第4話 半歩ぶんの沈黙

雨都公営陸上競技場の照明は、雨の向こう側で白く滲んでいた。

濡れたトラックは黒く、レーンを区切る白線だけが浮かんでいる。土の匂いは昼間より濃くなっていた。水を吸った地面が、靴底にまとわりついて重い。歩くたび、スパイクの溝に泥が入り、足の裏から少しずつ力を奪っていく。

私は蒼と手分けして、ベンチ裏の旧倉庫、簡易テント、控え室へ続く通路を探していた。

主将の決勝用ユニフォームは、まだ見つかっていない。

「こっち、何もなし」

蒼がテントの中から声を上げた。

「本当に?」

「見れば分かるだろ。濡れたタオルと、誰かが飲みかけで放置した水と、泥まみれのメモ帳。あと、俺の尊厳」

「最初から置いてないものは探せない」

「お前、そういう返しだけは速いよな」

蒼は笑いながら、テントの端を持ち上げた。雨水が布の窪みに溜まり、彼の腕へ一気にこぼれ落ちる。

「うわ、最悪」

「だから、そこを持ち上げるなら先に確認して」

「はいはい。管理責任者様は細かいねえ」

「濡れたままだと、明日使えないでしょう」

「ユニフォーム探してる場合に、テントの濡れ方まで気にするか?」

「気にする。明日、選手が使うから」

「そうやって全部を先回りして、誰かが困らないようにする。お前、自分が困る順番はいつ来るんだよ」

私は返事をしなかった。

返せないときほど、手が動く。テントの脚を拭き、床に置かれた水筒を端へ寄せ、濡れたタオルを畳み直す。タオルは四つ折りにして、刺繍が外側へ来るようにする。そうしているうちに、何かが整ったような気がした。

けれど、胸の奥のざわつきだけは、どこへ置いても片づかなかった。

蒼がしゃがみ込み、簡易テントの床を覗いた。

「ここ、泥が多いな」

「雨が吹き込んだんでしょう」

「違う。外から入ってきた跡がある」

彼は指先で泥の筋をなぞった。濡れた土が爪の間へ入り込む。

「ほら。靴跡じゃない。片側だけ擦れてる」

「何かを引きずった跡?」

「たぶん。布とか、袋とか。重いものじゃない。重かったらもっと深くなる」

「ユニフォームかもしれない」

「だったら、ここからどこへ行った」

蒼は顔を上げ、テントの外へ視線を走らせた。濡れたトラック、ベンチ、倉庫の屋根、観客席へ続く階段。雨がすべての輪郭をぼかしている。

私は名簿を抱えたまま、泥の線の先を目で追った。

テントの入口から、控え室側へ向かっている。けれど途中で雨水に流され、線は薄くなっていた。消えたのではない。見えなくなっただけだ。

「見えているものだけを信じるな」

黒川先生の声が、耳の奥でよみがえった。

「お前、また先生の言葉を思い出してるだろ」

蒼の声に、私は顔を上げた。

「どうして分かるの」

「顔に出てる。眉間がいつもより一ミリ深い」

「見すぎ」

「お互い様だろ」

蒼は立ち上がると、濡れた手をジャージの脇で拭いた。泥が黒い線になって残る。

「なあ、結衣」

その呼び方が、いつもより低かった。

「何」

「お前、誰のためにそこまでやってんの」

雨音が、テントの屋根を均等に叩いていた。

私は聞き間違いかと思った。けれど蒼は、冗談を言った顔をしていない。いつもなら口の端を上げ、こちらが怒るかどうかを見ながら言葉を続ける。今はそれがなかった。

「主将のため。部のため。明日の大会のため」

用意していた答えを、順番に並べた。

蒼は首を傾けた。

「それ、お前の答えじゃなくて、名簿に書いてありそうな答えだな」

「意味が分からない」

「分かるだろ。お前はそういうところだけ、分からないふりがうまい」

「私は、任されたことをしているだけ」

「任されたから?」

「そう」

「誰かに頼まれたから?」

「そう」

「頼まれなかったら?」

そこで、言葉が止まった。

蒼は半歩だけ距離を詰めた。

近い。逃げるほどではないのに、視線を落としたくなる距離だった。雨の匂いと、彼の濡れたユニフォームから漂う体温の匂いが混ざる。蒼の呼吸は乱れていない。けれど、右足のつま先が濡れた地面を細かく叩いていた。

焦っているときの癖だ。

「頼まれなかったら、何をするんだよ」

私は答えようとして、唇を閉じた。

何をする。

その問いは、ユニフォームの行方よりもずっと難しかった。私は誰かに頼まれれば動ける。ボトルの本数を数え、記録を取り、怪我をした選手のテーピングを替え、必要なら顧問を呼ぶ。誰かの困った顔があれば、その原因を探すことができる。

けれど、誰にも頼まれていないことを、自分のために選んだことはほとんどなかった。

「……分からない」

「またそれかよ」

「本当に分からないの」

「じゃあ、走りたいのか。走りたくないのか」

胸の奥が、濡れた土に踏み込まれたように沈んだ。

私はタオルの端を持ち上げ、刺繍の糸を指でなぞった。

走りたい。

その言葉は、ずっと前からそこにある。雨の匂いがすると、底へ沈めたはずの気持ちが浮かんでくる。スタートラインの白さ。号砲を待つあいだの静けさ。走り終えたあと、喉の奥に残る鉄のような味。冷たい水を、一度に飲まず少しずつ喉へ流す感覚。

私はそれを、もう捨てたのだと思っていた。

記録が伸びなかった。補欠に回った。選手としては平凡だった。父は、走ることを続ける私へ「中途半端なら辞めてもいい」と言った。あの言葉を否定として受け取ってから、私は走りたいと言うことをやめた。

代わりに、支えることを覚えた。

「走りたいです」

声にしたのは、思っていたより簡単だった。

蒼のつま先が止まった。

「……言えるじゃん」

「でも、走るとは言ってない」

「何が違うんだよ」

「違う。走りたいと思うことと、走るために誰かの場所を奪うことは違う」

「誰かの場所を奪うって、誰が言った」

「私がそう思ってる」

「それが勝手だって言ってるんだよ」

蒼の声に、苛立ちが混じった。けれどその苛立ちは私へ向けられたものだけではなかった。彼自身の焦りも、そこへ混ざっている。

「俺だって、明日勝ちたい。速いやつに置いていかれたくない。記録を見れば、自分がどれだけ遅れてるか分かるし、練習しても数字が動かなきゃ腹が立つ。けど、そういうことを口にすると、必死すぎるって笑われる。だから俺は笑う。余裕があるふりをする。お前の前でも、ずっとそうしてきた」

「蒼は、余裕があるようには見えない」

「見抜くなよ」

「見えるから」

「そういうところだよ。人のことは見るくせに、自分のことになると、役割の後ろへ隠れる」

蒼はそこで息を吐いた。舌打ちに近い音だった。

「お前、支えるのが好きなのか」

「好きかどうかは……」

「嫌いじゃない、って答えは聞き飽きた」

「役に立てるから」

「役に立てれば、何でもいいのかよ」

「何でもよくない」

「じゃあ何だよ。マネージャーだから? 補欠だから? 先生に信頼されてるから? 主将に頼られてるから? そういうのを全部なくしたら、お前に何が残るんだよ」

言葉が、ひとつずつ胸へ刺さった。

私は視線を落とした。濡れた床の上で、照明が揺れている。水たまりの中に映った自分の顔は、雨の波紋で歪んでいた。

「何も残らないかもしれない」

やっと言った。

「だから、怖い」

蒼は黙った。

私は続けた。

「誰かの役に立っていれば、ここにいてもいいと思える。でも、自分のために走りたいと言ったら、何のためにいるのか分からなくなる。走れる人の隣にいるために、走らないことを選んだはずなのに、その選択まで間違いだったら、私は何をしていたの」

「間違いじゃない」

蒼の返事は早かった。

「支えてきたことが間違いなんじゃない。お前が、それしか選べないと思ってることが違うんだろ」

「簡単に言わないで」

「簡単じゃねえよ」

蒼は少しだけ顔を背けた。

「俺だって、誰かに支えてもらうのは怖い。支えてもらったら、返さなきゃいけない気がする。結果を出して、速くなって、勝って、初めて受け取ったものに釣り合う気がする。でも、本当はそんな計算をしてたら、誰とも一緒に走れない」

彼は濡れたスパイクを見下ろした。泥の詰まった靴底を、親指で擦っている。

「結衣。お前だけが、何も受け取らない顔をするのはずるい」

「ずるい?」

「俺たちは、お前から水をもらう。タオルをもらう。記録を取ってもらう。体調が悪いときは、何も言わなくても先生に伝えてくれる。そうやって散々助けてもらってるのに、お前が苦しいときだけ、こっちは何もするなって顔をされる」

「そんなつもりは」

「つもりがなくても、そう見える。お前が平気なふりを続けると、俺たちはお前を人間じゃなくて、便利な設備みたいに扱うことになる。いつでも動いて、壊れなくて、文句を言わないものとして」

蒼の言葉が、雨音の隙間へ落ちた。

「俺は、それが嫌だ」

蒼は私を見た。

「お前がそこにいるのに、いないみたいになるのが嫌なんだよ」

その視線から逃げられなかった。

私はポケットの中の古いストップウォッチを握った。父から渡されたものだ。表面には細かな傷があり、ボタンのひとつは少し沈んでいる。走ることをやめたあとも捨てられず、記録を取るときだけ使っていた。

時刻を測る道具なのに、私はずっと、自分の時間を止めるために使っていたのかもしれない。

「蒼は、私にどうしてほしいの」

「知らねえよ」

「怒っているだけ?」

「怒ってる。心配もしてる。お前が自分で自分を雑に扱うのが、見ててむかつく」

「雑に扱っているつもりはない」

「昼、ゼリー一個しか食ってないだろ」

「見てたの」

「見てるよ。お前が人を見てるのと同じくらいにはな」

「……そう」

「あと、さっきから手が冷たい」

蒼はポケットから小さな菓子パンを取り出した。雨に濡れないよう、内側へしまっていたらしい。

「食え」

「いらない」

「いらないじゃねえ。食え」

「蒼が食べれば」

「俺は甘いの苦手」

「甘い缶コーヒーを飲んでいるでしょう」

「飲み物と食い物は違う」

「面倒くさい」

「お互い様」

蒼は私の返事を待たず、補給バッグの隙間へ菓子パンを押し込んだ。

「あとで食べる」

「今」

「捜索が終わってから」

「そうやってまた後回しにする」

「蒼」

「何だよ」

「選手なんだから、自分の準備をして」

「出た。お前の心配だけは一人前」

「明日、蒼が走れなくなったら困る」

「お前が困るのか」

「部が困る」

「俺は?」

私は言葉に詰まった。

蒼はその沈黙を見て、少しだけ目を細めた。

「ほらな」

「……蒼も困る」

「それ、もう一回」

「聞こえたでしょう」

「聞こえたけど、もう一回言えよ」

「嫌」

「耳まで赤いぞ」

「雨で冷えているだけ」

「はいはい。そういうことにしとく」

蒼はようやく笑った。軽口の形をしていたが、その笑いには先ほどまでなかった息のしやすさがあった。

テントの外で、複数の足音が近づいてきた。部員たちが練習を終えたらしい。濡れたスパイクが地面を叩き、誰かが「寒い」と声を上げる。いつもの部活の音が戻ってくる。

私は急いで水筒を並べ直した。

そのとき、競技場の向こうに人影が見えた。

スタンド脇の、照明が届かない場所。濃い色の練習着を着た選手が、ひとり立っている。

西陵学園の綾瀬蓮だった。

雨の中にいるのに、姿勢だけは崩れていない。白いリストバンドが左手首に巻かれている。彼はトラックを見ていた。濡れた路面の状態を確かめているのか、走る選手の足音を聞いているのか、それとも、ただ誰もいない場所を探しているのか、私には分からなかった。

私は水筒を持ったまま、動きを止めた。

「見すぎ」

蒼の声が横から飛んできた。

「見てない」

「見てる。ボトルの数より、あっちの人影を気にしてる」

「綾瀬さんの状態を見てるだけ」

「それ、さっきも聞いた」

「明日の相手だから」

「相手の呼吸まで気にするか、普通」

私は返事をしなかった。

遠くの綾瀬は、トラックへ一歩踏み出した。走らず、歩いている。水の溜まった場所を避けるのではなく、足裏で確かめるように進んでいる。やがて照明の下へ入り、横顔が見えた。

整っていた。

人に見られていると知った瞬間、顔の筋肉をひとつずつ元へ戻すような、整い方だった。

「お前があいつを見てるときの顔、羨ましいっていうより、心配してる顔だな」

蒼が言った。

「心配していい相手じゃない」

「敵だから?」

「そうじゃなくて……」

言葉が止まる。

私は綾瀬の背中を見た。無敗のエース。勝つことを期待される選手。地域のサイトでは、明日の決勝を決める男として紹介されていた。

けれど、さっき見た背中には、勝者の余裕などなかった。

「勝つ人も、苦しいんだと思う」

自分でも、何を言っているのか分からなかった。

蒼は黙って私を見た。

「勝つことが、その人のためだけにあるなら、もっと自由なのかもしれない。でも、学校のためとか、仲間のためとか、期待している人のためとか、そういうものが重なっていくと、勝つことが義務になる。負けたくないんじゃなくて、負けることを許されない」

「綾瀬が、そう言ったのか」

「まだ、何も聞いてない」

「じゃあ、どうして分かる」

「分からない。ただ、そう見える」

蒼は一度、綾瀬へ目を向け、それから私へ戻した。

「見えたなら、行くのか」

「分からない」

「今度は逃げるための『分からない』か?」

胸を突かれた。

私は答えられず、水筒の蓋を閉めた。カチリという音が、妙に大きく響いた。

競技場の入口から、黒川先生の笛が鳴った。雨天練習を切り上げる合図だった。先生は濡れたグラウンドを見回し、部員たちへ戻るよう手で示している。

「結衣」

「はい」

「ボトルを片づけてから来なさい」

先生の声が飛んできた。

私は水筒を箱へ戻した。

蒼は先に歩き出したが、数歩進んだところで振り返った。

「結衣」

「何」

「さっきの、忘れんなよ」

「どれ」

「走りたいって言ったやつ」

雨の向こうで、蒼の表情はよく見えなかった。いつものように笑っているようにも、真剣にこちらを見ているようにも見える。

私は返事をしなかった。

返せば、認めることになる。自分の中に、まだ走りたい気持ちがあることを。誰かのためだけに生きてきたわけではないことを。

蒼はそれ以上待たず、部室へ向かった。

私は最後の水筒を箱へ入れた。蓋を押さえ、ラベルの向きを揃え、濡れたタオルを折る。作業はいつも通りだった。けれど、手を動かしても、胸の奥に残った言葉は消えなかった。

走りたい。

その言葉は、濡れた土の上に落ちたまま、雨に流されず残っている。

私は綾瀬のいるほうへ目を向けた。

彼はトラックの外周を歩いていた。白いリストバンドを右手で押さえ、何度も結び目を確かめている。誰かに見られていることを知っている人の動きだった。

私は目を逸らさなかった。

綾瀬がこちらを見た気がした。距離があるため、表情までは分からない。ただ、彼は一度だけ顔を上げた。濡れた肩を張り、姿勢を整える。

それは、誰にも弱さを見せないための動作に見えた。

私は箱を抱え直した。

部室へ戻るべきだった。黒川先生に呼ばれている。ユニフォームも見つかっていない。泥の線の行方を確かめなければならない。やることはまだ残っている。

それでも、足は一歩だけ、綾瀬のほうへ向きかけた。

支えるためなのか。

尋ねるためなのか。

それとも、自分の中にある「走りたい」という言葉を、誰かの姿に重ねて確かめたいだけなのか。

理由はまだ分からなかった。

私は結局、綾瀬のところへは行かなかった。

けれど、これまでのように見なかったことにして背を向けることもできなかった。

雨は細かく降り続いている。濡れたトラックの上で、綾瀬の影が照明に伸び、次の瞬間には水たまりの揺れに崩れた。

私はその影を見届けてから、部室へ歩き出した。

半歩だけ、前へ出た。

それだけの距離が、今の私には、暗い競技場を横切るほど遠かった。

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