第5話 港の顔役

乾修司と会うことになったのは、由子が港運会社の古い住所録を見つけたからだった。

住所録の余白に、叔父の名前と乾の会社名が並んでいた。日付は二十年前の六月二十四日。葵丸事件の夜から、まだ三日しか経っていない日だった。

由子はその紙を、私の手帳の隣に置いた。

「紹介状は書きません」

「必要ありません」

「紹介状がないと、乾さんは話をしないと思います」

「では、どうして会えと?」

「話さないところを見るためです」

由子は紙の角を揃えた。淡々とした仕草だったが、そこに乾への警戒が滲んでいた。

「人は、何かを話すときより、話さないときのほうが癖が出ます。資料と同じです」

「乾修司が、叔父の死に関係していると思いますか」

「まだ分かりません」

「それでも会う価値がある」

「あなたがそう判断したのでしょう」

肯定とも否定ともつかない返事だった。由子は、私の判断を止めることはあっても、代わりに決めることはしない。その距離感が、今はありがたかった。

乾の会社は、漁港の南側にある古い事務所と、新しい荷捌き場を一続きにした建物だった。海沿いの道を歩くと、左手には白い外壁の冷蔵施設が並び、右手には使われなくなった木造倉庫が、取り壊しを待つ家具のように立っていた。

昼過ぎの港は、朝の騒がしさを失っていた。魚を積んだトラックが通り過ぎるたび、路面に薄い水が広がる。排水溝からは生臭さと鉄錆の匂いが上がり、風に混じって頬へ触れた。

乾が指定した食堂は、漁港の角にあった。

暖簾は色褪せていたが、店内の床はきれいに磨かれていた。壁には、取り壊される前の港を写した写真が何枚も掛かっている。白い霧に包まれた倉庫群。沖合に浮かぶ貨物船。若い作業員たちが、荷札の束を持って笑っている写真もあった。

乾は奥の席に座っていた。

五十代半ばに見える男で、濃紺のシャツの袖口をきちんと留めている。高価そうではないが、手入れの行き届いた革靴を脱がずに済むよう、椅子の脚を少し外側へ向けていた。私を見ると、まず笑った。

「橘さんですね。いや、透真くんと呼んだほうがいいのかな。叔父さんには昔、ずいぶん世話になったからね」

「透真で構いません」

「そうですか。では、透真さん。座ってください。ここは魚がうまい。話は食べながらのほうが、余計な角が立たない」

乾は店員へ顔を向けた。

「お茶、二つ。透真さんは熱いのが苦手だったと思うが、違いましたか」

私は椅子を引きながら、乾の手元を見た。

「会ったことがありましたか」

「何度かね。あなたが小さい頃に」

「覚えていません」

「そうでしょう。子どもにとって港の大人は、みんな同じ顔に見える。帽子をかぶって、声が大きくて、手が魚臭い」

乾は笑った。冗談としては軽かったが、最後のところだけ声が少し上ずった。

「私が子どもの頃、倉庫街で一度いなくなったことがあるそうです」

「そういう話は、誰から?」

「家族です」

「家族は、昔のことを都合よく短くするからね。迷子になった。見つかった。大したことはなかった。だいたいそれで終わる」

「大したことがなかったなら、なぜ誰も詳しく話さないんでしょう」

乾は運ばれてきた湯呑みを私の前へ置いた。茶の表面から、かすかな湯気が立っている。

「熱すぎないようにしてある。急いで飲まなくていい」

「質問に答えてください」

「質問を急ぐ人は、答えも急いで欲しがる。けれど、港の話は急ぐと間違えるんですよ。潮も、荷物も、人間も、動いたあとに戻ることがあるからね」

「戻ったのは、荷物ですか。それとも人ですか」

乾の笑みが、一度だけ薄くなった。

だが、すぐに刺身の皿へ箸を伸ばした。白身魚を一切れ取り、醤油につける。その動きは落ち着いていた。箸先が皿の縁に触れないよう、きちんと中央へ戻している。

「昔の港は、今よりもっと人と泥が近かった。作業員も、運送屋も、税関の職員も、同じ場所で飯を食った。今みたいに区画が分かれていなかったんです。だから、誰が何を見たかなんて、いちいち記録していたら仕事にならない」

「記録がないから、何をしても許された」

「そういう言い方をすると、ずいぶん悪い街に聞こえますね」

「実際に悪いことがあったんでしょう」

乾は刺身を口に入れ、しばらく噛んだ。飲み込んでから、窓の外へ視線を向ける。港の水面は風で細かく崩れ、係留された小舟のロープが低く軋んでいた。

「透真さん。あなたは、何を知りたいんですか」

「叔父が、二十年前の六月二十四日に、四番倉庫と七番倉庫の荷役記録を確認していた。そこには乾さんの会社の名前がある。荷役時刻は、午後十一時四十分から翌日午前零時二十分まで」

乾は笑った。

「ずいぶん正確な時間を覚えている」

「帳簿に残っています」

「帳簿はね、残っている時間しか教えてくれない。書かれていない時間のことまでは、分からないでしょう」

「だから聞いています」

「なるほど。筋道立てて話す人なんですね。誠一さんに似ている」

その名前が出た瞬間、乾の箸が止まった。

ほんの一秒にも満たない間だった。だが、私は見た。乾は古い人名が出ると視線を止める。由子が言っていた、資料の傷と同じだった。小さな揺れは、全体の状態を示す。

「叔父と、どんな関係でしたか」

「仕事上の関係です。税関にいた人と、港運会社の人間。それ以上でも、それ以下でもない」

「では、なぜ似ていると」

「細かいことを気にするところがですよ。誠一さんも、荷札の向きや封の位置をよく見ていた。人の顔より、物の置かれ方を信じる人だった」

私は湯呑みに手を伸ばした。熱は残っていたが、口をつけられないほどではない。叔父から昔もらった茶の味を思い出した。何かを話す前に、叔父はいつも一度だけ湯呑みを持ち上げた。飲むためではなく、時間を置くためだった。

「葵丸事件について、知っていますか」

乾は、今度は笑わなかった。

食堂の奥で、油のはぜる音がした。店員の足音が近づき、また遠ざかる。壁の写真の中で、二十年前の港が白い霧に沈んでいる。

「たいした話じゃありません」

「事件と呼ばれているのに?」

「港では、毎年いくつかの荷物が消える。人が一人、二人、町からいなくなることもある。借金を抱えたとか、別の仕事を見つけたとか、そういう事情です。あとから名前をつけて騒ぐほどのことじゃない」

「人がいなくなることを、荷物が消えるのと同じ扱いにするんですか」

「同じとは言っていない」

「でも、そう聞こえました」

「聞こえ方は、聞く人の事情で変わる。あなたは叔父さんを亡くしたばかりだ。港の昔話を、身内の死とつなげて見ている」

「叔父は倉庫街で殺されました」

乾は茶を勧めるように、湯呑みへ手を伸ばした。

「警察は事故か強盗の線で見ている」

「あなたは、もう知っているんですね」

「港の顔役をやっていると、いろいろ耳に入るんですよ」

「それにしては早い」

「早い?」

「叔父の死が強盗か事故だと、真壁刑事から聞く前に知っていた」

乾の表情から、笑いが完全には消えなかった。ただ、口元に残った形だけの笑みが、顔に合わなくなった。

「警察がどう見ているかは、皆さん知っています。旧倉庫街で人が死んだ。再開発の工事が止まる。新聞が来る。港の人間にとっては、事件の中身より先に、次に起こる面倒が見えるんです」

「面倒を避けるためなら、真実も捨てる」

「真実という言葉は便利ですね。口にした人間が、いちばん正しい側にいるように聞こえる」

「便利だから使っているわけではありません。叔父が死んだからです」

「死んだ人間のために、街を壊すつもりですか」

乾の声は穏やかだった。怒っているようには聞こえない。だからこそ、その問いは重かった。

「街を壊したのは、私ではない」

「過去を掘り返せば、誰かが仕事を失う。会社が潰れる。再開発が止まる。そういうことまで考えているんですか」

「考える必要がありますか」

「ある。あなたが、ここで暮らしていくつもりなら」

乾はそう言って、刺身の皿を少しだけ私のほうへ押した。

「私は港をきれいにしたいと思っています。古い倉庫を壊し、道を広げ、物流を整理する。それは過去を消すためだけじゃない。働く人間が泥の中で足を取られないようにするためです。古い利害も、古い不正も、まとめて片づける。そうしなければ、この街は何十年経っても同じところを回り続ける」

「片づけるというのは、記録をなくすことですか」

「記録は、残すだけでは役に立たない。使われて初めて価値がある。役目を終えた帳簿を捨てることまで、罪のように言われては困る」

「役目を終えたかどうかを、誰が決めるんです」

乾は答えず、窓の外を見た。港運会社の建物の向こうに、再開発区画の白い高層ビルが立っている。ガラスの壁面は午後の光を受け、古い倉庫の屋根だけを冷たく照らしていた。

「透真さん、あなたはまだ、潮見坂の外の人間です」

「葬儀のために戻っただけだと言いたいんですか」

「そうではない。戻ってきた人間には、戻ってきた人間の見え方がある。外から見ると、港の沈黙は隠蔽に見える。中にいる者には、生活を守るための知恵に見えることがある」

「生活を守るために、誰かが死んでも黙る」

「死んだのは誠一さんだけじゃない」

乾の声が、初めてわずかに沈んだ。

「葵丸の夜に、あの港でいくつものものが終わった。仕事を失った人間もいた。家を出た人間もいた。名前を変えた人間もいる。それを全部、いまになって一つの事件として並べ直せば、関わった人間はみんな裁かれる。あなたはそれで、何が戻ると思いますか」

「戻らないものを戻したいわけではありません。何が起きたかを、起きなかったことにしたくないだけです」

「それは、残された側の言葉です」

「あなたは残されなかった側なんですか」

乾は答えなかった。

食堂の外で、トラックが水たまりを踏んだ。窓ガラスが細かく震え、壁の写真の一枚がわずかに傾いた。写真の中の倉庫群が、白い霧の向こうで消えかけている。

私は立ち上がり、その写真へ近づいた。

若い作業員が六人、倉庫の前に並んでいる。写真の端には、乾らしい若い男が写っていた。髪は長く、まだ笑顔に今ほどの職業的な形がない。隣には叔父がいる。税関の制服を着て、片手に帳面を持っていた。

そのさらに端に、白いコートを着た若い女が立っていた。

顔は小さく、霧で輪郭が滲んでいる。だが、私はその立ち姿に見覚えがあった。

「この女性は」

背後で椅子が軋んだ。

乾は写真を見ようとしなかった。

「古い写真です。写っている人間を、いちいち覚えていません」

「あなたは写っています」

「だからといって、全員を覚えているわけじゃない」

「叔父もいる」

「誠一さんは港の職員だった。写真に入っていても不思議ではない」

「葵丸事件の夜、あなたはどこにいましたか」

乾は笑った。

「また、その話ですか」

「答えてください」

「夜の話なら、港にいましたよ。港運会社の人間ですから。荷物が入れば立ち会う。出れば確認する。誰かが帰れば見送る。特別なことではない」

「四番倉庫に?」

「倉庫はいくつもあります」

「午後十一時四十分から翌日零時二十分の間」

「そこまで細かく言われると、覚えていないと答えるしかない」

「帳簿には、あなたの会社の荷役記録があります。乾さんの署名もある」

「私の署名があるから、私がその場にいたとは限らないでしょう。会社の帳簿は会社のものです。社長がすべての荷役に立ち会うわけではない」

「では、誰が立ち会ったんです」

「担当者です」

「名前は」

「記録を見れば分かる」

「その記録が抜けている」

乾の目が、初めて私を正面から捉えた。

「抜けている?」

「荷役時刻の欄が空白です。四番、七番、十二番。叔父の手帳に残された番号と一致している」

「それは、記載漏れでしょう」

「同じ時期に、同じ曜日だけ抜けています」

「現場では、そういうこともあります」

「あなたは、さっき荷物の時間は記録に残らないことがあると言いました。なぜ、私がその空白を調べていると分かったんですか」

乾は黙った。

笑顔を使うことを忘れたように、唇だけが少し開いている。私はその顔を見ていた。人の表情を読むのは得意ではない。だが、言葉の最後が遅れたとき、手元が止まったとき、視線が逃げたとき、それらを後から並べることはできる。

乾は咳払いをした。

「あなたが誠一さんの甥だからです。あの人なら、帳簿を調べる。甥のあなたも、似たようなことをするだろうと思っただけですよ」

「叔父は、何を調べていたんです」

「さあ」

「あなたは、叔父が私に何かを残したと思っていますか」

「残したかどうかは、あなたが決めることではないですか」

「では、あなたは何を恐れている」

乾はしばらく窓の外を見ていた。

港では、引き潮に合わせて小型船が一隻、ゆっくりと岸から離れていた。水面に伸びたロープが、濡れた蛇のように揺れている。

「恐れているんじゃない」

乾は、ようやく言った。

「私は、同じことが繰り返されるのを嫌がっているだけです。過去を掘り返す人間は、必ず自分だけが正しいと思い始める。そうなると、周りの人間は証人か共犯者に分類される。街に暮らす人間を、そんなふうに並べ替えてはいけない」

「私は誰も分類していません」

「本当に?」

乾は静かに笑った。

「あなたは帳簿を番号に分け、人間を証言に分け、沈黙を隠蔽に分けている。それは整理です。あなたにとっては。でも整理された側からすれば、逃げ道がなくなる。誠一さんも、そういう目をしていた。全部を並べ直せば、最後には正しい形になると信じていた」

「叔父は、何を正しい形に戻そうとしていたんですか」

「聞く相手を間違えています」

「あなたしか、知っている人間が残っていないからです」

乾の手が、湯呑みの脇で止まった。

「誠一さんは、最後まで口にしなかった。だから、あなたにも言わない」

「死んだ人間の沈黙を、あなたが代わりに守る理由はありません」

「理由ならあります。約束したからです」

「誰と」

乾は答えなかった。

その沈黙は、叔父のものに似ていた。けれど、叔父の沈黙が手放さないためのものだったのに対し、乾の沈黙は、何かを渡さないために口を閉じている。

私は壁の写真をもう一度見た。

白いコートの女。若い乾。帳面を持つ叔父。倉庫の背後に伸びる、海へ向かう細い線。

地図の片割れに残された線と、写真の奥に見える護岸の形が重なった。

「再開発組合の久世静江を知っていますか」

乾の視線が、今度は写真の女へ向いた。

ほんの短い時間だった。それでも、十分だった。

「名前くらいは」

「写真の女性と同じ人に見えます」

「二十年前の写真です。顔が似ている人間など、いくらでもいる」

「あなたは、久世さんが葵丸事件に関わっていたことを知っている」

「関わるという言葉は、広すぎる。港にいた人間なら、誰だって何かしら関わっています」

「あなたも」

「私も、です」

乾はその一言を、笑わずに言った。

「私は荷物を運ぶ仕事をしていた。荷物がどこから来て、どこへ行くかを知っていた。だから、知らないふりをしていたこともあります。けれど、知らないふりをしなければ、会社も、働いている人間も守れなかった」

「その結果、叔父は殺された」

「それは、まだ決まっていない」

「では、事故だと思いますか」

「事故であってほしいとは思っています」

乾は湯呑みを持ち上げた。茶はもう冷めていた。

「誠一さんが、最後まで黙ったまま死んだのなら、それはあの人が選んだことです。あなたが正しさの名で、その選択を無理に開く必要はない」

「叔父は、私に地図を残した」

「地図を残したからといって、開けと言ったことにはならない」

「あなたは、残された物の意味を勝手に決めるなと言いたいんですか」

「あなた自身が、そう言っていた顔をしていますよ」

私は返事をしなかった。

乾はようやく笑った。だが、その笑みは最初のものよりずっと薄かった。

「透真さん。港は、泥があるから動くんです。全部を洗い流せば、確かにきれいになる。でも、そのあと船を着ける場所がなくなる。人間も同じです。誰かの汚れを全部取り除こうとすれば、残った人間は立つ場所を失う」

「汚れを残したままにすることを、秩序と呼ぶんですか」

「呼び方はどうでもいい。生きている人間が、明日も飯を食えるかどうか。それが現場の答えです」

「死者の名前を消してまで?」

乾は沈黙した。

やがて、壁の写真から視線を外さないまま言った。

「名前は、消えませんよ」

「記録から消しても?」

「記録から消すことと、なかったことにすることは違う」

「私には同じです」

「そうでしょうね。まだ、あなたは失ったものの数を知らない」

その言葉が、胸の奥へ沈んだ。

乾は席を立ち、店員へ会計を頼んだ。名刺を一枚取り出し、私の前に置く。港運会社の社名と住所が整った活字で印刷されている。裏面には、細い鉛筆で潮汐時刻が書かれていた。

「何か思い出したことがあれば、連絡してください」

「あなたのほうから話す気はないんですか」

「話すべき時期が来れば」

「それは、誰が決める」

乾は、葬儀の日に従兄が言ったのと同じような笑い方をした。

「潮です。人間よりは、間違えませんから」

店を出ると、霧が濃くなっていた。

乾の事務所へ戻る道を歩くあいだ、私は何度も名刺を裏返した。鉛筆で書かれた潮汐時刻は、今日のものではない。六月二十四日。二十年前の葵丸事件の夜の日付だった。

午後十一時四十分。

翌日午前零時二十分。

帳簿に空白が残っていた時間と、乾が記した潮の時間が一致している。

私は名刺を折らずに、手帳の間へ挟んだ。乾の笑顔、遅れた語尾、写真の中の若い女、そして叔父の名前。

それらを順番に並べる。

港へ向かう道の両側で、古い建物の壁が霧に濡れていた。再開発区画のガラスだけが明るく、そこに映る私は、他人の話を聞きに行った人間ではなく、自分の知らない過去を拾い集める人間に見えた。

乾は、沈黙を生活のための知恵だと言った。

だが、沈黙が守った生活の足元には、誰かが記録から消した時間が積もっている。

私は手帳の表紙を押さえた。

乾の最後の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。

――名前は、消えませんよ。

その意味を、私はまだ決められなかった。 けれど、乾があの写真を見なかったふりをしたことだけは、見落とさなかった。

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