第2話 雨のグラウンドと、離れた背中

放課後になるころ、雨は細かくなっていた。

窓ガラスに張りついていた大きな水滴が、筋になってゆっくり下へ流れていく。空は明るいのに、校舎の裏手だけが夕方より先に夜へ沈みかけていた。

私は部室の戸締まりを確認してから、補給ボックスを抱えて競技場へ向かった。濡れた廊下には、部員たちが運んだ土が点々と残っている。靴底で踏むたび、乾きかけた泥が薄い音を立てた。

雨都公営陸上競技場の門をくぐると、空気の匂いが変わった。

土が水を含んだ重い匂い。濡れたゴムのようなトラックの匂い。誰かが脱いだユニフォームから漂う、体温と洗剤の混ざった匂い。雨は弱いのに、肌に触れる粒は冷たく、首筋から入り込んだ水が背中をゆっくり伝っていく。

選手たちはすでに簡易テントの下で、明日の動きを確認していた。

「結衣、ボトルこっち」

松原先輩が手を上げた。主将らしい、よく通る声だった。

「はい。名前を書いてあります。一本目が予選後、二本目が決勝前です」

「決勝前って、俺だけ二本?」

蒼が横から口を挟む。濡れた前髪を手の甲で乱暴に払っていた。

「蒼は予選後に一本。決勝は種目がないから、必要なら自分で買ってください」

「冷てえな。明日の雨より冷てえ」

「自分の水分くらい、自分で管理して」

「管理、管理ってさ。お前、最近そればっかだな」

蒼は笑っていたが、声の奥には何かが引っかかっていた。私はその違和感に気づきながら、ボトルのラベルを揃え直した。

テントの中央には、明日の大会要項が広げられていた。紙の端が風にめくれ、そのたびに西陵学園の名前が見え隠れする。

今年の対抗戦は、地域のスポーツサイトでも大きく取り上げられていた。雨都南の主将・松原悠真と、西陵学園の綾瀬蓮。長距離の決勝で直接競り合う可能性が高い二人を、記事はまるで学校の看板同士のように扱っている。

松原先輩は、その記事を見ないふりをしていた。蒼は何度も見ている。私は見ないようにしているつもりだった。

「結衣」

松原先輩が、要項の端を押さえた。

「明日の集合、最初は全員、競技場の裏門で合ってるよな」

「はい。六時四十分です。雨天の場合も変更なし。荷物はベンチ裏に置いて、アップはテントを使います」

「綾瀬も来るんだろ。あいつ、雨でも走るのかな」

蒼がボトルを振りながら言った。

「西陵の予定までは知りません」

「知ってるくせに」

「知りません」

「そうやって全部、見てないふりすんのな」

私は蒼を見た。彼は冗談を言った顔をしていたが、目だけが笑っていなかった。

「何の話?」

「別に。お前があっちのエースを気にしてるとか、そういう話じゃねえよ」

「気にしてない」

「なら、そんなに早く否定しなくてもいいだろ」

蒼は自分で言ってから、少しだけ言い過ぎたと思ったのか、口を閉じた。雨粒がテントの屋根を細かく叩き、会話の切れ目に入り込んでくる。

私はボトルを一本持ち上げ、蓋を確認した。

「綾瀬さんが強い選手なのは知ってる。明日の相手だから、状態を見ていただけ」

「状態を見る、ねえ」

「蒼だって、記録表を何度も見てるでしょう」

「俺は数字を見てる。お前は人を見てる」

「何が違うの」

「数字なら、伸びたか落ちたかで終わる。人はそうじゃない」

蒼は一度、競技場の向こうへ目をやった。濡れたトラックの上で、雨都南の選手が軽く流しをしている。足音は水を含んだ地面に吸われ、いつもの鋭さを失っていた。

「人は、落ちてても落ちてない顔をする。伸びてても、もう駄目だって顔をする。そういうの、お前はすぐ見つけるだろ」

「……見つけたら、何かしないといけないから」

「誰が決めたんだよ、それ」

「誰って」

「お前が勝手に決めてるだけじゃねえの。誰かが黙ったら水を渡す。誰かが靴紐を結び直したら、しゃがんで手伝う。誰かが具合悪そうなら、先生に言う。そうやって人の穴を埋めて、自分の分までなくしてる」

言葉が雨より冷たく感じた。

私は手にしたボトルを見た。透明な容器の中で、水がわずかに揺れている。自分の指が震えているのかと思ったが、テントの床を誰かが踏んだ振動だった。

「私は、別に」

「その『別に』、便利だよな。何でも隠せる」

「隠してない」

「じゃあ言えよ。明日、走りたいのか。走りたくないのか」

胸の奥で、何かが硬く縮んだ。

テントの中には、私たち二人しかいなかった。雨都南の部員たちはアップのためにトラックへ出ている。少し離れた場所では、松原先輩が顧問に呼ばれていた。誰もこちらを見ていない。

それなのに、声が出なかった。

走りたい。

その言葉は、何年も前から胸の底に沈んでいる。沈めているつもりでも、雨の匂いを嗅ぐと浮かび上がってくる。走る前に靴紐を結ぶ感触。スタートの合図を待つ間だけ、全員の呼吸が同じ場所へ集まる感覚。ゴールしたあと、冷たい水を少しずつ飲む時間。

どれも捨てたと思っていた。

捨てたものなら、欲しがってはいけない。そう考えることで、私はマネージャーの仕事を丁寧に続けてきた。選手たちの記録を取り、補給を準備し、練習後には泥のついたスパイクを一足ずつ拭いた。誰かの役に立っているあいだだけ、自分がここにいてもいい気がした。

「……走りたいとか、そういう話じゃない」

やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。

蒼は笑わなかった。

「じゃあ、どういう話だよ」

「私は補欠だから。明日の選手じゃない。マネージャーとしてやることがある」

「補欠だから、走りたいって言っちゃいけないのか?」

「そうは言ってない」

「言ってるのと同じだろ。お前はいつも、先に役割を持ち出す。マネージャーだから、補欠だから、迷惑をかけたくないから。そういうの並べて、最後まで自分のことを後回しにする」

「蒼に何が分かるの」

言った瞬間、テントの中の雨音が急に大きくなった。

蒼の顔から、軽さが消えた。

「分かんねえよ」

短い返事だった。けれど、逃げなかった。

「分かんねえけど、分かろうとはしてる。お前が何でも平気な顔でやるから、こっちが勝手に想像するしかないんだよ。俺だって、走るからには勝ちたい。タイムが落ちれば腹が立つし、速いやつがいれば置いていかれたくない。明日、俺が走る種目だって、誰かに見られてると思うと足が固くなる。けど、それを笑ってごまかしてる。お前が支えてくれるから、俺は余計に何も言えなくなる」

「私のせい?」

「そういう意味じゃねえ」

「でも、今そう言った」

「違う。お前のせいにしたいんじゃなくて、お前にも言えって言ってんだよ。俺たちだけが支えてもらって、お前だけが何も受け取らないのは、対等じゃないだろ」

私は返事をしなかった。

対等という言葉が、濡れた地面に落ちた。すぐに土へ吸われてしまいそうなのに、なぜか消えなかった。

蒼は気まずそうに鼻から息を吐き、ポケットから小さな菓子パンを取り出した。包装にはコンビニの青いロゴがついている。

「食う?」

「いらない」

「今日、昼から何も食ってないだろ」

「食べた」

「ゼリー一個は食べたうちに入らねえ」

「蒼、選手なんだから、自分の準備をしたら」

「はいはい。出たよ、またそれ。俺の心配はできるのに、自分の腹は無視する。便利だな、お前」

「うるさい」

思わず声が強くなった。

蒼は一瞬目を見開いた。それから、ほんの少し口元を緩めた。

「やっと怒った」

「……怒ってない」

「怒ってる。耳、赤い」

「雨で冷えてるだけ」

「そういうことにしとく」

蒼は菓子パンを私の補給バッグへ勝手に押し込んだ。私は取り出そうとしたが、手が止まった。

「返さないの?」

「あとで食え。食わなかったら明日の俺のアップ前に食わせる」

「自分で食べればいいのに」

「俺は甘いの苦手なんだよ」

「好きでしょう。甘い缶コーヒー」

「飲み物と食い物は別」

「面倒くさい」

「お互い様」

その言葉だけは、妙に自然だった。

テントの外で、スパイクの音が近づいてきた。部員たちが戻ってくる。私は急いでボトルを並べ直した。蒼も何事もなかったように、泥のついたシューズの底を確認し始める。

そのとき、競技場の向こうに人影が見えた。

スタンド脇の照明が届かない場所に、ひとりの選手が立っている。

西陵学園の綾瀬蓮だった。

いつからそこにいたのか分からない。西陵の練習着は濃い色で、雨に濡れると輪郭が夜へ溶けていく。それでも、立ち姿だけははっきりしていた。背筋が伸び、両手は身体の横に下ろされている。誰かを待っているようにも、誰にも見つからない場所を探しているようにも見えた。

白いリストバンドが、左手首に巻かれている。

綾瀬はトラックを見ていた。競技場の中央では、雨都南の選手たちが流しを続けている。彼らの足音を数えているのかもしれない。あるいは、自分が明日走る線を確かめているのかもしれなかった。

私は知らないうちに、ボトルを持ったまま動きを止めていた。

「見すぎ」

横から蒼の声がした。

私ははっとして視線を戻した。蒼はいつものように口元を歪めていたけれど、目だけは私の顔を逃がさず追っている。

「別に。ボトル並べてただけ」

「へえ。並べるのに、向こうのエースまで数に入れてた?」

「入れてない」

「そういう顔してた」

軽口のはずなのに、妙に喉に残った。

私は曖昧に笑ってやり過ごそうとした。けれど蒼は、そこで引かなかった。濡れたテントの床を踏み、半歩だけ私へ近づく。逃げるほどではないのに、視線を落としたくなる距離だった。

「お前さ、いつもそうやって誰かのこと見てんのに、自分のことになると急に黙るよな」

「……別に」

「別に、が一番別じゃないってこと、そろそろ覚えろよ」

今度は、さっきよりも胸に刺さった。

私は濡れたトラックのラインへ目を落とした。白線は雨に滲み、土との境目が曖昧になっている。線の上に立てば、内側なのか外側なのか分からなくなる。

蒼が、低い声で続けた。

「綾瀬が何考えてるかなんて、俺には分かんねえ。でも、お前があいつを見てるときの顔は分かる。あれ、羨ましいんだろ」

「違う」

「じゃあ何だよ」

「……分からない」

初めて、否定のあとに別の言葉が出た。

蒼は黙った。

私は自分の声を聞きながら、そこに混じったものを確かめていた。綾瀬を羨ましいと思ったことはある。無敗だからではない。誰もが彼をエースとして扱い、彼自身もその場所から逃げずに立っているように見えたからだ。

私は立つ場所を自分で選んだことがない。

走ることを諦めたときも、マネージャーになったときも、「そのほうが迷惑をかけない」「そのほうが役に立つ」と考えただけだった。自分が何を選んだのか、決めたことがない。

「私、あの人が強いから気になるんじゃないと思う」

言葉にすると、ひとつずつ形が崩れていった。

「立っている場所が、私とは違うから。勝つ側にいる人は、何かを決めているように見える。負けないためでも、期待に応えるためでも、自分でそこにいるように見える。私は……誰かに必要とされた場所へ移っただけだから」

蒼は目を逸らさなかった。

「それ、今もそう思ってんのか」

「分からない」

「またそれか」

「本当に分からないの。走りたい気持ちはある。でも、走ったら何かを壊す気がする。チームの予定とか、先生の判断とか、父の言ったこととか。私が自分のために動いたら、誰かに迷惑をかける」

「迷惑をかけない人間なんか、競技場にいねえよ」

蒼はテントの外へ顔を向けた。雨の向こうで、松原先輩がスタート姿勢を確認している。足元の土は柔らかく、踏み込むたびに小さく沈んでいた。

「走る奴は、誰かに道を空けてもらう。補給を渡してもらう。記録を取ってもらう。負けたら慰めてもらう。勝ったら一緒に喜んでもらう。そういうの全部、迷惑って言えば迷惑だろ。でも、俺たちはそれを受け取って走ってる。お前だって、本当は受け取っていいんだよ」

「簡単に言わないで」

「簡単じゃねえよ。俺だって、受け取るの怖い。支えてもらったら、結果を出さなきゃいけない気がするから。でも、だからって一人で立ってるふりをしたら、余計に足元が崩れる」

言葉の最後で、蒼の声が少し掠れた。

私は彼の足元を見た。右足のつま先が、濡れた地面を何度も叩いている。焦っているときの癖だった。蒼もまた、明日への怖さを抱えている。私が見つけてしまったものを、彼はいつも冗談で隠している。

誰かの呼吸に気づけるのに、その人へ手を伸ばす言葉は遅れる。

「蒼」

「何」

「明日、勝ちたい?」

「当たり前だろ」

返事は早かった。

「俺は、勝ちたい。綺麗ごとじゃなくて、ちゃんと勝ちたい。負けたくないし、速いやつには追いつきたい。だから練習してる。でも、勝ちたいって言うと、誰かを踏みつけたいみたいに聞こえるときがある。それが嫌で、笑ってごまかしてた。けど、本当は勝ちたい。お前にも、そう言えばいいと思ってる」

私は蒼を見た。

「私は……」

言葉が喉で止まる。

その先を口にすれば、何かが戻れなくなる気がした。けれど、戻れない場所へ進むことだけが、前へ出ることではないのかもしれない。

「私は、走りたい」

声にした瞬間、雨音が一度だけ遠のいた。

蒼は何も言わなかった。

私は続けた。

「でも、明日走らせてくださいとは言えない。私より速い選手がいるし、決められた種目もある。誰かの場所を奪ってまで走りたいとは思ってない」

「誰も、奪えなんて言ってねえよ」

「それでも、走りたいと思ったこと自体が、私にはわがままに感じる」

「わがままじゃない。走りたい奴が走りたいって思うのは、ただの事実だろ」

蒼はそこで一度、言葉を切った。いつものように冗談を挟もうとしたのかもしれない。でも、やめた。

「ただし、言ったからには、明日どうするかは自分で決めろ。走らないなら、誰かに止められたからじゃなくて、お前が決めて走らないんだって言え。走るなら、誰かを言い訳にすんな。先生のせいにも、親父さんのせいにも、俺のせいにもするな。そこまで自分で引き受けるなら、俺は笑わない」

その言葉は厳しかった。

けれど、優しかった。

タオルや水筒を差し出すことしか知らなかった私に、蒼は言葉を差し出した。受け取るかどうかを、こちらへ残したまま。

遠くで、綾瀬が動いた。

彼はトラックの外周をゆっくり歩き始めた。雨を避けるように走るのではなく、濡れた地面の状態を確かめるように、一歩ずつ進んでいる。照明の下へ入ったとき、横顔が見えた。

整っていた。

整いすぎていた。

顎を引き、呼吸を数え、肩を揺らさない。誰かに見られていることを知っている選手の顔だった。立ち止まった彼は、白いリストバンドの結び目を確かめた。それから、誰もいないスタンドのほうへ目を向けた。

その姿が、なぜかひどく孤独に見えた。

「綾瀬、帰らねえのかな」

蒼が呟いた。

「分からない」

「お前、また見に行く?」

私はすぐには答えなかった。

見に行く、という言葉が、以前とは違う意味を持ち始めていた。誰かの状態を確認するために近づくのか。それとも、自分の知りたいことを知るために近づくのか。

私はまだ、そこを区別できない。

競技場の入口から、黒川先生の笛が鳴った。雨天練習を切り上げる合図だった。先生は濡れたグラウンドを一周してから、部員たちを部室へ戻している。いつものように無駄な声を張らず、選手の足元だけを見ていた。

「結衣」

先生が私を呼んだ。

「はい」

「ボトルを片づけてから来なさい」

「分かりました」

先生は一度、綾瀬のいる方向を見た。けれど何も言わなかった。

その沈黙の意味を、私は考えた。先生は見えているのかもしれない。綾瀬の背中も、蒼と私の会話も、私が今まで自分のために使わなかった時間も。

それでも、答えを言わない。

私はボトルを回収し、濡れたタオルを畳み、テントの脚を確認した。蒼は先に部室へ向かったが、少し離れたところで振り返った。

「結衣」

「何」

「さっきの、忘れんなよ」

「どれ」

「走りたいって言ったやつ」

私は返事をしなかった。

蒼はそれ以上待たず、濡れたトラックを横切っていった。スパイクの音が、雨に埋もれながら少しずつ遠くなる。

私は最後のボトルを箱へ戻した。

そのとき、スタンドの脇にいた綾瀬が、こちらを見た気がした。

距離があるので、表情までは分からない。けれど、彼は確かに顔を上げた。濡れた肩を張り、誰かに見られていると気づいた人のように、姿勢を整えた。

私は目を逸らさなかった。

綾瀬はしばらく動かなかった。雨に濡れたユニフォームが肌へ張りつき、白いリストバンドだけが夜の中で浮いている。彼の手は、何かを握りしめるように一度閉じられ、それからゆっくり開いた。

泣いているようには見えなかった。

ただ、立っていることが苦しい人間の背中に見えた。

私はそれ以上近づかなかった。まだ、近づく理由を持っていなかったからだ。支えるためなのか、尋ねるためなのか、自分の気持ちを確かめるためなのか。そのどれも曖昧なまま、足だけが動こうとした。

そのとき、背後から黒川先生の声がした。

「結衣」

振り向くと、先生は旧倉庫の前に立っていた。片手には鍵がある。

「見えているものだけを信じるな」

短い言葉だった。

私は意味を尋ねなかった。先生も説明しなかった。

濡れたボトルの箱を抱え直し、私は部室へ向かって歩き出した。廊下へ続く舗装路は雨に濡れ、照明の下で細く光っている。足を置くたび、靴底の泥が重くなった。

部室に戻ると、松原先輩のロッカーが開いたままだった。

白いユニフォームは、まだ戻っていない。

蒼が棚の下を覗き込み、部員たちは互いの顔色をうかがっている。誰も大きな声を出さない。雨音が強くなるほど、疑いは言葉にならず、視線の形で部室に残った。

私は箱を置き、濡れた床を拭いた。

一度では消えなかった泥の跡を、布の乾いた面で何度も擦る。泥は薄くなるだけで、完全には消えない。跡が残ること自体は、失敗ではないのかもしれない。消してしまえば、誰かが通ったことまでなかったことになる。

窓の外では、綾瀬の姿が照明の端から消えていた。

私は立ち上がり、旧倉庫の鍵を受け取った。

「先生。倉庫、もう一度見てもいいですか」

黒川先生は私の顔ではなく、手にした鍵を見た。

「理由は」

「まだ、見ていない場所がある気がします」

「見た場所を、見ていないと言うな。何を見落としたのか考えなさい」

私は一拍置いてから答えた。

「はい」

先生は鍵を渡した。

冷たい金属が掌へ沈む。

私は旧倉庫へ向かって歩き出した。背中に雨の気配を感じながら、今度は誰かに言われたからではなく、自分の足で、暗いほうへ進んだ。

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