第4話 帳簿の湿り

叔父の古い手帳は、表紙の角が丸く磨り減っていた。
私はそれを鞄の底から取り出し、由子の机の白い布の上へ置いた。隣には、昨日借りた潮見坂税関支所の倉庫番号台帳の写しがある。コピー機の光にさらされた紙は、原本の湿り気や年月の匂いまでは写し取れない。それでも、ページの端に残る数字の並びだけは、元のまま正確に複写されていた。
「乾かしておきました」
由子はそう言って、半分の地図を差し出した。昨夜、彼女が預かっていったものだった。紙は心なしか張りを取り戻し、折り目の角が以前よりわずかに鋭くなっている。湿気を抜かれた紙は、まるで息を整え直した人間のように見えた。
「ありがとうございます」
礼を言いながら、私は地図と手帳と台帳の写しを机の上に並べた。配置を決めるのに、少し時間がかかった。地図を中央、手帳を左、台帳の写しを右。何度か置き直したが、結局最初の並びに戻ってしまう。由子はその様子を黙って見ていたが、咎めるような顔はしなかった。
「今日は何を確かめたいんですか」
「叔父が、この台帳のどこを見ていたのか知りたいんです。手帳に、数字の書き込みがいくつかあって」
私は手帳を開いた。ページの隅に、鉛筆で薄く書かれた数字の列がある。四、七、十二。意味のない羅列のようにも見えるが、叔父はこういうものを無駄に残す人間ではなかった。少なくとも、私の知る限りでは。
由子は手帳を受け取ると、すぐにはページをめくらなかった。まず綴じの部分を見て、次に紙の質を指先で確かめた。
「この手帳、何冊か続きがありますね」
「どうして分かるんですか」
「綴じ糸の色が、途中で変わっています。同じ種類の手帳を買い足して、同じ書き方で使い続けた跡です。几帳面な方だったんでしょう」
几帳面。その言葉が、自分に向けられたもののように私の胸に刺さった。叔父と私は、血のつながりはあっても、長く離れて暮らしていた。それでも、紙の端を揃える癖や、数字を几帳面に並べる書き方には、どこか自分と重なるものがある。それを由子に指摘されるまで、私は気づいていなかった。
由子は手帳のページを一枚ずつ丁寧にめくり、台帳の写しと見比べ始めた。彼女の指先は紙の上を這うように動くが、決して急がない。私はその隣で、同じページを何度も見返した。四、七、十二という数字が、台帳の倉庫番号と一致するかどうかを確かめたかったが、焦るほどに数字が目の前で踊るように滲んで見えた。
「これは観光案内ではない、ともう一度言わせてください」
由子が顔を上げずに言った。
「前にも聞きました」
「前と今とでは、根拠が違います」
彼女は地図を光に透かし、折り目の交差する部分を指した。
「墨のにじみ方を見てください。ここと、ここ。同じ筆で書かれたはずの線なのに、濃さが違います。にじみ方から見て、一度書いたものを後から書き直している。それも、違う時期に」
「書き直し、ですか」
「はい。そして、ページの端にこの押し跡がある」
由子は台帳の写しの一枚を指で押さえた。紙の端近くに、薄く四角い影のようなものが残っている。最初は印刷のかすれかと思っていたが、由子に言われて見ると、それは別の紙を重ねて強く押しつけた痕のように見えた。
「誰かが、この台帳の上に別の紙を置いて、何かを写し取ったか、あるいは書き加えた。日付の欄を見てください。筆跡は同じですが、数字の形がわずかに揺れている」
「揺れている、というのは」
「同じ人物が、違う緊張の中で同じ数字を書いたということです。几帳面な人間ほど、平静なときの字は均一になります。乱れるのは、何かに追われているときか、隠さなければならないときです」
その言葉を聞いて、私は叔父の最後の数年を思った。葬儀で弔辞を読んだ男の声に混じっていた、あの小さな間。誰も彼の名前を長く語らなかったこと。叔父が几帳面でありながら、同時に何かを隠し続けていたのだとしたら、その二つの性質は矛盾しない。むしろ、几帳面さこそが、隠し事を長く保たせる技術だったのかもしれない。
「この地図は、やはり倉庫監査用の裏図面だと思います」
由子は紙の端をそろえ直しながら、静かに言葉を続けた。
「観光案内図として印刷されたものを流用したのではなく、最初からこの目的のために作られた図です。道の情報より、管理の境目の情報が優先されている。そういう地図を、個人がただの記念に持っているとは考えにくい」
「では、誰が」
「それは、紙からは分かりません。ただ、持っていた理由はあったはずです」
私は机の上の南京錠に手を伸ばした。誠一の名義が刻まれた真鍮の塊を、由子の前に置く。
「これも、見てもらえますか」
由子は綿手袋をつけ直し、南京錠を両手で持ち上げた。重さを確かめるように、掌の上で静かに傾ける。何度か角度を変えたあと、彼女は小さく息をついた。
「鍵穴がありません」
「ええ」
「普通の錠前なら、閉じる機構の分だけ重さが偏ります。でもこれは、全体が均一に重い。閉じるための金属ではないと思います」
「では、何のための」
「封を残すためのものではないでしょうか」
由子の声は、いつもと変わらず平らだった。だが、その平らさの奥に、確信に近いものが滲んでいた。
「鍵をかけるのではなく、一度開けられたという事実そのものを、形として残す。扉を閉じる道具ではなく、扉が開かれた証を持ち歩くための道具です。名前が刻まれているのも、そう考えると筋が通ります。誰が開けたかを、常に示しているわけですから」
私は南京錠を見つめた。叔父の名が刻まれた輪は、閉じるためではなく、開けたことを示すために存在していた。そう考えた瞬間、胸の奥のざらつきが、形を変えて重くなった。叔父は何かを隠していたのではなく、何かを開けてしまった事実を、ずっと持ち続けていたのかもしれない。
「半信半疑、という顔をしていますね」
由子がふと言った。
「否定はできません。でも、まだ受け入れられない部分もあります」
「それでいいと思います。物証は、感情より先に答えを出しますが、人の心まで追いつかせることはできません」
その言葉は、慰めというより、事実の確認だった。だからこそ、私の中にすとんと落ちてきた。
その日の午後、私は倉庫番号台帳の写しと、港の荷役記録を照合する作業に没頭した。四番倉庫、七番倉庫、十二番倉庫。叔父の手帳に残された数字と一致する番号の荷役記録を一つずつ洗い出し、出入りの日付を並べ直す。ページを左から右へ、年代の古い順に並べ直さずにはいられない自分がいた。
記録の中には、荷役の時間が記載されていない日がいくつかあった。本来なら搬入の時刻と搬出の時刻が両方書かれるはずの欄が、空白のまま残されている。偶然の記載漏れにしては、その空白の出方に規則性があるように見えた。
「同じ曜日ばかりですね」
由子が、私の作業を横から覗き込んで言った。
「気づいていましたか」
「さっきから、あなたが同じページを三回見ています」
指摘されて、初めて自分の手が止まっていたことに気づいた。空白の日付はすべて、月の決まった時期に集中していた。潮の満ち引きの表と重ねれば、何か見えてくるかもしれない。そう思った瞬間、由子が机の引き出しから潮汐表の綴りを取り出し、無言で隣に広げた。
彼女は何も言わなかった。ただ、紙の端をそろえ、私の視線の先に静かに置いただけだった。その沈黙の中に、急がなくていい、という配慮が滲んでいるように感じられた。
窓の外では、いつの間にか日が傾き始めていた。資料室の空気は乾いていたが、港の方角から流れてくる潮の匂いだけは、どんな紙の壁も通り抜けてくる。私は手帳の数字と台帳の空白を見比べながら、叔父がこの部屋のどこかに、まだ言い終えていない言葉を残しているような気がしてならなかった。
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