第1話 名簿の端、濡れた床

大会前夜の雨都南高校、陸上部の部室は、湿った靴下とスポーツドリンクの甘い匂いが混ざっていた。息を吸うたび、喉の奥へ薄くまとわりついてくる。
窓は閉め切られているのに、どこからか雨の冷たさが入り込んでいた。古いアルミサッシの隙間か、濡れたスパイクを置いたままの玄関か、それとも、部員たちが抱えているものの隙間からか。私は原因を考えながら、大会用の名簿を机の上に広げた。
選手名、出場種目、招集時刻、補給の位置。赤ペンで引いた線が、雨の午後には妙に鮮やかに見える。
「水、十二本。経口補水液、六。ゼリー、二十四」
声に出して数え、もう一度、指で数える。水筒の蓋を一本ずつ押さえていく。緩んでいるものはない。ラベルの向きも揃っている。揃っているはずなのに、棚の奥だけが妙に軽かった。
私は名簿の端を指先で押さえ、視線を上げた。
主将、松原悠真のロッカー。
鍵は掛かっていなかった。
いつもなら、松原は決勝用のユニフォームを自分で管理する。白い布地に紺のラインが入った、学校指定のものだ。洗濯から戻ると、誰に言われなくても畳み目を揃え、ロッカーの上段へしまう。去年の秋、雨の中で予選を走ったあとも、泥のついた練習着をそのまま放り込まず、部室の隅で手洗いしていた。
そういう人だった。几帳面というより、乱れを人に見せない人。
ロッカーを開けた瞬間、その白い布がないとわかった。
空になった上段の棚に、畳み目の跡だけが残っている。指で触れると、乾いた金属の冷たさが爪の間まで入り込んだ。
代わりに、床には泥の線があった。
ロッカーの足元から、斜めに伸びている。誰かが濡れたものを引きずったような、細く途切れた跡だった。部室の床は掃除したばかりで、他の場所には靴底の水滴ひとつ残っていない。その線だけが、雨のグラウンドから続いてきたみたいに黒かった。
奥には、乾きかけたゼッケンケースが転がっていた。
拾い上げると、表面に残った水気が紙の縁をわずかにやわらかくしていた。ケースの角には、赤茶色の土がついている。雨都南のグラウンドの土に似ているが、私はすぐには断定できなかった。似ている土など、競技場の周りにはいくらでもある。
「結衣」
背後から呼ばれて、振り向いた。
松原が立っていた。練習を終えたばかりらしく、前髪の先から水が一滴、頬を伝っている。表情はほとんど動いていない。けれど、ポケットの縁を擦る指先だけが、いつもより落ち着かなかった。
「これ、松原先輩のですか」
ゼッケンケースを差し出すと、松原は一度それを見てから、私の顔へ視線を戻した。
「……俺のだと思う。たぶん」
「たぶん?」
「昨日、決勝用のゼッケンをここに入れた。今朝見たときは、ユニフォームもあった。だから、なくなったのは昼以降だと思う」
「誰かに貸しましたか」
「貸してない」
「洗濯に出したとか、顧問のところへ持っていったとか」
「それもない」
返事が早すぎた。記憶を探しているというより、すでに何度も自分に問い直した人の答え方だった。
松原は空いた棚を見た。そこに何かを置いていた人間の目ではなく、置いていたものを失くした人間の目だった。
「騒ぎにしないでくれ」
「でも、明日の決勝で必要ですよね」
「必要だ。だから困ってる」
声は静かだった。静かすぎて、かえって部室の空気を押し下げた。
周囲では、何人かの部員がこちらを見ていた。誰も近づいてこない。スパイクの紐を結び直すふりをして、聞き耳を立てている。大会前夜の部室では、視線にも重さがある。誰かが何かを見落としたのではないか。誰かが意図的に隠したのではないか。口に出さない疑いが、濡れた床の上に薄く広がっていく。
「結衣、ロッカーの管理はお前が見てたよな」
一年の男子が、悪気のない声で言った。
その言葉が、濡れた布のように肩へ乗った。
私はすぐに答えられなかった。管理していた。鍵の受け渡しも、備品の置き場所も、明日の動線も、昨日のうちに確認していた。けれど、確認したつもりだったことと、実際に見たことは違う。
「私が、もう一度確認します」
「そういう問題か?」
松原が低く言った。
「盗まれたなら、誰が入ったのかを――」
「盗まれたとは決まってない」
「でも、ロッカーが荒らされて、ユニフォームだけがなくなっているんですよ」
言いながら、声の端が少し震えた。松原の指先が、またポケットの縁を擦った。
「だから、決めつけるな。明日、余計なことを考えたくない」
「考えないで済むなら、そうします。でも、何も分からないままでは、みんなが勝手に考えます」
言い切ったあと、部室が静かになった。
私は人の呼吸の変化に気づく。誰かが息を止め、誰かが浅く吸い、誰かがわざと大きく吐いた。自分のことだけは分からない。胸の中で何が膨らんでいるのか、焦りなのか、責任感なのか、それとも、ここにいる全員から見られていることへの怖さなのか。
そのとき、部室の入口に黒川先生が現れた。
濡れた傘を畳み、壁に立てかける。先生はまず床を見た。それから松原のロッカー、私の手にあるゼッケンケース、部員たちの顔を順に見た。
「何が起きた」
誰もすぐには答えなかった。
松原が口を開く。
「決勝用のユニフォームがありません」
黒川先生は眉を動かさなかった。
「最後に見たのは」
「今朝です」
「ロッカーの鍵は」
「開いていました」
「誰が管理していた」
その問いに、いくつかの視線が私へ寄った。
「私です」
先生は一度だけ頷いた。責める様子はなかった。責めないことが、かえって苦しかった。
「松原。決勝用の予備は」
「ありません」
「結衣。最後にロッカーを確認したのは」
「朝の六時四十分です。名簿と補給品を運び込んだときに、上段まで見ました。その時は、あったと思います」
「思います?」
「……すみません。はっきり覚えていません」
自分の声が小さくなる。先生の視線は、私の顔ではなく足元に落ちていた。床の泥の線を見ている。
「謝るのは後でいい」
黒川先生は、しゃがんで泥の跡に指を近づけた。触れはしなかった。
「部室を出入りした人間を、時刻で分ける。練習に来た者、倉庫へ行った者、競技場側を通った者。勝手に探して、勝手に噂を広げない」
「でも、明日の朝までに見つからなかったら」
松原の声が初めて揺れた。
先生は彼を見た。
「見つける」
短い言葉だった。慰めではない。約束とも違う。ただ、やるべきことを決めた人間の声だった。
「結衣」
「はい」
「旧倉庫を見てきなさい。古い備品に紛れている可能性がある」
「分かりました」
「見えているものだけを信じるな」
先生はそれだけ言うと、部員たちにそれぞれの場所を確認するよう指示した。誰が何を知っているのか、誰が何を隠しているのか、私にはまだ分からない。ただ、先生の言葉だけが、雨音よりはっきり残った。
旧倉庫の扉を開けると、湿った紙の匂いが鼻をついた。
薄暗い室内には、過去の大会パンフレット、記録表、古びたゼッケンが無造作に積まれていた。箱の底には、何年も前の部旗が丸められている。紙は湿気を吸い、指で触れただけで崩れそうだった。
私はスマートフォンのライトをつけ、棚の下を照らした。泥の跡は倉庫へ続いていない。途中で途切れている。誰かがここまで運んで、別の場所へ移したのか。あるいは、最初から別の場所から引きずってきたのか。
棚の上段に、見慣れない案内紙が挟まっていた。
西陵学園との対抗戦。
印刷の強い黒い文字が、湿気でわずかにふやけている。紙の横には、地域の高校スポーツサイトの記事を切り抜いたものがあった。
雨都南の松原か、西陵の綾瀬か。
そんな見出しが踊っていた。両校のエース対決。無敗の綾瀬蓮。雨都南が守る地元の意地。選手の名前が、競技をする人間ではなく、勝敗を運ぶ記号のように並んでいる。
私は案内紙を指で押さえた。
綾瀬蓮。
名前を見ただけで、部室の空気まで思い出した。西陵学園のエース。記録会でも練習試合でも負けたことがないと、蒼が以前、記録表を眺めながら言っていた。
「勝つ奴って、勝ってるうちは人間扱いされないんだよな」
そのとき蒼は笑っていた。けれど、その笑い方は、少しだけ自分を嘲っていた。
倉庫の奥で、紙が一枚、床へ落ちた。
拾い上げると、古い大会の記録表だった。そこには何年も前の選手名が並んでいる。記録の欄には赤い丸や線が残り、誰かがその数字を何度も見返した跡があった。
勝った名前も、負けた名前も、紙の上では同じ濃さだった。
そのことが、なぜか怖かった。
部室へ戻ると、松原は自分のロッカーの前に立っていた。誰かが周囲を探ったのか、棚の中身がいったん出されている。白いユニフォームだけがない。タオルも、練習着も、靴下も残っている。
蒼が床にしゃがみ込み、泥の線を見ていた。
「これ、競技場側から来てる」
「分かるの?」
「分かるっていうか、こっちの床は水が薄い。外から入ってきたなら、もっと靴跡が残る。これ、何かを引きずった跡だろ」
蒼は指で泥の端を示した。線の片側だけが濃い。何か布地のようなものが擦れた跡に見える。
「お前、名探偵ごっこはいいから、探すなら手を動かして」
「はいはい。管理責任者様は厳しいねえ」
「今、ふざけるときじゃない」
言った自分の声に、蒼が顔を上げた。
彼は少し驚いたように目を細め、それから、いつもの軽い笑いを引っ込めた。
「分かってる」
その返事は、いつもより真っ直ぐだった。
蒼は立ち上がり、倉庫の方へ向かった。すれ違いざま、私の手からゼッケンケースを取る。
「それ、濡れてる。紙が駄目になる」
「自分で持てる」
「知ってる。だから持たせろ」
「意味が分からない」
「意味なんかなくていいだろ。お前、さっきから手ぇ冷たいし」
その言葉に、私は反論できなかった。
蒼はケースを抱えたまま、部室の窓を少し開けた。雨の匂いが一気に入り込み、湿った空気が動く。遠くのグラウンドから、誰かがスパイクの泥を落とす音が聞こえた。
私は名簿を閉じた。
閉じたはずなのに、ページの端から赤い線が覗いている。松原の名前。綾瀬の名前。補欠の欄にある、自分の名前。
私はそこを指でなぞった。
補欠。マネージャー。管理担当。
どれも間違っていない。けれど、名前の横に置かれた役割が、自分の輪郭まで決めているように感じた。
「結衣」
蒼が、倉庫の入口から振り返った。
「何」
「見つかるまで帰るなよ、って言ったら怒る?」
「怒る。先生に許可を取って」
「そこかよ」
「そこです」
蒼は呆れたように息を吐いた。それでも帰る気はないらしく、濡れたスパイクの泥を布で擦り始めた。軽口ばかりのくせに、道具を扱う手つきは丁寧だった。泥を落とし、靴底を確認し、最後に紐の結び目まで整える。
私はその横顔を見ながら、誰かのために動くことが、自分にとってどれほど簡単なのかを考えた。
探すことならできる。数えることも、記録することも、濡れたタオルを差し出すこともできる。
けれど、自分が何をしたいのかと聞かれると、途端に足が止まる。
部室の外で、雨が少し強くなった。窓ガラスに細かな水滴がぶつかり、照明をぼやけさせている。私は名簿を鞄へしまい、旧倉庫の鍵を握った。
消えたユニフォームを探す。
それは任された仕事だった。だから、まずはそれでいいと思った。自分のためではなく、主将のために。チームのために。明日の勝敗のために。
そう思いながら、私は部室の扉を開けた。
濡れた床の泥の線は、暗い廊下の先へ、まだ細く続いていた。
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