第5話 壊れたら終わり

捜索の手を止めたのは、スマートフォンの震えだった。
簡易テントの柱に寄りかかるようにして、私は旧倉庫から持ち出した記録表の束をめくっていた。紙は雨を吸って膨らみ、指先にざらついた湿気が残る。松原先輩の決勝用ユニフォームにつながるものは、まだ何も見つかっていない。
画面に表示された名前を見た瞬間、肩が固まった。
神崎修一。
父から電話がかかってくることは、珍しくない。けれど、大会前夜のこの時間に連絡が来ると、声を聞く前から内容が分かってしまう。明日の集合時刻。進路希望調査。最近の練習量。膝や足首に痛みがないか。どれも心配から出ているはずなのに、父の口を通ると、確認ではなく検査のように聞こえた。
私は一度、画面を伏せた。
雨がテントの屋根を叩いている。向かいでは蒼が、泥のついたスパイクの底を古い布で擦っていた。布を折り返す順番まで決めているらしく、汚れた面を内側へ畳み、乾いた面だけを使っている。私が電話を取るのを見ても、何も言わなかった。ただ、足先で地面を二度、三度と叩いた。
「出れば」
「分かってる」
「出たくない顔してるけど」
「蒼に関係ない」
「そういう言い方すると、だいたい関係あるんだよな」
私は返事をせず、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『今、部活か』
「うん」
『まだ帰らないのか』
「ユニフォームを探してる。主将の決勝用がなくなって」
『なくなった?』
父の声が一段低くなった。怒っているときの声に似ている。けれど、本当に怒っているときより、心配しているときのほうが短く、低い。
「ロッカーから消えたの。先生と一緒に探してる」
『お前が管理していたのか』
「備品の管理はしてる。でも、全部を見ていたわけじゃない」
『そういう曖昧な言い方をするな。最後に確認した時刻は』
「朝の六時四十分。たぶん、そのときはあった」
『たぶん?』
その一言が、冷たい指のように耳へ入ってきた。
「今、調べてる」
『調べるのはいい。だが、明日の大会にまで影響を出すな』
「分かってる」
『分かっているなら、まず自分のことを考えろ。帰りが遅くなるなら迎えに行く』
「大丈夫。蒼もいるし、先生もいる」
『蒼がいるから何だ』
「一人じゃないってこと」
『そういう問題じゃない』
父の声の奥で、何か硬いものが擦れた。車の中なのか、仕事場なのかは分からない。父は感情が動くと、物を並べ直す癖がある。電話の向こうで、書類か工具でも触っているのかもしれなかった。
『明日、お前は走らないんだろうな』
息が止まった。
テントの中で、蒼の布を擦る音が止まる。
「補欠だから。出場予定はない」
『予定がない、じゃない。走らないんだな』
「……そうだよ」
『なら、余計なことをするな。人の穴を埋めるのはいい。だが、自分まで競技者のつもりで無理をするな』
「無理なんかしてない」
『しているかどうかは、本人が一番分からない』
父の言葉は正しかった。正しいから、逃げ場がなかった。
『夢を見るのは勝手だ。だが、身体は夢に合わせてはくれない。高校の部活で少し走れたからといって、その先まで続くとは限らない。お前は成績もある。進学のことを考えれば、今から余計なことに時間を使うべきじゃない』
「余計なことって、何」
『陸上だ』
胸の奥で、何かが音を立てた。
私はテントの外を見た。雨に濡れたトラックは黒く沈み、白い線だけがかろうじて残っている。綾瀬が歩いていたあたりには、浅い水たまりがいくつもできていた。誰かが通った跡は、すぐ雨に消される。
「お父さんは、陸上をやっていたんでしょう」
電話の向こうが静かになった。
『昔の話だ』
「どうして辞めたの」
『今それを聞く必要があるか』
「あると思う」
『ない。お前には関係ない』
「関係なくないよ。私が走る話をすると、いつも止めるから」
『止めているんじゃない。壊れないように言っている』
「同じだよ」
『違う』
「私には同じに聞こえる。続ける意味がない、現実を見ろ、壊れたら終わりだって。そう言われるたびに、走りたいと思うことまで悪いみたいになる。私は、無茶をしたいわけじゃない。勝てると思っているわけでもない。ただ、まだ走りたいだけなのに」
言葉が途中で震えた。
蒼は顔を上げた。けれど口を挟まない。こういうときの彼は、妙に静かだ。心配しているほど声が雑になるはずなのに、今は黙っている。私が初めて父へ向けている言葉を、勝手に奪わないためなのかもしれなかった。
父はすぐには返さなかった。
『走りたいだけで、続けられるほど甘くない』
「知ってる」
『努力しても、記録が伸びないことがある』
「知ってる」
『故障すれば、それまで積み上げたものが一度に消える』
「それも知ってる」
『なら――』
「でも、お父さんは、壊れることしか話さない」
自分の声が、雨音よりはっきり響いた。
「走っているときに何があったかは話さない。速くなったとか、楽しかったとか、誰かと競ったとか。いつも壊れた日のことだけを見せる。それで、私に現実を見ろと言う。私が見ている現実と、お父さんが見せたい現実は違うよ」
父は黙った。
電話の向こうで、呼吸が一度止まる。私はその間を知っていた。父が何か言い返そうとして、言葉を選び、結局いちばん硬いものだけを残すときの間だ。
『中途半端なら、辞めてもいい』
その言葉は、昔から同じだった。
『誰もお前を責めない。補欠なら補欠でいい。マネージャーなら、それをきちんとやればいい。だが、走るなら、走るための覚悟を持て。できないなら、最初から手を出すな』
「覚悟って、壊れる覚悟?」
『続けられないものを続けない覚悟だ』
「それを決めるのは私じゃないの」
父の呼吸が、また止まった。
私はゼッケンケースを見た。濡れた紙の角が、少し丸くなっている。指先でそこをなぞる。何かを整えるためではなく、崩れたままのものに触れているために。
「私は、走ることをやめたつもりだった。でも、やめたことにしていただけだった。マネージャーをしていれば役に立てるし、誰にも期待されない。走りたいと言わなければ、失望もされない。そう思ってた」
『結衣』
「でも、そうやって決めたことを、お父さんに守ってもらおうとするのは違うと思う。走るかどうかも、壊れるかどうかも、私が決めたい」
『お前は何も分かっていない』
「分かってないよ。だから、これから考える」
『考えている間に、取り返しがつかなくなる』
「取り返しがつかなくなるのが怖いから、何も選ばないほうがいいの?」
父は答えなかった。
私は、電話の向こうに父の古いスパイクが置かれている気がした。箱の中にしまわれた、底の減った靴。父はあれを捨てない。雨の日に見つけると、黙って靴底を拭く。走れなくなった人間が、走れた頃の道具を手入れする。その姿を、私は何度も見てきた。
「お父さんは、まだ走りたいの?」
言ってしまった。
父の呼吸が、完全に消えた。
『……帰りは何時だ』
質問に答えず、父はそう言った。
「分からない」
『分からないでは困る』
「探し終わったら連絡する」
『結衣』
「何」
『無茶はするな』
それだけだった。
叱るでもなく、諦めるでもなく、短い言葉が落ちた。けれど、その短さの奥に、古い痛みの形が見えた気がした。父はきっと、私に走ってほしくないのではなく、走れなくなる私を見たくないのだ。
だからといって、私の足まで父の過去に預けていい理由にはならない。
「お父さんも」
私は言った。
「無理しないで」
返事を待たず、通話を切った。
スマートフォンの黒い画面に、私の顔がぼんやり映っていた。泣いてはいなかった。けれど、喉の奥に鉄のような味が残っている。強く言い返したせいか、呼吸が浅くなっていた。
蒼が、ゆっくり補給ボックスを持ち上げた。
「相変わらず、親父さんは容赦ねえな」
いつもの調子だった。けれど、声の端に軽さはない。
「聞いてた?」
「聞こえるだろ。テント狭いし」
「聞かなかったことにして」
「無理。耳って閉じられねえから」
私は返事をせず、ゼッケンケースの角を親指でこすった。
「壊れたら終わりだって」
「うん」
「私が走る話をすると、いつもそれを言う」
「親父さん、壊れたことがあるんだろ」
蒼はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「だからって、お前まで壊れるとは限らない」
「でも、壊れないとも限らない」
「そりゃそうだろ。俺だって、明日転ぶかもしれないし、足をひねるかもしれない。勝てないかもしれない。走るって、そういうの込みだろ」
「蒼は怖くないの」
「怖いに決まってる」
返事が早かった。
「怖いから、練習前に靴紐を三回結び直す。怖いから、タイム表を見て、昨日より遅いとむかつく。怖いから、ふざけてる。何も怖くない奴みたいな顔をしてれば、少しは足が動く気がするからな」
蒼は補給ボックスを地面へ置き、私のほうへ身体を向けた。
「でも、怖いから走らないって決めるのと、走りたいけど怖いって認めるのは違うだろ。前者は逃げてもいい。後者は、怖いまま立つしかない」
「私には、立つ場所がない」
「あるだろ」
「補欠の場所しかない」
「補欠を馬鹿にすんなよ」
蒼の声が低くなった。
「俺たちは、選ばれた奴だけが立派みたいな顔をしすぎてる。レギュラーになれなきゃ価値がない。自己ベストが出なきゃ努力じゃない。勝たなきゃ走った意味がない。そんなふうに決めるから、みんな自分の弱いところを隠す。綾瀬みたいに、勝ってる奴まで一人で泣く」
私は顔を上げた。
蒼は綾瀬の名前を口にしたあと、少しだけ目を逸らした。
「見たの?」
「何を」
「綾瀬が泣いてるところ」
蒼は答えなかった。
けれど、答えないときの彼は、たいてい何かを知っている。私は問い詰める代わりに、補給バッグから菓子パンを取り出した。包装を開けると、甘い匂いが湿った空気に広がった。
「食べる?」
「お前が食うんじゃねえのかよ」
「半分なら」
蒼は少し驚いたように私を見た。それから、パンの端を受け取った。
「最初からそうしろよ」
「蒼が押し込んだんでしょう」
「押し込まないと食わないだろ」
二人で黙って菓子パンを食べた。甘さが舌に残り、喉の奥に張りついた苦い味を少しだけ薄めていく。蒼は甘いものが苦手だと言っていたのに、文句を言わずに食べている。
「明日、走りたいなら走ればいい」
蒼が言った。
「簡単に言わないで」
「簡単じゃねえって、さっきから何回言わせるんだよ。走れるかどうかは先生が決める。お前が出る場所があるかどうかも、チームの都合もある。でも、走りたいと思うことまで誰かに許可を取る必要はないだろ」
「それを言ったら、期待される」
「期待されたくないのか」
「怖い」
「期待されて、応えられないのが?」
「期待された瞬間に、自分のためじゃなくなる気がする」
蒼はしばらく黙った。
雨が弱まり、テントの屋根を叩く音が細くなる。競技場の向こうで、誰かが倉庫の扉を閉めた。金属の音が夜へ響き、すぐに湿った空気へ吸い込まれる。
「じゃあ、期待されても、自分のために走ればいい」
「できるかな」
「知らねえよ」
蒼はそう言って、残ったパンを私へ戻した。
「でも、できるかどうかを決めるのは、親父さんでも、俺でも、綾瀬でもない。お前だろ」
私はパンを受け取った。
父の声がまだ耳に残っている。
壊れたら終わり。
その言葉は、私の足を止めるための鎖だと思っていた。けれど今は、父自身が壊れた場所から投げてきた、短い警告なのだと少しだけ分かる。警告を聞くことと、従うことは違う。
私は補給ボックスの中から、使い込んだストップウォッチを取り出した。表面の傷を指でなぞる。古いボタンを押すと、液晶に数字が浮かんだ。
00:00:00。
止まっていた時間が、数字になる前の形で待っている。
「蒼」
「ん」
「このあと、旧倉庫をもう一度見たい」
「先生に怒られるぞ」
「許可は取る」
「そういうところだけ真面目だよな」
「蒼は?」
「付き合う。ユニフォームも探さないと、明日お前が走る場所も作れないだろ」
「私が走るとは言ってない」
「まだ言ってないだけだろ」
蒼は立ち上がり、補給ボックスを持ち上げた。
「それ、俺が持つ」
「自分で持てる」
「知ってる。だから持たせろ」
さっきと同じ言葉だった。
私は一瞬だけ迷い、それから手を離した。蒼の腕へ箱の重みが移る。空いた手で、私は濡れたゼッケンケースを抱え直した。
テントの外へ出ると、雨の粒が細かく頬へ触れた。濡れたユニフォームが肌へ張りつき、冷たさが鎖骨のあたりへ溜まる。けれど、先ほどまでのように、その不快さを消すために作業へ逃げたいとは思わなかった。
私は濡れた地面へ足を置いた。
土は柔らかく、踏み込めば沈む。だからこそ、どこへ体重をかけるかを選ばなければならない。父の言葉も、綾瀬の涙も、蒼の苛立ちも、全部が足元を不安定にしている。
それでも、足を置く場所は自分で決められる。
部室へ続く舗装路の先で、旧倉庫の屋根が照明に白く浮かんでいた。雨に濡れた金属扉は、閉じたままこちらを待っている。
私はストップウォッチをポケットへ戻した。
止まっていた数字は、まだ動いていない。
けれど、私の足はもう、止まっていなかった。
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