第7話 肩に掛けたタオル

観客席の階段を上りきったとき、雨は先ほどよりもいくぶん細くなっていた。それでも地面に溜まった水は照明を映し、動くたびに白い光が揺れて砕ける。私は補給ボックスの中から、まだ使っていない一本のタオルを取り出した。雨都南の刺繍が入った、部で使う共用のものだ。

綾瀬はまだそこにいた。

さっきと同じ、冷えた金属のベンチに腰を下ろしたまま。けれど姿勢は、もう完全に崩れていた。両肘を膝につき、濡れた前髪の下で、顎を小さく上下させている。呼吸を整えようとして、整いきらずにいる人の仕草だった。

私はタオルを持ったまま、彼の隣に立った。

声をかけなかった。かけられなかった、というほうが近いかもしれない。何か言葉にした瞬間、彼がまた姿勢を正してしまう気がしたからだ。人前では乱れない。その癖を、私はもう知っていた。

「……また、君か」

やがて綾瀬が、顔を上げずに言った。

「はい」

「戻らなくていいのか。ユニフォームを探しているんだろう」

「戻ります。でも、今はここにいます」

言ってから、自分の答えが変だと思った。両立しない二つの文を、そのまま並べただけだった。けれど綾瀬は、それ以上問い詰めなかった。

私はタオルを差し出した。

彼はすぐには受け取らなかった。濡れた指先で前髪を押さえたまま、タオルの刺繍の部分だけを一瞬見て、また視線を落とす。

「さっきも、借りた」

「別の一本です。さっきのは、もう乾かないと思うので」

「律儀だな」

「几帳面なだけです」

その言葉に、綾瀬の喉の奥で、小さく息が漏れた。笑ったのか、咳払いなのか、私には判断できなかった。

スタンドの照明が雨粒を細い針のように見せている。綾瀬の肩は、まだ細かく震えていた。寒さのせいなのか、こらえている何かのせいなのか、たぶん両方だった。私はタオルを抱えた腕をそのまま下ろさず、彼の隣に立ち続けた。急がせたくなかった。

「あなたは、勝つことだけを返し続けてきたんですか」

自分でも、唐突な問いだと思った。けれど、綾瀬は目を伏せたまま、小さく頷いた。

「それ以外に、何を返せばいい」

「分かりません」

「俺にも、分からない」

彼の声が、初めて揺れた。

「仲間は、俺が勝てば喜ぶ。負ければ、誰も責めない。だが、誰も責めないという顔が、一番こたえる。慰められているのに、慰められた分だけ、自分が情けなくなる」

「情けない、とは思いません」

「君に何が分かる」

「分かりません。でも、綾瀬さんが今ここにいることは、情けないことじゃないと思います」

綾瀬は顔を上げた。濡れた目が、照明の白さを映して光っている。涙なのか雨なのか、もう見分けがつかなかった。けれど、見分ける必要はないのかもしれないと思った。

「仲間に、本音を言ったことがありますか」

「ない」

即答だった。迷いのない、けれど乾いた声だった。

「言えば、誰かが不安になる。俺が揺らいだら、チームが揺らぐ。だから、揺らがない顔をする。それが、俺の役目だと思っていた」

「役目、ですか」

「ああ。勝つこと以外に、俺には何もない」

その言葉に、私は何かが引っかかった。勝つこと以外に何もない、という言い方が、あまりにも私自身の「役に立つこと以外に価値がない」という思い込みと重なっていたからだ。

「それ、誰かに言われたんですか。それとも、自分で決めたことですか」

綾瀬は黙った。

「前にも、似たようなことを聞かれた」

「私が聞きました。倉庫の、紙片のことで」

その言葉に、彼の肩が小さく跳ねた。

「紙片?」

「『一人で抱え込むな』と書かれた紙です。古い新聞の切り抜きと一緒に、封筒に入っていました」

綾瀬の顔から、血の気が引くのが分かった。濡れているからではない、別の色の変化だった。

「どこで、それを」

「旧倉庫です。西陵学園との対抗戦の古い資料に紛れていました」

「誰が、書いたか分かるのか」

「分かりません。字に見覚えはありません。でも、渡せなかった文字だということは分かります」

綾瀬は両手で顔を覆った。タオルはまだ、彼の手に渡っていない。

「……兄だ」

くぐもった声だった。

「兄が、西陵のOBで、昔補助員をしていた。俺が無敗を続けるようになってから、何度か手紙をくれようとしていた。だが、渡される前に、俺が避けていた。本音を聞くのが、怖かった」

「怖い、というのは」

「本音を聞いたら、俺はもう、勝つためだけの人間ではいられなくなる。弱いところを見せていい、と言われたら、どこまで弱くなっていいのか分からなくなる」

彼の声は、途切れ途切れだった。けれど、止まらなかった。

「泣いたのは、負けたからじゃない。勝てるはずだと言われて、勝つことだけを返し続けて、仲間にも兄にも、一度も本音を置けなかったからだ。今日、予選のあと、誰かに『さすが無敗だな』と言われた。その言葉が、いつもより重かった。重すぎて、立っていられなくなった」

私は頷かなかった。否定もしなかった。ただ、胸の奥にある自分の空白を思い出していた。

父の前で走る話ができないこと。マネージャーとしては機能していても、自分が何を欲しいのかになると途端に黙ってしまうこと。誰かの役に立っているあいだだけ、ここにいていいと思えること。

綾瀬の言葉は、そのどれにも名前をつけないまま、私の内側に沈んでいった。

「綾瀬さんは、兄さんに何て言いたかったんですか」

「分からない。今も分からない」

「でも、言いたいことがあったから、避けていたんですよね」

綾瀬は顔を上げた。

「……ありがとう、と言いたかったのかもしれない。それとも、もう見ないでくれ、と言いたかったのかもしれない。どちらも、同じくらい本当だ」

「両方、言えばいいと思います」

「両方は、矛盾している」

「矛盾していても、本当なら、両方言っていいと思います。私も、父にそうです。走りたいとも思うし、もう走ることを諦めたと思われたくもない。でも、現実を見ろと言われるのも分かる。両方、本当に嫌で、両方、本当に大事です」

綾瀬は、しばらく黙っていた。

雨の音だけが、スタンドの屋根を打っていた。遠くでトラックの白線が、照明の下でかすかに滲んでいる。

「君の父親も、走っていたのか」

「はい。故障で辞めたそうです。だから私には、走ることを止めます」

「止められて、どうしている」

「止められたまま、ここまで来ました。でも、もう止められたままではいたくないと思っています」

綾瀬がタオルへ手を伸ばした。今度は、ためらわなかった。濡れた布を受け取り、首に回す。肩の力が、少しだけ抜けるのが見えた。大きな変化ではなかった。けれど私には分かった。人は、ひとつ本音を口にしただけで、足元の土がほんの少し変わることがある。

「明日、走れるか」

「分かりません。でも、走りたいと思っています」

「それだけで、十分だ」

綾瀬は立ち上がった。今度は、一度で立てた。タオルで顔を拭い、濡れた前髪を軽く払う。姿勢を整える仕草は、さっきまでと同じだった。けれど、その整え方には、何かが違って見えた。隠すためではなく、次へ進むための整え方に見えた。

彼は立ち上がる前に、観客席の向こう、黒いトラックの線を見た。明日のレースに戻る顔だった。

「結衣」

「はい」

「兄に、手紙を書く。渡せるかどうかは、分からない。でも、書く」

「それで、十分だと思います」

「さっき、君が言った言葉だな」

「はい」

綾瀬の口元が、わずかに動いた。今度は、はっきりと笑ったのだと分かった。

「君は、変わっている」

「よく言われます」

「今度は、褒めている」

彼はそう言って、観客席の出口へ歩き出した。濡れたスパイクが金属の階段を踏むたび、乾いた音が響く。数段下りたところで、綾瀬は振り返らずに言った。

「紙片は、持っていてくれ。渡す時期は、俺が決める」

「分かりました」

「それと」

彼の足が止まった。

「ユニフォーム、お前たちのチームの」

「はい」

「心当たりがある。西陵の控え室の隅に、見覚えのない白い布が置かれていた。誰かが、間違えて持ち帰ったのかもしれない」

息が止まった。

「本当ですか」

「確かめていないから、確信はない。だが、戻ったら調べる」

「ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない。俺が、今まで何も見ていなかっただけだ」

綾瀬は雨の中へ歩き出した。濃い色の練習着が、照明の下で一瞬だけ輪郭を濃くし、それからまた夜へ溶けていく。

私は彼を慰めるためでも、励ますためでもなく、ただ見送った。

タオルを一本渡しただけなのに、何か大きなものを受け取ったような気がしていた。手の中の補給ボックスは、来たときよりも軽く感じた。けれど、胸の中にあるものは、重くなっていた。重さの質が、変わっていた。

雨は、まだ降り続いている。

けれど、さっきまでとは違って聞こえた。雨音の底に、何か明るい予感のようなものが混じっていた。

私は観客席の階段を下りた。部室へ戻らなければならない。ユニフォームの手がかりを、黒川先生に伝えなければならない。やることは、まだたくさんある。

それでも、足取りは軽かった。

誰かの涙を見て、自分の弱さを恥じなくなった。誰かの本音に触れて、自分の本音も、少しだけ言葉にできるようになった。

雨上がりの匂いが、もう遠くに香り始めていた。

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