第2話 裂け目が示す場所

眠れなかった。
玄関の外に残された濡れた指の跡は、夜のうちに乾いて薄くなった。だが、消えたわけではない。靴を履く前にもう一度見に行くと、木の表面に細い水の筋が残っていた。誰かの指が触れたのか、それとも霧が偶然そういう形を作ったのか、私には判断できなかった。
判断できないものを、そのままにしておくことが苦手だった。
私は居間へ戻り、机の上の地図を広げた。昨夜つけた鉛筆の印を消し、最初から見直す。旧市街、駅、廃線跡、護岸。観光地図なら、駅から港へ向かう大通りや、古い灯台の位置が目立つはずだった。だが、片側しか残っていない地図には、観光客が必要としない細い線が多すぎた。
倉庫の裏側へ回る道。
護岸と護岸のあいだに残る、途切れたような線。
地図の端にかろうじて見える数字。
私は祖母の家にあった古い港の案内図を押し入れから探し出し、机の上に重ねた。紙の大きさも印刷の色も違う。だが海岸線の形はほとんど同じだった。二枚の地図を少しずつずらしながら合わせていくと、裂け目の近くに残った線が、旧税関支所の倉庫群へ向かっていることが分かった。
旧税関支所は、現在では使われていない。建物の一部は再開発区画に取り込まれ、残った倉庫も順番に取り壊されると聞いていた。地図の上ではひとつの区域にすぎない場所が、実際には消えかけた道と、残される予定のない建物の集まりになっている。
私はノートに時刻を書いた。
六月二十三日、午前六時四十分。地図の線は旧税関支所倉庫群を指す。
それから、叔父のトランクを持ち上げた。地図だけを鞄に入れることも考えたが、南京錠を置いていく気にはなれなかった。金属の輪が革の内側に触れるたび、かすかな音がする。その音は、昨夜聞いた玄関先の擦れる音に似ていた。
市立図書館までは、歩いて二十分ほどだった。
港から離れる方向へ歩いているのに、潮の匂いは薄くならなかった。潮見坂では、海が見えない場所にも潮がいた。商店街の軒先に吊るされた看板、古い木造家屋の柱、閉じたままの魚屋のシャッター。どれも湿り気を含み、朝の光を鈍く返している。
再開発区画だけが別の時間に建っていた。
ガラス張りの複合施設には、まだ開店前だというのに照明がついている。白い壁面に映った空は、港の霧を薄い青として処理していた。歩道には水たまりひとつなく、植え込みの土まで整えられている。その向こうで、古い商家の庇から雨水が一滴ずつ落ちていた。
新しい街は、濡れたものを見せない。
そんな考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。街に意思があるわけではない。意味を付けているのは、私のほうだった。
図書館の裏手にある資料室は、一般の閲覧室よりさらに奥にあった。扉を開けると、紙と乾燥剤の匂いがした。外の湿気から切り離された空間で、空調の低い唸りだけが聞こえる。
岩倉由子は、窓際の机で紙箱を整理していた。
箱の中身を取り出すたび、年代の札を確認し、紙の角を揃えて戻している。私に気づくと、手を止めた。驚いたようには見えなかった。
「開館前です」
「すみません。資料を見てほしい」
「急ぎますか」
「自分でも急いでいるのか分かりません。ただ、今日見なければならない気がします」
由子は私の顔ではなく、鞄を見た。それから机の上を空け、白い布を一枚敷いた。
「出してください。濡れてはいませんね」
「昨夜、霧に触れました」
「霧は濡れているのと同じではありません。紙にとっては、もっと悪い場合があります」
私は地図を取り出した。机の上へ置くと、由子はすぐには触れなかった。手を洗い、袖口を整えてから、薄い綿手袋を外した。
まず、地図を光に透かした。
次に、折り目に沿って指先を滑らせた。紙の縁を爪で引っかくことはしない。触れているのかいないのか分からないほどの力で、裂け目の一方からもう一方へ移っていく。
最後に、紙を鼻元へ寄せた。
「観光案内ではないですね」
「昨日も、そう言われました」
「誰にですか」
「まだ、誰にも。あなたが最初です」
由子は一度だけ眼鏡の位置を直した。
「なら、言い方を変えます。観光案内として印刷されたものを、別の用途に使ったのではありません。最初から裏図面です。表向きの地図に見せる必要があっただけで、作った人が見ていたのは道ではなく、管理の境目です」
「管理の境目」
「倉庫番号、搬入口、護岸の継ぎ目。人が歩くためではなく、物がどこから入り、どこで止まり、どこから出るかを確認する線です」
由子は鉛筆を短く削り、地図の余白に小さな印をつけた。
「ここを見てください。数字の印刷が、道路名よりも薄い。あとから消したのではなく、最初から薄く印刷されている。公に見せる情報ではなかったのでしょう」
「旧税関支所の番号ですか」
「おそらく。断定はできません。ただ、折り目の順番が面白いです」
彼女は地図を裏返し、折り目の交差する箇所を示した。
「この紙は、中央から二つに折ったあと、さらに細く畳まれています。持ち歩くための折り方ではありません。決めた箇所だけを開いて確認するための折り方です」
「決めた箇所というのは?」
「作った人が、見るべき部分を知っていたということです。誰かに渡すための地図ではなく、同じ場所を知っている人間が使う地図です」
私は切断面を見た。昨夜から何度も触れた紙の繊維が、由子の机の白布の上で浮き上がっている。
「もう半分があれば、場所を特定できますか」
「半分が必要です」
「この部分だけでは無理ですか」
「無理ではありません。ただ、推測になります」
「推測でもいい」
「よくありません」
由子の声は低く、平らだった。だが、その平らさの奥に、わずかな硬さがあった。
「記録をつなぐとき、足りない部分を都合よく補うと、あとで全体が歪みます。地図でも証言でも同じです。分からないものは、分からないまま印をつけておく。そのうえで、別の資料と照合します」
「叔父の死と関係があるかもしれない」
「だからこそです。関係があると思った瞬間、人は見たい線だけを見ます」
反論しようとして、やめた。
由子は地図の上に、図書館備え付けの港湾区域図を重ねた。透明な薄紙に印刷された現在の区画図だった。旧税関支所の倉庫群は、再開発予定地の端に押し出されるように残っている。
「この線は、現在の道路とは一致しません」
「廃線跡ですか」
「一部はそうです。ただ、ここから先が違う」
由子は港の東側を指でなぞった。護岸の外側、海に張り出した古い防波堤の線だった。
「満潮時には消える通路があります。今の地図には載っていません。古い施設図には、点線で残っている」
「通路が海の中に?」
「正確には、海水に覆われる護岸です。干潮時だけ、人が通れる幅になります。使う意味があるとすれば、倉庫から別の倉庫へ、表の道を使わず移動するためでしょう」
「密輸に使われた、と?」
由子はすぐには答えなかった。紙の角を揃え、鉛筆を机の端へ置いた。
「その言葉を使うには、まだ資料が足りません。ただ、旧税関支所の管理線と、干潮時に現れる通路が重なるなら、偶然として扱うのは難しいと思います」
「葵丸事件について、何か知っていますか」
由子の指が止まった。
それはほんの一瞬だった。私は相手の顔より手元を見る癖がある。だから、眼鏡の奥の表情より先に、その指の止まり方を見た。
「その名前を、どこで聞きましたか」

「叔父の帳面に、途中まで書かれていました」
嘘ではなかった。帳面の余白には、読めないほど薄い文字で「葵」とだけ残っていた。ただ、事件名まで読んだわけではない。
由子は私を見た。初めて、目を合わせた。
「葵丸事件は、港の古い記録を調べる人なら、いずれ見つけます」
「あなたも調べたことがある」
「調べたというより、欠けていることに気づいたことがあります。港湾資料の一部が、同じ年代だけ不自然に抜けている。廃棄や水損なら、欠け方にばらつきが出ます。でも、あの年代の記録は、切り取られたように揃っていない」
「誰かが消した」
「そう考えるのが自然です。ただし、消した人間までは紙から分かりません」
「叔父は、その記録を持っていたんでしょうか」
「それも、まだ分かりません」
由子は地図を私の側へ戻した。
「でも、ひとつだけ確かなことがあります。これは、亡くなった人が何も考えずにトランクへ入れた紙ではない」
「わざと残した、と?」
「残した人が何を望んでいたかは別です。誰かに見つけてほしかったのか、誰かに持っていてほしくなかったのか。物は、その意図までは証言しません」
その言葉は冷静だった。だからこそ、叔父の姿が急に近くなった。
叔父は、私に何かを伝えようとしていたのかもしれない。あるいは、私が見つける可能性を知りながら、最後まで自分の手元に置いていたのかもしれない。
葬儀の夜、空の椅子を見たことを思い出した。二つの湯呑み。冷えた茶。誰にも使われないはずの椅子。
叔父は、家の中に空いた場所をいくつも残していた。
それらを私は、ただの生活の癖だと思っていた。
由子が、地図の裂け目に細い紙片を添えた。港湾区域図の複写だった。旧税関支所の倉庫番号のひとつに、薄い丸印がついている。
「ここです」
「何番ですか」
「印刷が欠けています。四番までは読めますが、その先は地図のもう半分が必要です」
「現地へ行けば分かる」
「立入禁止です」
「だから、外から見ます」
「透真さん」
名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
「現地へ行くなら、潮位を確認してください。地図の線が通路を示しているなら、満潮時には戻れなくなる可能性があります」
「そこまで危険な場所ですか」
「危険かどうかは、行ってみないと分かりません。ただ、分からない場所へ行く人は、戻る時間だけは分かっていなければいけない」
由子は潮汐表の写しを出し、今日の干潮時刻に鉛筆で印をつけた。数字は細く、迷いがなかった。
「午後八時十七分。通れるのは長くありません」
「一緒に来てもらえますか」
尋ねてから、頼み方が急だったと思った。由子は返事をせず、地図を紙箱へ戻す準備を始めた。
「私は現場を見るために同行するわけではありません」
「では、何のために」
「紙から読める範囲を、現地で確かめるためです。あなたの記憶を確かめるためではありません」
その言葉に、胸の底がわずかに冷えた。
私自身も、地図を見ているのか、地図を口実にしているのか分からなかった。旧倉庫街の名前を聞いただけで、海水に濡れた足首の感覚が戻ってくる。遠くで金属が擦れる音。誰かが私の腕をつかんだ感触。
けれど、その手が誰のものだったのかは思い出せない。
「記憶は、あてになりません」
私は言った。
「そうですね」
「でも、物証だけでも足りない」
「だから照合します」
由子はようやく地図を畳んだ。折り目は元の順番に戻され、切断面が傷まないよう薄紙で包まれる。
「夜に行くなら、南京錠は持っていかないほうがいいと思います」
「なぜですか」
「持っている理由を説明できないからです。説明できない物を現場へ持ち込むと、見たものをその物の意味に合わせてしまう」
私は鞄の中の金属に触れた。
「これは叔父の遺品です」
「だからこそ、手元に置くべきです」
由子はそこで言葉を止めた。しばらくして、少しだけ声を落とした。
「物を守ることと、物に守られることは違います。南京錠を持っていれば、あなたはそれが答えを知っていると思ってしまう。ですが、金属は沈黙します。答えを作るのは、あなたです」
それは慰めではなかった。慰めでないから、私は聞くことができた。
図書館を出るころ、霧が港の方角から流れてきていた。再開発区画のガラス壁だけが霧を拒むように白く光り、旧市街の建物は輪郭から先に沈んでいる。
私は歩きながら、鞄の中の地図を確かめた。由子が包んだ薄紙の角が、鞄の内側にまっすぐ触れている。
旧税関支所。
倉庫群。
干潮時だけ現れる通路。
そして、切断された先にあるはずの番号。
その線を追えば、叔父が何を隠したのか分かるかもしれない。だが、地図の先にあるのは叔父の過去だけではない気がした。
私は幼い頃、港で一度だけ姿を消した。
そのことを、家族は誰も詳しく話さなかった。私自身も、話題にされるたびに聞こえないふりをした。忘れていたのではない。忘れたことにしていた。
港へ向かう道の途中で、私は足を止めた。
ガラス張りの建物に、私の姿が映っている。喪服の名残がまだ身体に残り、片手には古いトランク、肩には鞄。背後には、白い霧と、錆びた看板と、取り壊しを待つ倉庫の影がある。
私は鞄の中の南京錠に触れた。
その冷たさは、叔父の死から届いたものではなかった。もっと前から、私の記憶の底で待っていた冷たさだった。
午後八時十七分。
潮が引く。
私はノートを開き、現地確認の時刻を書いた。書き終えてから、由子の言葉を思い出した。
分からないものは、分からないまま印をつけておく。
私は地図の欠けた部分に、鉛筆で小さな線を引いた。
その線の先に、まだ名前のない場所があった。
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