第3話 夜の倉庫街

午後八時を過ぎてから、私は家を出た。

由子から借りた港湾区域図の複写と、半分に裂かれた地図を鞄に入れた。南京錠は持っていかないつもりだったが、玄関を出る直前になって、トランクの底に置いたままにしておくことが不安になった。由子の言葉が正しいことは分かっていた。物を現場へ持ち込めば、見たものを物の意味に合わせてしまう。それでも、あの金属を家に残していくことは、叔父の手を途中で離すことのように思えた。

南京錠をポケットへ入れると、布越しにも重さが分かった。

家の外は霧だった。

昼間より濃く、街灯の周りだけが白く膨らんでいる。道路は濡れていないのに、靴底には細かな湿り気がまとわりついた。歩くたび、靴の中で靴下がわずかに冷える。港へ近づくにつれて、家々の明かりが減っていった。

再開発区画の高層ビルは、霧の中でも明るかった。ガラス壁の内側に、まだ働いている人間の影がいくつか動いている。白い照明に照らされた床は乾いていて、そこだけ潮の届かない場所に見えた。

その先で、街は急に古くなる。

魚屋の看板。使われなくなった荷車。錆びた街灯。廃線跡に生えた細い草。新しい建物が押し寄せても、古いものは完全には消えず、濡れた木材の匂いを街の低いところに残している。

私は何度も時計を見た。

午後八時十二分。

干潮の時間まで、あと五分だった。

地図の線を頼りに、旧税関支所の倉庫群へ入った。入口には金属製の柵があり、「立入禁止」と書かれた札が風に揺れていた。札の文字は新しいのに、柵の根元には古い錆が固まっている。私は柵の脇にできた人ひとり分の隙間へ身体を滑り込ませた。

そのとき、遠くで金属が鳴った。

硬い音がひとつ。続いて、短い間を置いてもうひとつ。

誰かが扉を叩いたのか、波が護岸の金具を揺らしたのか分からなかった。音は霧に吸われ、方向を失っていた。

倉庫街の中は、地図の上で見るより複雑だった。

壁と壁のあいだに細い通路があり、通路を抜けると別の倉庫の背面に出る。地図に描かれた線は道を示しているようで、実際には道と呼べない隙間や、かつて荷物を通したらしい斜面まで含んでいた。私は鞄から複写図を取り出したが、霧で紙が湿り始め、印刷された線が街灯のない暗がりに沈んだ。

四番倉庫。

地図の切断面に残った数字は、そこまでしか読めなかった。

私は壁に貼られた古い番号札を探した。三番の札は、剥がれかけたシャッターの脇に残っていた。その先に四番があるはずだったが、通路は養生用の青い幕で塞がれていた。幕には再開発組合の印があり、風を受けるたびに、ばたばたと乾いた音を立てている。

青い幕の向こうから、潮の匂いがした。

私は手を伸ばし、幕の端を少し持ち上げた。濡れたコンクリートの上に、細い足跡が続いている。作業員のものかもしれない。靴底の溝は浅く、足跡は倉庫の奥へ向かっていた。

一歩、踏み入れた。

足元で小さな金属片を蹴った。振り返って拾うと、古いボルトだった。表面に黄褐色の錆が浮き、指先にざらつきが残る。叔父の南京錠に触れたときと、同じ種類の冷たさだった。

その瞬間、胸の奥が狭くなった。

濡れた木の匂い。

遠くで何かを引きずる音。

低い声で、誰かが私の名前を呼んでいる。

記憶なのか、現在聞こえた音なのか分からなかった。私は壁に手をついた。コンクリートは水を含み、指の腹へ冷たさを押し返してくる。幼い頃にも、同じように冷たい壁へ手をついた気がした。だが、その手が自分のものなのか、誰かに押しつけられたものなのかは思い出せない。

霧の向こうで、何かが動いた。

人影だった。

私は息を殺した。

影は倉庫の搬入口の前に立っていた。背を向けているようにも、こちらを見ているようにも見える。作業着の肩が濡れて暗くなっていた。私は声をかけようとしたが、喉が固まった。

影がゆっくりと崩れた。

膝から落ち、上体が鉄板の上へ倒れる。鈍い音がして、そのあとには波の音しか残らなかった。

「誰か!」

声が霧の中へ飛び、すぐに消えた。

私は近づいた。足元の鉄板を踏まないように、靴の置き場所を確かめながら進む。倒れている男はうつ伏せだった。片方の腕が身体の下に入り、もう一方の手だけが外へ出ている。指先は開いたままで、何かを掴もうとした形に見えた。

肩へ触れる前に、死んでいると分かった。

皮膚の冷たさではなく、そこにある身体が、もう周囲の音を受け取っていないことが分かった。霧も、潮騒も、私の呼吸も、その男の中へ入っていかない。

私は後ずさった。靴底が鉄板の端に触れ、軽い音が鳴った。

手元に、真鍮の欠片が落ちていた。

南京錠の輪の一部に見えた。縁が潰れ、片側に黒い擦り傷がある。私はポケットの上から、自分の南京錠を確かめた。布越しに輪の付け根が触れる。形は似ている。だが、同じものだと断定するには、暗すぎた。

携帯電話を取り出し、通報した。

自分の声が震えていないことに、あとから気づいた。震えていたのは声ではなく、端末を持つ指だった。

警察が来るまでの時間は、実際には十五分ほどだったはずだ。それでも、霧の中では長さが失われていた。サイレンの赤い光が見えたとき、私は死体から少し離れた場所に立ち、何度も自分の靴底を見ていた。

真壁恒一は、若い警察官を二人連れて現れた。

黒い上着の肩に霧が細かな水玉になっている。彼は私へ近づくなり、顔ではなく靴底を見た。次に搬入口、倒れた男、私の鞄の順に視線を動かした。

「通報したのはあなたですね」

「はい」

「中へ入った時刻は」

「八時二十分ごろです」

「ごろ、では困ります」

真壁は手帳を開いた。ペンを持つ手は落ち着いているのに、親指だけが紙の端を何度も押していた。

「正確には」

「八時二十一分。時計を見たのを覚えています」

「死体に触れましたか」

「触れていません。肩に手を伸ばしましたが、触れる前にやめました」

「近づいた距離は」

「一メートルほどです。金属片を拾いました」

真壁のペンが止まった。

「拾った?」

「これです」

私は手袋を持っていなかったので、金属片を地面へ置いた。真壁は若い警察官へ目を向け、証拠袋を出させた。拾い上げる動作に無駄がない。袋の口を閉じてから、彼はもう一度私を見た。

「なぜ拾ったんです」

「自分の持っている南京錠に似ていたからです」

「南京錠?」

私はポケットからそれを出した。

真壁の顔に、ほんの一瞬だけ何かが通った。驚きではない。見覚えのある物を前にした人間の、確認のための硬さだった。

「それは、どこで」

「叔父のトランクから」

「叔父さんというのは」

「橘誠一です」

真壁はすぐには書かなかった。

「橘誠一さん。あなたの叔父さんですね」

「はい」

「亡くなったのは、いつですか」

「昨日です。葬儀をしたばかりです」

「亡くなった理由は」

「心不全だと聞いています」

「聞いている?」

「医者から直接ではありません。親族からです」

真壁はペンを回した。霧の向こうで、倉庫のどこかから水滴が落ちる音がした。

「その錠前を、こちらへ」

私は渡しかけたが、指が止まった。

「預ける必要がありますか」

「死体のそばで、同じような金属片が見つかっている。関係があるかどうか確認するだけです」

「叔父の遺品です」

「遺品なら、なおさら確認が必要でしょう。持ち主の名前まで刻まれている」

真壁は声を荒げなかった。だから、断る理由が薄くなった。私は南京錠を手渡した。彼の手袋をした指が、刻印の上を一度なぞる。

「橘誠一」

真壁は名前を声に出したあと、手帳へ書いた。

「この人を知っていますか」

「顔は分かりません。ここへ来るまで、名前も知りませんでした」

「死体の顔を見ていない?」

「霧でよく見えませんでした。今も、確認していません」

「確認してください」

若い警察官が身体を少し動かした。濡れた作業着の肩、灰色の髪、頬に残る浅い傷。顔が見えたとき、私は息を吸えなかった。

叔父だった。

葬儀で見た顔より、ずっと遠くにある顔だった。眠っているようには見えない。人の身体から、暮らしてきた時間だけが抜き取られている。

喉の奥から音が出た。

「……叔父です」

真壁は私を見た。

「間違いありませんか」

「間違いません」

「では、身元確認として」

「橘誠一です。私の叔父です」

言い直すと、言葉が現実になった。

真壁は死体の周囲へ視線を戻した。搬入口の扉には古い封緘の跡があり、その上から新しい養生テープが貼られている。誰かが封を剥がし、急いで別の印を重ねたように見えた。

「強盗か、転落事故の線で見ます」

真壁が言った。

「この場所へ、叔父が来る理由は?」

「それを私に聞いているんですか」

「あなたが地図を持って、立入禁止区画へ入り、叔父さんの死体を見つけた。偶然にしては、順番がよすぎる」

「地図に、この場所が示されていました」

「何の地図です」

私は鞄から半分の地図を出した。真壁は受け取らず、ライトだけを向けた。濡れた紙の切断面が白く浮かび、倉庫番号の途中で線が途切れている。

「もう半分は?」

「ありません」

「ない、というのは」

「叔父のトランクに入っていたのは、これだけです」

「誰かが持っていった可能性は?」

「分かりません」

「あなたは、誰かに持っていかれたと思っている?」

私は返事をしなかった。

分からないものは、分からないまま印をつけておく。由子の声が浮かんだ。だが、叔父の死体の前でその言葉を守ることは、ひどく難しかった。

「叔父は、何かを残そうとしていたと思います」

真壁は私の言葉を記録しなかった。

「そういう話は、署で聞きます。ここで意味をつける必要はない」

「意味をつけているのは、あなたのほうです。強盗か事故だと、先に線を引いている」

若い警察官がこちらを見た。真壁は怒らなかった。ただ、手帳を閉じた。

「線を引くのは、現場を守るためです。線がなければ、誰でも入ってきて、誰でも自分の見たいものを見始める。そうなれば、死んだ人間の周りに、生きている人間の都合だけが積もる」

「それで、見ないものを決めるんですか」

「見ないものを決めるのではなく、今見るべきものを決めるんです。あなたは叔父さんを失ったばかりで、判断が偏っている」

「判断が偏っていても、叔父がここで死んでいる事実は変わりません」

「変わりません。だから、私たちに任せてください」

真壁の声は疲れていた。正しさを主張する声ではなく、これ以上誰かをこの場所へ近づけたくない人間の声だった。

だが、その疲労の中に、別のものも混じっていた。

知っている。

この倉庫の扉も、封緘の跡も、叔父の名前も。少なくとも真壁は、見知らぬ死体を前にした刑事の顔だけではなかった。

「葵丸事件を知っていますか」

問いかけると、真壁の指が手帳の角で止まった。

霧が倉庫の屋根を越え、低く流れてきた。誰かが遠くで呼んだような声がしたが、聞き取れなかった。

「その名前を、どこで?」

「叔父の帳面です」

嘘ではない。ただ、薄く残った文字を私が勝手に結びつけただけだった。

真壁は一度、死体へ目を向けた。それから、私の鞄へ視線を落とした。

「昔の事件です」

「どんな事件ですか」

「あなたが今ここで知る必要はありません」

「叔父が関わっているなら、私には必要です」

「必要かどうかを決めるのは、あなたではない」

「では、誰が決めるんですか」

真壁は答えなかった。

答えない沈黙だった。叔父の沈黙とは違う。叔父の沈黙が何かを抱えて動かなかったのに対し、真壁の沈黙は、これ以上踏み込めば誰かが壊れる場所を測っていた。

私は死体のそばに落ちた金属片を見た。

真鍮の縁。黒い擦り傷。濡れた鉄板。

そして、ポケットから抜き取られた南京錠が、証拠袋の中で鈍く光っている。

叔父の名前が、透明な袋の上から読めた。

その名前は、葬儀の弔辞で聞いたときよりもはっきりしていた。誰からも信頼された人間という言葉ではなく、死体と金属と地図の間に置かれた、ひとつの物証として。

私はその夜、初めて叔父の死を自分の問題として見た。

悲しいからではない。

叔父が何かを隠していたからでもない。

私の知らない場所で、私の知らない時間を抱えたまま、叔父が最後まで立っていた。その時間の端に、私の名前が触れている気がしたからだ。

霧の向こうで、潮が満ち始めていた。

防波堤の細い通路は、暗い海の下へ戻っていく。足跡も、錆びた釘も、誰かが残した細い線も、少しずつ水に覆われていく。

それでも、地図の切断面だけは消えなかった。

鞄の中で、由子が包んだ紙がかすかに擦れた。

私はその音を聞きながら、叔父の死体から目を逸らさなかった。

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