第1話 葬儀のあと、空の椅子

叔父の葬儀で、私は誰の顔も長く見なかった。

見れば、何かを尋ねなければならなくなる気がした。叔父の死について、最後に会った日について、なぜ港で働いていた人間の葬儀にしては、参列者が少なすぎるのかについて。

潮見坂の斎場は、海に近いせいか、玄関を開けるたびに湿った砂の匂いが入り込んだ。床は磨かれていたが、親族席の周りだけ、靴底から落ちた細かな砂が黒い筋になって残っている。私は焼香を待ちながら、その筋を見ていた。花の甘い匂いより、靴の裏に張りついた砂の感触のほうがはっきりしていた。

前の席で、叔父の古い知人らしい男が弔辞を読んでいた。

「橘さんは、長く港を支えてこられた方で……」

声はよく通った。だが、誠一という名前が出るところだけ、ほんの少し間が空いた。

「……誠実で、誰からも信頼される人でした」

その間が何を意味するのか、私はそのとき考えなかった。考えたくなかったのかもしれない。

叔父は六十八歳だった。病気の知らせを受けたのは三日前で、葬儀の日取りが決まったのはその翌日だった。急だった、と親族は繰り返した。だが、急だったという言葉は、何も説明していなかった。

叔父の死について、医者は心不全だと言った。警察も事件性はないと判断しているらしい。誰かがそう話していた。私はその誰かの顔を見なかった。

焼香を終え、親族席へ戻ると、私の隣に置かれた椅子が空いていた。

そこには本来、叔父の妹である母が座るはずだった。だが母は数年前から施設に入り、今日は来ていない。空の椅子には、黒い布がかけられていた。布の端が畳に触れ、湿気を吸って少し波打っている。

私はその椅子を見ながら、叔父が生きていた頃にも、いつもひとつ空席があったことを思い出した。

叔父の家の居間には、六人掛けの古い食卓があった。叔父はひとりで暮らしていたのに、食事のときは決まって二つの湯呑みを出した。私が子どもの頃、その理由を尋ねたことがある。

「片づけるのが面倒なだけだ」

叔父はそう言って、もう一つの湯呑みを棚へ戻した。

あれが誰のものだったのか、私は聞かなかった。叔父も説明しなかった。聞かなかったことを、私は長いあいだ無関心と呼んでいた。いま思えば、ただ聞くのが怖かっただけなのかもしれない。

葬儀が終わったころには、外は霧に包まれていた。

斎場の駐車場に出ると、街灯の光が白くほどけていた。海から吹く風が喪服の隙間へ入り、シャツの背中を冷たく撫でた。親族のひとりが、斎場の脇に置かれていた革張りのトランクを持ち上げた。

「これ、誠一さんの形見だ。透真くんが持っていきな」

「私が?」

「ほかに持つ人もいないだろう」

その言い方には、親切というより、早く手放したいという響きがあった。

私はトランクを受け取った。金具が掌に食い込み、古い革の冷たさが皮膚へ移った。思っていたより重かった。中身が詰まっているというより、底の一部だけに重みが偏っている。

私は反射的に持ち替えた。右手から左手へ。次に両手で持ち、底を支える。

「重いかい?」

「いえ。中に何が入っているかと思って」

「たいしたものじゃない。古い帳面とか、服とか、その程度だ」

男はそう言って、トランクから視線を逸らした。私は返事をせず、革の角を見た。右下だけが擦れて白くなっている。雨に濡れて乾いた跡が、細い筋になって残っていた。

叔父の家へ戻る車の中でも、私はトランクを膝に置いたまま、何度も持ち替えた。

運転をしてくれた従兄が、バックミラー越しに私を見た。

「東京へ戻るのは、いつだ」

「まだ決めていない」

「家は売るんだろう?」

「中を確認してから」

「誠一さんは、そういうのを全部任せるつもりだったんじゃないか。あの人は最後まで、先のことを話さなかったけどな」

従兄は笑おうとした。だが笑いは途中で途切れ、ワイパーの音に溶けた。

「叔父は、何か変わったことを言っていなかった?」

「変わったこと?」

「最近、誰かを警戒していたとか。港へ行くな、とか」

従兄はしばらく黙った。

「港の人間は、だいたい何かを警戒しているよ。潮も、天気も、他人の荷物もね」

それ以上、彼は話さなかった。

家に着くと、玄関のたたきに細かな砂が落ちた。私は靴を脱ぎ、トランクを廊下へ置いた。叔父の家は、葬儀のために人が出入りしたはずなのに、音が残っていなかった。誰かが歩いた気配だけが、家具の隙間に薄く積もっている。

居間には、座布団が三枚、ばらばらに置かれていた。湯呑みが二つ。片方には茶渋が残り、もう片方は手つかずのまま冷えていた。

私はまず、机の上を片づけた。

封筒。線香の箱。葬儀社から渡された書類。使いかけのマッチ。ひとつずつ左から右へ並べ、封筒の角を揃えた。こうしていると、胸の内側に張りついたものが少しずつ剥がれていく。

叔父の死を悲しんでいるのかどうか、私はまだ判断できなかった。悲しみというものは、もっと形があると思っていた。涙が出るとか、声が震えるとか、そういう目に見える変化が起きるものだと。

私の場合、ただ部屋の物の位置が気になった。空の椅子の向きが斜めになっていること。湯呑みの底に輪染みがあること。窓の鍵が半分しか閉まっていないこと。

それらを直したあと、トランクを机の上へ載せた。

革は乾いていた。鼻を近づけると、古紙と金属と、わずかな潮の匂いがした。叔父の家にあったものには、たいてい港の匂いが染みついていた。新聞にも、衣服にも、木の引き出しにも。だがこのトランクの匂いは、家の中のものより深く、長く閉じられていた場所の匂いに近かった。

金具を外すと、乾いた音がした。

中には、たたまれたシャツが三枚、古い帳面が二冊、封筒に入った港の写真、折れた万年筆があった。どれも叔父が持っていて不思議ではない。

底には薄い毛布が敷かれていた。私はそれを取り出し、裏返した。

毛布の下から、真鍮製の南京錠が現れた。

鍵穴が見当たらなかった。錠前というより、小さな金属の塊に輪をつけたような形をしている。表面には、潮を吸ったような鈍い黄褐色の錆が浮いていた。

輪の付け根に、文字が刻まれていた。

橘誠一。

叔父の名前だった。

私は南京錠を持ち上げ、掌の上で転がした。冷たいはずなのに、しばらくすると金属が体温を吸い、ぬるくなった。角の一箇所だけ、黒い擦り傷がある。何かに強く押しつけられた跡のようだった。

「これは、何だ」

口に出してから、自分の声が他人のもののように聞こえた。

帳面の間には、古い観光地図が挟まっていた。潮見坂港周辺の地図だった。二十年以上前に配られていたものらしく、紙の色は白ではなく、薄い灰色に変わっている。

地図は中央付近で、きれいに二つに裂けていた。

無理に破った裂け方ではなかった。切断線はほぼ一直線で、ところどころ刃物の跡のように繊維が短く切れている。片側には旧市街と駅が描かれ、もう片側には港湾区域の一部が残っていた。

私は机の上に地図を広げた。

観光地図にしては、倉庫の位置が細かい。土産物店や飲食店よりも、護岸の継ぎ目、廃線跡、倉庫の背面にある細い通路が目についた。地図の端には、途中で切れている数字がある。

「……四番?」

鉛筆で切断面の近くをなぞると、薄い印刷の跡が浮かんだ。倉庫番号らしいが、肝心の後半が失われている。

私は古いノートを取り出し、日付を書いた。

六月二十二日。叔父の葬儀。トランクから発見。真鍮製南京錠。半分に裂かれた地図。倉庫番号らしき印刷。

書き終えてから、地図をもう一度見た。

裂けた紙の向こうに、失われた部分がある。単純なことだった。もう半分が存在するなら、誰かが持っている。叔父が破ったのか、誰かに破られたのか。そのどちらであっても、偶然ではない。

私は南京錠と地図を並べた。左に南京錠、右に地図。何度か置き直した末、最初の位置に戻した。

配置が決まると、少しだけ呼吸が楽になった。

叔父は死ぬ前に、これらをトランクへ入れた。衣類や帳面の下へ隠すようにして。誰かに見つけてほしかったのか、誰にも見つけてほしくなかったのか、その意図までは分からない。

ただ、私が見つけた。

その事実だけが、机の上で妙に重かった。

夜が深くなっても、私は眠れなかった。台所で湯を沸かし、熱すぎない茶を淹れた。湯呑みを持って居間へ戻ると、窓の外から潮の音が聞こえた。

満ちてくる海が、暗い岸壁をゆっくり押している。

窓を少し開けると、海霧が室内へ流れ込んだ。頬に触れた空気は冷たく、指先に残った南京錠の感触を思い出させた。

私は南京錠をもう一度手に取った。

鍵穴のない錠前。

持ち主の名を刻まれた、閉じるためだけではない金属。

そのとき、玄関の外で何かが擦れる音がした。

私は動かなかった。

風で枝が壁に触れたのかもしれない。誰かが通り過ぎただけかもしれない。だが、音は一度では終わらなかった。砂を踏む、ゆっくりした足音が、家の前で止まった。

湯呑みの中で、茶の表面がかすかに揺れた。

私は南京錠を握ったまま、空の椅子を見た。葬儀場で見たものと同じように、そこには誰も座っていない。

けれど、その椅子の背に、濡れた指の跡がひとつ残っていた。

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