそう言いながら、私の前へ小さな水筒を差し出した。
「飲め」
「さっき飲んだ」
「喉、乾いてる」
「どうして分かるの」
「電話のあと、息が浅い」
私は水筒を受け取った。
冷たい水が喉を通り、鉄のような味を少しだけ洗い流す。少しずつ飲む。走り終えたあとと同じ飲み方だった。
「蒼」
「何」
「明日、もし私が走ったら」
「走ったら?」
「応援してくれる?」
蒼は眉を上げた。
「お前、今さら何言ってんだよ。走るなら応援するに決まってるだろ」
「私より速い人が走るべきだと思ったら?」
「それでも応援する。走るべきかどうかを決めるのは俺じゃない」
「負けたら?」
「負けたら、負けたって言う。慰める気はない」
「ひどい」
「嘘くさい励ましが嫌いなんだろ、お前も」
蒼はそこで、少しだけ視線を落とした。
「でも、負けたからって、走ったことまで無駄にはしない。俺はそういうふうに言う。必要ならな」
「必要なら、か」
「先に言うと、安っぽくなるから」
私は水筒の蓋を閉めた。
「蒼は、明日勝ちたい?」
「勝ちたい」
「怖くても?」
「怖くても」
「負けても?」
「負けても、勝ちたいと思って走る」
その言葉は、以前聞いたときより近く感じた。
勝ちたい気持ちと、誰かを大切に思う気持ちは、同じ場所にあってもいい。敵の涙を見たからといって、勝負を捨てる必要はない。誰かを支えることと、自分のために走ることも、どちらか一つを選ばなければならないわけではない。
私は鞄から、古いストップウォッチを取り出した。
液晶には、まだ数字が表示されている。
00:00:00。
蒼が覗き込んだ。
「それ、動くのか?」
「たぶん」
「たぶんばっかだな、お前」
私はボタンを押した。
数字が変わった。
00:00:01。
一秒目が、静かに始まった。
部室の入口では、黒川先生が濡れた部旗を畳んでいた。私と目が合うと、先生は視線を一度、私の足元へ落とした。それから、短く言った。
「明日の朝、走る靴を持ってきなさい」
私は息を止めた。
「私が、ですか」
「他に誰がいる」
「でも、出場種目は――」
「決めるのは、明日の状態を見てから」
「走ってもいいんですか」
黒川先生は、すぐには答えなかった。部旗の端を揃え、雨水の染みた布をきちんと折り重ねる。
「走りたいなら、走る準備をしなさい。走らないなら、走らない準備をしなさい。どちらも、自分で選ぶこと」
「先生は、止めないんですか」
「止める必要があるときは止める」
「それは、私が自分で判断してもですか」
先生は私を見た。
「自分で決めた人間は、止められたときも理由を聞ける。決めていない人間は、誰かのせいにする」
短い言葉だった。
でも、今の私には十分だった。
私は鞄の中の古い練習靴へ触れた。父の言葉が残っている。壊れたら終わりだ。無茶をするな。痛みを隠すな。
それらは、私を閉じ込める壁ではなかった。少なくとも、もうそういうふうにしか聞こえないわけではない。壁の向こうへ出るために、足元を確かめろと言われているのだと思えた。
蒼が、私の肩へ軽く拳を当てた。
「明日、遅刻すんなよ」
「蒼こそ」
「俺は速いから間に合う」
「関係ないでしょう」
「関係ある。お前が走るなら、スタート地点で見てる」
「応援席では?」
「近いほうがいいだろ」
「近すぎると、気が散る」
「じゃあ、少し離れる」
その言い方が、綾瀬が選んだ距離のことを思わせた。近づきすぎず、逃げ道を塞がず、それでも見なかったことにはしない距離。
私は小さく頷いた。
「明日、行きます」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
父へ。蒼へ。黒川先生へ。あるいは、まだ雨の匂いが残る競技場の、誰もいないスタートラインへ。
部室の灯りを落とす。
最後に窓を閉めようとして、私は外を見た。
雨は、ほとんど止んでいた。濡れたグラウンドの表面に夜間照明が伸びている。水たまりの中で、白いレーンが途切れながら続いていた。
明日の朝には、この水も少しずつ引いていく。
泥は残る。靴底にも、ユニフォームにも、記録表の端にも。それでも、走る人間はその上へ足を置く。滑る場所を確かめ、呼吸を合わせ、倒れないためではなく、進むために身体を動かす。
私は窓を閉め、鞄の中の靴紐を確かめた。
ほどけてはいなかった。
けれど、明日の朝、自分の手で結び直そうと思った。
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