第3話 観客席の隅で

部室へ戻る途中、雨音が急に遠くなった。

屋根のある通路を歩いていたはずなのに、耳へ届く音の輪郭が変わった。さっきまでトタンを叩いていた雨が、薄い膜の向こうへ退いている。代わりに、どこかで誰かが息を引きずるような音がした。

一度、足を止めた。

音は小さかった。風がフェンスを揺らした音かもしれない。濡れたシューズが床を擦っただけかもしれない。けれど私は、人の呼吸の乱れを聞き分けることだけには自信があった。

誰かが、うまく息を吸えていない。

私は補給ボックスを抱え直し、競技場の観客席へ続く階段を見上げた。照明の白い光が、濡れた手すりに細く反射している。階段の上には誰もいないように見えた。誰もいない場所ほど、見落としたものが残っている。

一段上る。

靴底から水が押し出され、滑り止めの溝に溜まった雨が、薄い音を立てた。二段、三段と進むうち、湿った土の匂いが強くなる。観客席は屋根があるのに、風に運ばれた雨が横から吹き込んでいた。金属のベンチは冷えきっていて、触れれば体温まで奪われそうだった。

そこで、ようやく見つけた。

綾瀬蓮がいた。

スタンドの隅、照明が届ききらない場所に、ひとり座り込んでいる。西陵学園の練習用ユニフォームは雨を吸って肌に張りつき、濃い色の布地が肩の線をはっきり浮かび上がらせていた。いつもなら、遠くからでも姿勢のよさが目につく。走る前も、走ったあとも、背筋だけは決して崩さない。

けれど今は、両肘を膝に置き、顔を手で覆っていた。

指の隙間から、濡れた前髪が垂れている。肩が小さく震えていた。泣き声は聞こえない。ただ、息を吐くたびに喉の奥で何かが擦れるような音がする。泣くことさえ、誰かに知られないように押し殺している呼吸だった。

私は階段の途中で立ち止まった。

手にしていた補給ボックスが、急に重くなった。中には水筒とタオルと、余ったスポーツゼリーが入っている。誰かが苦しそうにしていたら、私はいつも何も考えず、それを差し出す。熱のある人には水を渡し、足を痛めた人には椅子を持っていき、言葉が出ない人のそばには黙って立つ。

それが自分の役目だと思っていた。

だから、今もタオルを取り出せばいい。綾瀬に声をかけて、濡れたままだと冷えると伝えればいい。西陵学園の選手に雨都南のタオルを渡すことが問題になるなら、せめてベンチの端へ置いて、私はその場を離れればいい。

考えれば、やることは決められる。

なのに、指が動かなかった。

綾瀬は泣いていた。

その事実が、私の中にある何かを、ゆっくり壊していた。

勝つ側の人間は、まっすぐで、揺れなくて、孤独なんて知らない。私はいつの間にか、そんなふうに決めていた。綾瀬蓮の名前は、地域のスポーツサイトにも、学校の掲示板にも、記録表にも、いつも勝者として載っていた。

無敗。

安定したフォーム。

終盤の強い走り。

西陵学園のエース。

記事の中で、彼は数字と見出しに囲まれていた。雨都南の松原先輩と並べられ、明日の決勝を左右する存在として扱われている。彼が勝てば西陵の強さが証明され、松原先輩が勝てば雨都南の意地が示される。そういう言葉が、選手の名前の上に何重にも重なっていた。

私はそれを、仕方のないことだと思っていた。

強い人には、強い人の役割がある。勝つ人は勝つことで周りを安心させ、負けないことでチームを引っ張る。期待に応えられるから、期待される。そういう順番で世界は動いているのだと。

けれど、目の前の綾瀬は、その決めつけから一番遠い場所にいた。

雨に濡れたまま、誰にも見せないように背を丸めている。顔を覆った手の甲が白くなるほど、何かをこらえている。呼吸を数えているのかもしれない。泣きそうになると顎を引き、一定の呼吸を繰り返す。そんな話を聞いたことはなかったのに、彼の仕草からそれが分かった。

たぶん、誰かに見られていると気づけば、綾瀬はすぐに立ち上がる。

姿勢を整え、濡れた顔をタオルで拭き、何もなかったような顔をする。人前で乱れないことも、彼にとっては走ることの一部なのだろう。泣いている自分を隠し、何事もなかったように明日のスタートラインへ戻る。そのために、今ここでひとりになっている。

ひとりにならなければ、泣けない。

そう考えた瞬間、胸の内側が狭くなった。

私も同じだった。

父の前で走りたいと言えない。記録が伸びなかったことも、補欠に回ったことも、まだ走りたいと思っていることも、全部、平気な顔で飲み込んできた。部室で誰かが崩れれば、私はすぐに水筒を渡し、タオルを探し、先生を呼ぶことができる。けれど、自分の胸の奥にあるものを誰かに渡す方法だけは知らなかった。

自分が苦しいときは、作業を増やした。

名簿を数え直す。補給品を並べ直す。濡れた床を拭く。泥のついたスパイクを洗う。そうして手を動かしていれば、まだ役に立っていると思える。役に立っているあいだは、ここにいてもいいと思える。

綾瀬も、同じようにしているのだろうか。

走り続けていれば、エースでいられる。勝ち続けていれば、誰も彼の中身を見ようとはしない。誰かに見られる前に、自分で自分を整えてしまえば、弱さを渡さずに済む。

雨が、観客席の縁から斜めに吹き込んできた。

綾瀬の足元に、小さな水たまりが広がっている。泥のついたスパイクは脱がれていなかった。靴底の溝に赤茶色の土が詰まり、片方の紐だけが少し緩んでいる。いつもなら、彼は走る前に靴ひもの結び目を何度も確かめるはずだ。けれど今は、その乱れに気づいていない。

あるいは、気づいていても直す力が残っていないのかもしれない。

私はボックスの蓋に手をかけた。

金具が小さく鳴った。

その音に、綾瀬の肩が跳ねた。

顔を覆っていた手が下がる。濡れた頬が照明の端で一瞬だけ光った。涙なのか雨なのか、遠くからでは分からない。ただ、彼がこちらを見たことだけは分かった。

目が合った。

綾瀬の顔から、何かが一気に消えた。崩れていた輪郭が、見慣れた形へ戻っていく。顎が引かれ、背筋が伸びる。手の甲で頬を拭い、何もなかったように口を閉じた。

私はその変化を見ていた。

見てしまった。

「……誰かいるのか」

低い声だった。

問いかけというより、確認だった。そこにいるなら、見たものを見なかったことにしろという響きが、言葉の奥に沈んでいる。

私は返事をしなかった。

返事をすれば、彼は完全に立ち上がる。何でもない顔を作って、私の脇を通り、明日のエースへ戻ってしまう気がした。

綾瀬は立ち上がろうとした。冷えた金属のベンチに手をつき、脚へ力を込める。けれど一度で立ち上がれず、指先がベンチの縁を滑った。

私は反射的に一歩だけ前へ出た。

「無理に立たなくていいです」

声にした瞬間、自分でも驚いた。

綾瀬の視線が、私の顔へ戻る。

「……無理はしていない」

「そうですか」

「そうだ」

「でも、息が整っていません」

言ってから、余計なことを口にしたと思った。私はいつも、選手の呼吸を見ている。けれど、それを本人へ指摘することはほとんどない。気づかれないように水を渡し、休む理由を作る。直接言えば、相手の隠したいものに触れてしまうからだ。

綾瀬は眉をわずかに動かした。

「君は、雨都南の」

「マネージャーです」

「名前は」

「神崎です。神崎結衣」

「そうか」

彼は私の名前を繰り返さなかった。けれど、記憶するように一度、目を伏せた。

「ここで何をしている」

「部室へ戻る途中でした。音が聞こえたので」

「何の音だ」

「呼吸の音です」

綾瀬は黙った。

雨が、空いた観客席を叩いている。スタンドの向こうにあるトラックは、照明に照らされて黒く濡れていた。白いレーンの線だけが浮かび、そこに立つ人間を決められた場所へ戻そうとしているように見える。

「聞かなかったことにしてください」

綾瀬が言った。

「何をですか」

「今のこと全部」

「泣いていたことを?」

声にしたあと、喉がひどく乾いた。

綾瀬は目を逸らさなかった。けれど、左手の白いリストバンドを右手で強く押さえている。結び目を確かめる動作ではなく、何かをそこへ縫い留めるような手つきだった。

「泣いていない」

「そうですか」

「雨だ」

「雨だけなら、顔を覆わなくてもいいと思います」

言い終わると、空気が硬くなった。

私は一歩下がりたくなった。相手は明日の敵で、しかも無敗のエースだ。私が口を出していい人ではない。彼には彼の事情があり、私はそれを覗き見しただけの部外者だ。そう考えれば、今すぐ謝って立ち去ることができる。

けれど、綾瀬の足元にある緩んだ靴紐が見えた。

私は、結び直してあげたいと思った。

その思いが、ひどく身勝手なものに感じられた。誰かの苦しみに気づいたら支えなければいけない。そうやって動くことで、私は自分の居場所を保ってきた。今ここでタオルを渡すことも、声をかけることも、綾瀬のためだけではない。助けられる自分でいたいという、自分のための行動かもしれない。

だから、動けなかった。

綾瀬が先に視線を落とした。

「明日、松原が勝つと思うか」

突然、彼が言った。

「分かりません」

「君は雨都南のマネージャーだろう」

「だから分からないことを、分かるとは言えません」

「勝つと、言えばいい。味方なら」

「簡単に言うのは、好きではありません」

綾瀬の手が、白いリストバンドから離れた。

「勝てると言われるのも、勝てないと言われるのも、同じだ。結局、走るのは自分だから」

「綾瀬さんは、いつもそういうことを言われているんですか」

「何が」

「勝てる。負けるな。お前ならできる。西陵のために勝て。そういう言葉です」

彼は答えなかった。

その沈黙が、返事の代わりだった。

私は階段の途中に立ったまま、ボックスの重みを腕に受けていた。綾瀬はもう泣いているようには見えなかった。顔を上げ、姿勢を整え、明日のための表情を作っている。

けれど、作られた表情は、さっきまで見ていたものよりずっと疲れていた。

「私も、似たようなものです」

綾瀬が、わずかに首を傾けた。

「君が?」

「私は勝てと言われたことはありません。たぶん、勝てないと思われているからです」

言葉にしたら、胸の奥に押し込めていたものが、少しだけ動いた。

「だから、別の役に立とうとしました。補給を準備して、記録を取って、誰かが困らないようにして。走る人の隣にいるためには、走らなくても役に立てる自分になればいいと思っていました」

「それは、悪いことではない」

「はい。悪いことではありません。だから、やめられないんです」

綾瀬は目を伏せた。

「役に立てるなら、それでいいと思った。誰かのために動いていれば、自分が走りたいと思っていたことも、途中で諦めたことも、忘れられる気がした。でも、忘れたことにしているだけで、なくなったわけではないみたいです」

雨が、強くなった。

スタンドの奥から風が吹き込み、綾瀬の濡れたユニフォームを肌へ押しつける。彼は肩をすくめたが、立ち上がろうとはしなかった。

「君も、勝つ側ではないか」

「私が?」

「自分の苦しさを隠して、他人のために動ける。そういう人間は、弱く見えない」

その言葉に、私は息を止めた。

勝つ側。

綾瀬から見れば、私はそう見えるのかもしれない。私は何でもできるわけではない。記録も平凡で、選手として選ばれるほど速くない。それでも、部の中で必要なことを見つけ、手を動かし、誰かが崩れないように立ち回っている。

強いのではなく、崩れる場所を隠しているだけなのに。

「それは、強いんじゃありません」

私は言った。

「崩れる場所を見せないだけです」

綾瀬の顔がわずかに揺れた。

その揺れを見た瞬間、私は初めて、彼の涙をただの弱さとして扱ってはいけないと思った。泣くことは、勝てないこととは違う。助けを求めることも、負けることとは違う。少なくとも、今ここでひとりになろうとした彼は、自分の崩れを自分で見つけていた。

それだけでも、誰にも見せないまま壊れるよりは、何かが違う。

私は補給ボックスからタオルを一本取り出した。雨都南の部活用で、端に学校名が刺繍されている。敵校の選手へ渡すことに躊躇はあった。けれど、綾瀬の頬を伝う水滴が、雨なのか涙なのか分からないまま残っているのを見て、手を引っ込めることができなかった。

「使いますか」

綾瀬はタオルを見た。

「敵に借りる趣味はない」

「貸すだけです。返してもらえれば、敵でも構いません」

「返さなかったら」

「明日、取りに行きます」

「競技場で?」

「西陵のテントまで」

綾瀬の口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうか、私には判断できなかった。

「君は、変わっている」

「よく言われます」

「褒めていない」

「知っています」

しばらくして、彼は手を伸ばした。

けれど、すぐには受け取らなかった。濡れた指がタオルの端へ触れ、そこで止まる。私が離すと、彼はようやくそれを掴んだ。

タオルを首へ回し、顔を拭う。動作は丁寧だった。目元を強く擦るのではなく、濡れた前髪を押さえ、頬へ残った水分を布で吸わせる。自分の涙まで、乱暴に扱わないようにしているみたいだった。

「このことは、誰にも言わないでください」

「言いません」

「理由を聞かないんだな」

「聞いても、話したくないことは話さなくていいと思うので」

「それでは、何も分からない」

「分からなくても、そばにいることはできます」

言ってから、綾瀬の目がこちらへ向いた。

「君は、いつもそうなのか」

「何がですか」

「分からないまま、そばにいる」

答えられなかった。

それは自分の長所だと思っていた。けれど今は、相手の言葉を待てることと、自分が踏み込めないことの区別がつかない。

「たぶん、そうです」

やっとそう答えると、綾瀬はタオルを握り直した。

「それは、疲れるだろう」

その言葉が、思いがけず深く届いた。

私は誰かに、疲れていると言われたことがなかった。大丈夫かと聞かれることはあっても、大丈夫ですと答えて終わる。自分でも、大丈夫でなければならないと思っていた。

けれど綾瀬は、私の顔を見ていない。手元も、姿勢も、声の遅れも見ていない。ただ、同じように隠している人間だから分かったのかもしれない。

「綾瀬さんも、疲れているんですね」

私は聞いた。

「……そう見える?」

「はい」

「君は、見えたものをすぐ口にするのか」

「今は、言わないと後悔する気がしました」

彼は黙っていた。

それから、タオルを首から外し、膝の上へ置いた。

「明日、負けたら」

その声は、先ほどよりも低かった。

「みんなが、俺のせいだと思う」

「そう思うんですか」

「思う。実際には、俺が一番そう思う」

「誰かに言われたんですか」

「言われなくても分かる。チームの中で、俺だけが勝つことを期待されている。俺が勝てば、他の選手も楽になる。俺が負ければ、全部が崩れる」

「本当に、全部ですか」

「そうだ」

「それは、綾瀬さんが決めたことですか。それとも、周りが決めたことですか」

彼の指が、タオルの端をつまんだ。

「違いがあるのか」

「あります」

私は自分の声が思ったよりはっきりしていることに気づいた。

「周りが決めたことなら、綾瀬さんがひとりで背負う必要はありません。綾瀬さんが決めたことなら、誰かに頼ることも含めて決め直せると思います」

「簡単に言うな」

「簡単ではありません。でも、私にはそう聞こえます。綾瀬さんが勝つことだけを考えているようには見えません。みんなを失望させたくないから、勝たなければと思っている。でも、その人たちに本当に必要なのは、綾瀬さんが勝つことだけではないかもしれない」

「君に何が分かる」

「分かりません」

私は正直に言った。

「分からないから、勝つべきだとも、頑張ってくださいとも言いません。ただ、ひとりで全部を背負っている人が、平気な顔をしているのを見るのは、もう嫌です」

綾瀬は顔を上げた。

「敵なのに?」

「敵だからではありません」

言葉が、雨の中へ落ちていく。

「走る人だからです」

それ以上、綾瀬は何も言わなかった。

遠くで、競技場の照明が一つ消えた。無人のトラックが、明日のためにゆっくり暗くなっていく。雨に濡れた線だけが、まだ白く残っていた。

綾瀬はタオルを首へ戻し、立ち上がった。今度は一度で立てた。けれど、すぐには歩き出さず、緩んだ靴紐へ目を落とした。

私は反射的にしゃがみかけた。

けれど、止まった。

靴紐を結び直すのは、綾瀬自身がすることだと思った。

彼はしばらく紐を見つめ、それから膝を折った。濡れた指で、ひとつずつ結び目を作る。きつく締めすぎたのか、一度ほどいて、もう一度結び直した。

その様子を、私は黙って見ていた。

綾瀬が立ち上がる。

「タオルは、明日返す」

「忘れたら、取りに行きます」

「忘れない」

「そうですか」

「俺は、忘れない」

その声に、ほんの少しだけ、いつもの硬さとは違うものが混じっていた。

彼は観客席の出口へ向かって歩き始めた。濡れたスパイクが金属の階段を踏むたび、低い音が響く。数段下りたところで、綾瀬は一度だけ振り返った。

「神崎」

「はい」

「さっきのことは、君も忘れないでくれ」

何を指しているのか、すぐには分からなかった。

泣いていたことか。疲れていると言われたことか。それとも、敵だからではなく走る人だから、と私が言ったことか。

私は答えを選べなかった。

綾瀬はそれ以上待たず、雨の向こうへ消えていった。

私は観客席の隅に残った。腕の中の補給ボックスは、来たときよりずっと軽く感じた。タオルを一本渡しただけなのに、何か大きなものを手放したような気がしている。

雨は止まなかった。

けれど、さっきまでとは違って聞こえた。雨音の底に、綾瀬の抑えた呼吸が残っている。勝つ側の人間も、揺れる。崩れる。誰かに見られたくないまま、ひとりで泣く。

そのことを知ってしまった私は、もう以前のように、勝者を遠くから眺めることができない。

私は立ち上がった。

観客席の階段を下りる。足元の水たまりに照明が揺れ、白い線が何度も形を変える。フェンスの向こうでは、雨都南のグラウンドも、旧倉庫の屋根も、部室の窓も、同じ雨に濡れていた。

部室へ戻らなければならない。

消えたユニフォームを探さなければならない。

それは任された仕事だった。けれど、階段を下りる私の足は、もう最初のときとは違っていた。

誰かを支えるためだけではない。

自分が何を見たのかを、自分の中でなかったことにしないために、私は雨の中へ戻っていった。

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