第6話 紙片の文字

旧倉庫の扉を開けると、雨の匂いに混じって、湿った紙と古い布の匂いが押し寄せてきた。

さっきよりも暗い。照明の届かないベンチ裏では、屋根を打つ雨音が低くこもり、外の競技場が遠い場所にあるように感じられる。私はスマートフォンのライトを点け、蒼の後ろから中へ入った。

「足元、気をつけろ。ここ、段ボールが腐ってる」

蒼が言った。

「見れば分かる」

「見て分かるなら、さっきから三回も同じ箱にぶつかるなよ」

「ぶつかってない。避けているだけ」

「避け方が下手なんだよ」

蒼は口ではそう言いながら、私の前に積まれた箱をいくつか脇へ動かした。重いものを持つときだけ、彼は冗談を言わなくなる。濡れた手袋を外し、段ボールの底を両手で支える。箱の側面には、何年も前の大会名が油性ペンで書かれていた。

県新人戦。秋季記録会。西陵・雨都南合同練習。

文字は湿気で滲み、年号の一部が読めなくなっている。

私は手帳を開き、見つけたものを時刻と場所ごとに書き込んだ。旧倉庫の入口付近、泥の線なし。棚の下、古いゼッケン多数。西側の段ボール、濡れあり。簡易テントから続いていたらしい擦過痕は、倉庫の手前で途切れている。

書き終えると、蒼が横から覗き込んだ。

「お前、こんなときまで記録するのかよ」

「忘れないため」

「忘れたっていいだろ。ユニフォームが見つかれば」

「見つからなかったとき、何が足りなかったのか分からなくなる」

「見つからない前提で考えるなよ」

「前提じゃない。可能性」

「そういうところが、先生に似てきたな」

その言葉に、私はペンを止めた。

黒川先生は、見たものをすぐには信じない。泥の跡を見ても、誰かが運んだと決めつけない。選手の顔色を見ても、疲れているとは言わず、まず足元を見る。答えを急がず、事実を一つずつ置いていく。

私はその真似をしているだけだ。けれど、本当に見ているのは、ユニフォームの行方だけではないのかもしれない。

棚の上に、古い大会パンフレットが斜めに積まれていた。私は一冊ずつ引き抜き、表紙と背表紙を確かめる。紙が触れ合うたび、乾いた音がする。湿っているのに、音だけが妙に乾いていた。

「これ、何だ」

蒼が、奥の棚から一枚の紙をつまみ出した。

西陵学園との対抗戦案内。

第十三回、と印字されている。明日の大会の案内ではない。数年前のものらしく、用紙の端は黄ばんでいた。学校名の下に、合同練習会、交流種目、代表選手の紹介という文字が並んでいる。

「対抗戦って、こんな昔からやってたんだな」

「毎年恒例だと聞いています」

「俺たちが勝手に因縁を背負わされてるだけじゃねえか」

蒼は紙面を眺めながら、鼻で笑った。

そこには、当時の両校の主力選手の名前が載っていた。誰も知らない名前ばかりだ。けれど、記録欄には赤い丸が幾つもついている。誰かが後から書き足したものらしい。

その中に、ひとつだけ見覚えのある姓があった。

綾瀬。

私は紙へ顔を近づけた。年齢も種目も違う。綾瀬蓮の家族なのか、偶然同じ姓なのかは分からない。けれど、その名前の横には、走者ではなく補助員と書かれていた。

「綾瀬の親かもな」

蒼が言った。

「分からない」

「また分からない」

「本当に分からないから」

「お前、最近それを便利に使いすぎ」

私は紙を裏返した。裏には、鉛筆で短いメモが残っていた。

雨天時、選手はテントへ。 用具は倉庫へ。 無理をさせないこと。

最後の一文だけ、何度もなぞった跡がある。紙の繊維が毛羽立ち、鉛筆の黒が溝へ沈んでいた。

「無理をさせないこと、だってよ」

蒼が言った。

「今より、ちゃんとしてたのかもな」

「今だって、先生は無理をさせていません」

「先生はな」

蒼は紙を見たまま、声を落とした。

「周りが勝手に無理をさせるんだよ。勝て、負けるな、学校の名前を背負え、エースなら崩れるな。そういうのを全部、本人が自分で言ってるみたいな顔にしてさ」

綾瀬の背中が、脳裏に浮かんだ。

雨の観客席で、顔を覆っていた手。濡れたユニフォーム。喉の奥で擦れるような呼吸。見られた瞬間、何もなかったように姿勢を整えた身体。

私は紙を折らずに、そっと机の上へ置いた。

「綾瀬さんは、誰かに何か言われたのかな」

「本人に聞けば」

「聞けると思う?」

「聞こうと思えば聞けるだろ」

蒼はそう言ったが、すぐに目を逸らした。実際には、彼も綾瀬へ踏み込むことの難しさを分かっているのだと思う。敵校のエースに声をかける理由など、本来ならない。勝負の前夜に相手の弱さを探るのは、卑怯と呼ばれてもおかしくない。

それでも私は、あの涙を見なかったことにできなかった。

棚の奥に手を伸ばしたとき、指先へ布の端が触れた。引き出してみると、古いゼッケンが何枚も重なっている。その下に、薄い茶色の封筒が挟まっていた。

宛名はない。

表面には、雨に濡れて乾いたような波打ちが残っている。封は一度開けられ、また閉じたらしい。糊の部分が剥がれかけていた。

「それ、開けていいのか?」

蒼が尋ねた。

「迷っています」

「お前にしては珍しいな。いつもなら、開ける前に用途と所有者と保管場所まで調べるだろ」

「それができないから」

「じゃあ、開けないほうがいい」

蒼はそう言いながら、封筒を私から取り上げなかった。

私は封筒を持ったまま、紙の重さを確かめた。中に何かが入っている。厚みはほとんどない。けれど、紙一枚で人の距離が変わることを、私は知っていた。

父へ言い返したいことを、何度もメモ帳へ書いたことがある。走りたい。まだ諦めていない。お父さんの失敗と私の足は違う。どの言葉も、書いたあとには破って捨てた。言葉にすれば、相手へ渡さなければならない。渡せば、受け取られるか、拒まれるか、どちらかになる。

書かない限り、言葉は自分の中だけに置いておける。

私は封筒の口へ指を入れた。

中から出てきたのは、スポーツ新聞の切り抜きだった。

「西陵学園・綾瀬蓮、終盤で逆転。無敗記録を更新」

見出しの下に、ゴール直後の綾瀬の写真がある。腕を上げているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、姿勢を崩さず、前だけを見ていた。周りの選手たちが喜んでいるのに、綾瀬だけが別の場所にいるように見える。

切り抜きの裏には、別の紙が重なっていた。

薄く、白い紙片だった。

私は指先でつまみ上げた。

そこには、短い文字が残っていた。

一人で抱え込むな。

たったそれだけだった。

字は整っていない。書き始めの「一」が強く、二画目以降は急いでいる。最後の「な」は、途中で筆圧が落ちていた。誰かに渡すつもりで書いたのに、渡すところまで行けなかったような文字だった。

蒼が横から覗き込んだ。

「……誰の字だ」

「分からない」

「綾瀬宛てか?」

「名前は書いていない」

「でも、切り抜きと一緒に入ってた」

「そうですね」

「いつのだよ」

「新聞の日付は、去年の秋です」

蒼は紙片を見つめたまま、口を閉じた。軽口を挟む余地がないとき、彼は急に静かになる。指先だけが、無意識にゼッケンの端をこすっていた。

私は紙片を裏返した。

何もない。

けれど、指先に残った筆圧の跡が、紙の裏側へわずかに浮いている。強く書かれた文字だけが、紙の向こうへ沈んでいた。

一人で抱え込むな。

その言葉は、私の中にも覚えがあった。

父へ言い返したかった言葉と似ている。綾瀬に言いたかった言葉とも似ている。蒼へ、いつか言わなければならないと思いながら、まだ口にできていない言葉にも似ていた。

誰かに「大丈夫」と言われるより、そのほうが苦しい。大丈夫ではないことを見抜かれたうえで、それでも一人で抱えなくていいと言われるからだ。

私は紙片を机の上へ置いた。

「お前、顔が怖い」

蒼が言った。

「怖い?」

「怒ってるみたいな顔。紙に」

「紙に怒っているわけじゃない」

「じゃあ、何に怒ってる」

私は答えなかった。

紙片の文字に、というより、誰かがこれを書いたのに、届かなかったことに腹が立っていた。綾瀬が一人で抱えていたことにも。その言葉を書いた人間が、渡すのを諦めたことにも。自分が同じように、言いたいことを何度も飲み込んできたことにも。

蒼が、紙片へ手を伸ばした。

「触らないで」

声が強くなった。

蒼の指が止まった。

私はすぐに後悔した。彼は盗もうとしたわけではない。ただ、そこに何が書かれているのか確かめようとしただけだ。

「悪い」

蒼が先に言った。

「勝手に触ろうとした」

「私も、ごめん」

「お前が謝るの早いの、たまにむかつく」

「どうして」

「本当に悪いと思ってるのか、場を丸くするために言ってるのか分かんなくなる」

その言葉に、返事が詰まった。

蒼は倉庫の入口へ歩き、半分開いた扉の向こうを見た。雨はまだ降っている。屋根から落ちる水が、細い鎖のように地面へ続いていた。

「結衣」

「何」

「その紙、綾瀬に渡すのか」

「分からない」

「渡したほうがいいと思う?」

私は紙片を見下ろした。

「これが本当に綾瀬さんのために書かれたものかも分かりません。誰が書いたのかも、なぜここにあるのかも分からない。勝手に渡したら、余計なことになるかもしれない」

「そうやって、正しい理由が揃うまで何もしないんだな」

「蒼」

「悪い。言い方が悪かった」

蒼は頭を掻いた。濡れた髪から、小さな水滴が落ちる。

「でも、俺は、正しいかどうかより、届くかどうかだと思う。言葉って、書いた時点では半分しか終わってない。相手が受け取って、初めて残る。届かないなら、紙に書いてもただの跡だ」

「届けば、相手が楽になるとは限らない」

「それでも、届かないよりはましだろ」

「そうかな」

「違うか?」

「届いたせいで、相手が返事をしなければいけなくなることもある。期待に応えなければいけなくなることもある。『一人で抱え込むな』と言われたら、誰かに頼らなければいけない気がする。でも、頼り方が分からない人もいる。頼ったあとで、相手を失望させるのが怖い人もいる」

蒼は黙った。

私は紙片を指先で押さえた。薄い紙は、少し力を入れただけでたわむ。破ろうと思えば、簡単に破れる。それなのに、この文字をここまで残してきた。

「私も、言われたら困ると思う」

「何を」

「一人で抱え込むなって」

「お前が?」

「はい」

「もう十分抱えてるだろ」

「だから、困るんです。抱え込んでいることを認めたら、次に何をすればいいか分からなくなるから」

蒼は入口から戻ってきた。さっきより近い。けれど、今度は半歩を詰めなかった。私が逃げなくて済む距離を、初めて選んだように見えた。

「次に何をするかなんて、すぐ決めなくていいだろ」

「蒼は、すぐ決めろと言うくせに」

「そりゃ、いつまでも黙ってるからだよ。けど、言ったあとまで全部できる奴なんかいねえ。走りたいって言ったからって、明日いきなり結果を出せるわけじゃない。人に頼るって言ったからって、今日から上手く頼れるわけじゃない。最初は、紙切れ一枚を持ってるだけでもいいだろ」

「持っているだけで?」

「それを捨てなかったなら、何かは変わってる」

私は紙片を折らずに、封筒へ戻した。

その動作を見て、蒼は何も言わなかった。

封筒の底には、さらに別のものが入っていた。小さなキーホルダーだった。西陵学園の校章を模したものらしく、金属の表面に細かな傷がある。綾瀬が持っていると聞いた、仲間から渡された古いキーホルダーに似ていた。

「これも関係あるのかな」

私が言うと、蒼は覗き込んだ。

「綾瀬のものかもしれない」

「でも、ここにある」

「誰かが拾って、封筒に入れたとか」

「いつ、誰が」

「だから探してるんだろ」

蒼はキーホルダーを見つめた。

金具の輪に、細い白い糸が絡まっている。タオルの端を縫っていた糸のようにも見えるが、私は断定しなかった。切り抜きも、紙片も、キーホルダーも、ここにある理由は分からない。

分からないものを分からないまま並べていく。

それが、今の私にできる唯一の捜索だった。

倉庫の外で、誰かが走る音がした。

蒼が反射的に振り返る。私は紙片を封筒へ戻し、切り抜きとキーホルダーをその上へ重ねた。扉の隙間から見えたのは、濡れたジャージの一年生だった。彼は倉庫の前で一度足を止め、こちらを見た。

「先生が、そろそろ部室に戻れって」

「分かった」

蒼が返す。

一年生は何か言いたそうに口を開いたが、結局、視線を逸らして走り去った。

私はその呼吸を聞いていた。浅い。急いでいるというより、気まずさを抱えているときの息だった。

「何か知ってる顔だった」

私が言うと、蒼は扉の向こうを見た。

「呼び止める?」

「今はいい」

「どうして」

「彼が話せる状態ではないから」

「また待つのか」

「待つ」

「お前のそういうところ、優しいんだか臆病なんだか分かんねえな」

「どちらでもいいです」

「よくねえだろ。自分で分からないまま、人のことばっかり分かろうとするなよ」

私は返事をしなかった。

雨の音が、倉庫の天井を叩いている。紙片に書かれた文字が、音の間で何度も浮かび上がった。

一人で抱え込むな。

私はその言葉を、誰かへの忠告だと思っていた。けれど、今は自分にも向けられているような気がした。綾瀬のために書かれたものかもしれない。別の誰かへ渡すはずだったものかもしれない。それでも、一度読んでしまった以上、私の中から完全に消すことはできない。

蒼が、私の手元を見た。

「持って帰るのか」

「先生に見せます」

「全部?」

「はい。キーホルダーも、切り抜きも」

「紙片まで?」

「証拠かもしれないので」

「証拠って言うと、急に事件みたいになるな」

「実際、ユニフォームがなくなっています」

「でも、綾瀬の泣き顔まで証拠にするなよ」

その言葉で、胸が少し痛んだ。

私は紙片を封筒へしまいながら、首を振った。

「しません」

「本当か?」

「綾瀬さんのことを、ユニフォームの捜索材料にはしません」

「じゃあ、何だよ」

「分かりません」

蒼は呆れたように息を吐いた。

「またそれか」

「でも、分からないものを分かったふりするよりはいいでしょう」

「それはそうだけどな」

蒼は封筒を覗き込んだ。

「ただ、あの紙の字、誰かが本気で書いたのは分かる」

「うん」

「渡せなかったとしても、書いた奴は、綾瀬に一人でいてほしくなかったんだろ」

「そうだと思う」

「だったら、綾瀬が一人で泣いてるのを見たお前が、何もしないのは同じじゃねえの」

問いかけに、すぐ答えられなかった。

私は綾瀬へタオルを渡した。けれど、それ以上は尋ねなかった。泣いた理由も、紙片のことも、仲間へ何を言えずにいるのかも。聞かないことが彼を尊重することだと思っていた。

けれど、聞かないことは、見なかったふりと同じになる場合もある。

「何かをするって、聞き出すことだけじゃないと思います」

私は言った。

「そばにいることも、タオルを渡すことも、相手が自分で話すまで待つことも、何かのうちです。でも、待っているだけでいいのかは分かりません」

蒼は私を見た。

「それを考えてる時点で、前よりはましだろ」

「前より?」

「前のお前なら、考える前にタオルを渡して、考えたこと自体を忘れようとしてた」

私は封筒を握った。

湿気を吸った紙の感触が、掌へ残る。

「蒼は、私が変わったと思う?」

「変わったというより、面倒になった」

「それは褒めているの?」

「褒めてる。前は扱いやすかったからな。頼めば何でもやるし、文句も言わないし、勝手に壊れそうになっても黙ってるし」

「最後のは褒めていない」

「だから、今のほうがいいって言ってんだよ」

蒼はそう言って、床に置いていた補給ボックスを持ち上げた。重さを確かめるように一度だけ腕を下げ、それから私を見る。

「帰るぞ。先生に見せるんだろ」

「うん」

「その前に、紙片の写真を撮っとけ」

「どうして」

「濡れたら読めなくなる。お前、紙を大事にするくせに、雨の日の管理だけ雑なんだよ」

言われて、私はスマートフォンを取り出した。紙片を机の上へ置き、ライトを当てる。黒い文字が画面に映る。

一人で抱え込むな。

写真を撮ったあと、私は紙片を封筒へ戻した。最後に、切り抜きの裏をもう一度見た。端のほうに、細い鉛筆の跡が残っている。

日付だった。

明日の大会と同じ日付。一年前のものだ。

その横に、消しきれない数字がある。綾瀬の自己ベストらしい。けれど、数字の下には、誰かが強く線を引いていた。記録を讃える線ではなく、取り消すような線だった。

私は指で触れずに、目だけで追った。

去年の同じ日、綾瀬は勝った。勝って、記録を残して、新聞に載った。けれど、その裏側には、誰かが「一人で抱え込むな」と書いた紙を渡せずに残した。

何があったのかは、まだ分からない。

ただ、無敗という言葉の裏に、記録表へ載らない時間が積もっていることだけは見えた。

旧倉庫を出ると、雨は少し弱まっていた。

外気は冷たく、湿った土の匂いが肺の奥へ入り込む。蒼は補給ボックスを抱えたまま、私の歩幅に合わせて歩いている。いつもなら先に行く彼が、今日は半歩後ろにいた。

「蒼」

「何」

「さっきの紙片、誰が書いたと思う?」

「さあな」

「綾瀬さんの仲間かな」

「たぶん」

「どうして渡せなかったんだろう」

蒼はしばらく答えなかった。舗装路の水たまりを避け、靴底を濡らさないように歩いている。けれど、完全には避けられず、つま先へ泥が跳ねた。

「渡したら、綾瀬が何かを認めなきゃいけなくなるからじゃねえの」

「何を」

「苦しいとか、怖いとか、勝てないかもしれないとか。そういうのを、言葉にして受け取ることになる」

「それが怖いなら、書かないほうがいいのかな」

「でも、書かずにいたら、相手が本当に一人かどうかも分からない」

蒼はそこで、私を見た。

「お前も、書けばいいんじゃねえの」

「何を」

「親父さんに言いたいこと。綾瀬に言いたいこと。俺に言いたいこと。誰にも渡さなくていいから、まず書けよ」

「書いても、渡さなければ意味がないでしょう」

「意味はある。自分の中に何があるか、見えるからな」

その言葉は、旧倉庫の暗がりで聞いた紙片の文字と重なった。

私は鞄の中のメモ帳へ手を伸ばしかけた。けれど、今は取り出さなかった。まだ、自分の文字を見るのが怖かった。

部室の明かりが見えてきた。

窓の内側では、何人かの部員が立ったまま話している。松原先輩のロッカーは、きっとまだ開いている。ユニフォームが戻っていない限り、部員たちは互いの視線を疑い続ける。誰かが何かを知っていて黙っているのかもしれない。あるいは、誰も何も知らないのに、疑いだけが育っているのかもしれない。

私は歩みを緩めた。

封筒の中の紙片が、鞄の底でかすかに擦れた。

「先生に見せる」

私は言った。

「そのあと、綾瀬さんに返すかどうか考える」

蒼は頷いた。

「それでいい」

「蒼は、綾瀬さんに聞きたいことはないの?」

「ある」

「何を?」

「明日、勝つ気があるのか」

「それだけ?」

「それだけで十分だろ。勝ちたいのに勝てない奴と、勝たなきゃいけない奴は、たぶん別の顔をしてる。俺はその顔を見てから走りたい」

蒼の言葉には、競争心があった。けれど、敵を打ち負かしたいというだけではない。綾瀬がどんな気持ちでスタートラインへ立つのかを知りたい。自分もまた、勝ちたい気持ちを隠さずに走りたい。そんな欲が、濡れた声の奥にあった。

私はその欲を、羨ましいと思った。

「蒼は、自分のために走りたい?」

「急に何だよ」

「答えて」

蒼は歩きながら、指でゼッケンの端を擦った。いつもならすぐに茶化すところを、今日は黙っている。

「……そうだよ」

やがて、彼は言った。

「俺は俺のために走りたい。勝つのも、速くなるのも、誰かに認められたいのも、全部自分のためだ。部のためとか、結衣のためとか、そういうのは後からついてくる。最初から誰かのために走ったら、負けたときに全部その人のせいにしそうだからな」

私はその言葉を、胸の中で繰り返した。

自分のために走る。

それは、誰かを裏切ることではない。誰かの場所を奪うことでもない。少なくとも、蒼はそう言っている。

部室の前まで来ると、蒼が足を止めた。

「結衣」

「何」

「紙片、落とすなよ」

「落とさない」

「あと、食うもの食え」

「分かってる」

「大丈夫って言うなよ」

私は少し考えた。

いつもなら、反射的に大丈夫と言っていた。けれど今は、その言葉を口にする前に、封筒の重みを思い出した。

「……分からない」

蒼は一瞬、呆れた顔をした。それから、短く笑った。

「それでいい」

部室の扉を開ける。

湿った靴下とスポーツドリンクの匂いが、また喉の奥へまとわりついてきた。部員たちの視線がこちらへ向く。蒼の抱えた補給ボックス、私の濡れた鞄、その中にある誰かの文字。

私は黒川先生を探した。

先生は窓際で、古い記録ノートを開いていた。赤ペンを持ったまま、こちらを見ている。視線は私の顔ではなく、鞄の底へ落ちた。

私は封筒を取り出した。

「先生。これを見つけました」

黒川先生はすぐには受け取らなかった。

「何が入っている」

「西陵学園の古い新聞記事と、紙片と、キーホルダーです。綾瀬さんに関係するものかもしれません」

「かもしれない、か」

「はい。まだ断定できません」

先生は私の手元を見た。

「自分で確認したのか」

「はい」

「持ち主へ返すつもりは」

私は一拍置いた。

「分かりません」

先生の目が、ほんの少しだけ細くなった。

「考えている途中です」

「そう」

先生は封筒を受け取った。指先が紙へ触れる。濡れた封筒を開き、中身を一つずつ机へ並べていく。切り抜き。紙片。キーホルダー。

先生は紙片を見ても、すぐには読まなかった。

その沈黙のあいだ、部室の全員が息を浅くした。

「一人で抱え込むな」

黒川先生が、紙片の文字を読んだ。

声は低く、感情の起伏がない。けれど、その一言が部室の中央へ置かれた瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。

先生は紙片を裏返し、表へ戻した。

「これは、ユニフォームの手がかりかもしれない」

「はい」

「だが、誰かの弱さを探すための道具ではない」

私は頷いた。

「分かっています」

「本当に?」

問い返され、私は紙片を見た。

分かっているつもりだった。綾瀬を助けたいのか、真実を知りたいのか、ユニフォームを見つけたいのか。その境目はまだ曖昧だ。けれど、少なくとも、泣いていた綾瀬を勝敗の材料にしたくはなかった。

「分からないです」

正直に答えた。

「でも、道具にしたくないと思っています」

黒川先生はしばらく私を見た。それから、紙片を封筒へ戻した。

「なら、忘れずに考えなさい」

「はい」

先生は封筒を私へ返した。

「持っていなさい。返す相手と時期を、自分で決めるまで」

封筒が掌へ戻ってくる。

紙一枚の重さしかないのに、濡れたスパイクより重かった。

部室の隅で、松原先輩が開いたままのロッカーを見ていた。蒼は補給ボックスを置き、濡れたタオルをいつもの順番で畳んでいる。誰も、すぐには何も言わない。

私は封筒を鞄へしまった。

そのとき、窓の外で雨脚が弱まった。

照明に照らされたグラウンドの水たまりが、風もないのに細かく揺れている。そこへ、誰かの影が一瞬だけ映った。

濃い色の練習着。白いリストバンド。

綾瀬蓮が、競技場の端を歩いていた。

私は窓辺へ近づきかけた。けれど、今度は足を止めなかった。扉を開けることもしなかった。まだ、行くべき時ではないと思ったからだ。

ただ、鞄の中の紙片へ手を添えた。

一人で抱え込むな。

その言葉を、今すぐ彼へ渡すことはできない。

けれど、もう見なかったことにはしない。届くかどうか分からなくても、少なくとも私は、その文字が誰かの手から生まれたことを覚えている。

雨の向こうで、綾瀬の影が照明から外れた。

私は窓を閉めずに、しばらくそこに立っていた。雨の冷たさが部室へ入り込み、湿った空気を少しだけ動かしていく。

見えているものだけを信じるな。

黒川先生の言葉が、紙片の文字と重なった。

見えないものは、消えているわけではない。

誰かが飲み込んだ言葉も、渡せなかった紙も、走りたいと思いながら黙っていた時間も、どこかに残っている。濡れた土の下へ沈み、誰にも気づかれないまま、足を置く場所を変えている。

私は鞄の中の封筒を、もう一度だけ確かめた。

そして、開いたままの松原先輩のロッカーへ向かって歩き出した。

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