第10話 消し跡の向こう側

翌朝、僕はいつもより早く目を覚ました。

目覚ましが鳴る前だった。窓の外はまだ薄暗く、隣の家の屋根だけが灰色に浮かんでいる。布団の中で目を閉じていても、机の上に置いた進路調査票の白い欄が見えた。

昨日の夜、僕はそこへ、大学名ではなく一行だけ書いた。

「競技を続けながら、身体の動きについて学びたい」

書いてから、何度も読み返した。きれいな言葉ではない。志望理由として十分かどうかも分からない。それでも、誰かの名前を借りずに書いた最初の一文だった。

台所へ行くと、母が弁当箱に蓋をしていた。

「早いね」

「眠れなかった」

「進路?」

「少し」

母は弁当箱の留め具を閉め、僕の方へ滑らせた。

「眠れないくらいなら、考えた意味はあるんじゃない」

「意味があるかは、まだ分からない」

「分かるまで考えていたら、提出日に間に合わないでしょう」

母はいつもの調子だった。味噌汁の湯気が眼鏡を白く曇らせている。僕は椅子へ座り、冷めかけた卵焼きを一口食べた。昨日より味がした。

学校へ着くと、教室の黒板には文化祭準備の連絡が増えていた。誰かが描いたお化けの絵が、日付の横で妙にこちらを睨んでいる。教室の後ろでは、女子が模造紙を広げ、男子が段ボールの骨組みを組んでいた。

迅は、窓際の席で一人、ノートを開いていた。

僕が教室へ入ったことには気づいたはずなのに、顔を上げなかった。机の上には進路調査票の下書きがある。紙の端が、いつも通りぴしりと揃えられていた。

僕は自分の席へ鞄を置いた。

昨日なら、迅の紙に書かれた文字を見ようとしていたかもしれない。今日は見なかった。見ないようにしたというより、まず自分の用紙を机の中へしまうことで精一杯だった。

一時間目と二時間目の間の休み時間、迅が僕の机の横へ来た。

「昨日、進路指導室にいた」

「見てたのか」

「窓から見えた」

迅はそれだけ言った。視線が僕の机の中へ落ちる。そこに何が入っているか、知っているような目だった。

「お前は?」

「別の日に呼ばれてる」

「そうか」

会話が終わった。

迅は戻ろうとした。僕はその背中へ声を投げた。

「相沢」

迅の足が止まった。

「何で、変えた」

昨日までなら、もっと遠回しに訊いたと思う。どうして言わなかったのか。いつから考えていたのか。俺に話せなかったのか。けれど、どの言葉も核心から逃げている気がした。

迅はすぐには振り返らなかった。

教室の後ろで、ホチキスを留める音がした。窓の外では、校内放送が文化祭の準備時間を告げている。誰かが笑い、誰かが机を引いた。

迅はようやくこちらを向いた。

「ここでは話したくない」

「いつなら話す」

「放課後」

「どこで」

「部室」

それだけ言うと、迅は自分の席へ戻った。

僕は椅子に座ったまま、机の中の紙へ手を置いた。紙越しに、書いた一行の凹凸が指先へ伝わる。強く書きすぎたせいで、裏側まで線が残っている。

昼休み、朔は僕の弁当箱を開けるなり言った。

「今日は卵焼き、全滅してる」

「見るなよ」

「昨日より成長したな。人間として」

「何で弁当で評価されるんだ」

「食欲は精神状態のバロメーターだから」

「どこで覚えた」

「今作った」

朔は卵焼きを箸で持ち上げ、半分に割った。

「で、迅と話すの?」

「放課後に」

「おお」

朔は大げさに頷いた。けれど、すぐに声を落とした。

「喧嘩するなよ」

「しない」

「お前の『しない』は、スタート前の靴紐みたいに信用できない」

「どういう意味だ」

「結び直す回数が多い」

僕は箸を置いた。

「何を聞けばいいのか、分からない」

「分からないまま聞けばいいだろ」

「それで余計にこじれたら」

「もう十分こじれてる」

朔は笑った。

「聞く前から、きれいに話そうとするなよ。お前も迅も、紙の角みたいに整えすぎなんだよ。少しくらい曲がってた方が、何を書いたか分かる」

朔の言葉が、昨日のノートの一行を思い出させた。消さずに残した、少し曲がった線。

放課後、部室へ向かう廊下には、文化祭の飾りが増えていた。赤い布が壁から垂れ、窓の隙間から冷たい風が入り込んでいる。部室の扉を開けると、汗とゴムと古い木の匂いがした。

朝練がなくなってから、ここへ入るたびに音が少ない。

迅は窓際に立ち、手にした紙を何度も折り直していた。進路調査票の下書きだった。紙の真ん中には、消しゴムで擦った跡がいくつも残っている。

「それ、見せて」

僕が言うと、迅は紙を伏せた。

「まだ書きかけ」

「俺も書きかけだ」

「そう」

「同じ大学じゃないんだな」

迅の指が止まった。

僕はスパイクケースの前に立った。ケースの金具は閉じられている。開ける理由はないのに、指が触れた。

「俺は、勝手に置いていかれたと思った」

「……うん」

「お前が先に決めて、俺には何も言わなかったから」

「言えなかった」

「何で」

迅は窓の外へ目を向けた。夕方のトラックは、校舎の影に半分隠れている。白線の一部だけが、薄い光の中に残っていた。

「家のことがある」

「家って」

「父さんが、夏から仕事に出られてない」

迅の声は低く、平らだった。その平らさが、かえって言葉の重さを残した。

「怪我?」

「腰。すぐ戻れると思ってた。でも、思ったより長引いてる。母さんが働く時間を増やして、妹のこともあって。前に書いてた大学は、通うだけで無理が出る」

僕は何も言えなかった。

迅は紙の端を親指で押さえた。

「変えた大学は、家から通える。陸上の推薦枠もある。学費の減免も申請できる」

「だから、そこにしたのか」

「それだけじゃない」

迅は一度、息を止めた。

「そこで、トレーナーの勉強がしたい。走るのをやめるつもりはない。でも、走ることだけで先を決めるのが怖くなった」

その言葉は、僕が机の上へ書いた一行と、少しだけ似ていた。

「なんで俺に言わなかった」

「言ったら、お前は聞くと思った」

「聞くよ」

「だから言えなかった」

迅はようやく僕を見た。

「簡単に説明できないことを、簡単に説明したくなかった。家の事情を理由にしたら、俺がかわいそうに見える。そういうのが嫌だった」

「俺は、そんなふうには見ない」

「分かってる。でも、お前にだけは見られたくなかった」

胸の奥が、鈍く痛んだ。

「俺が、何でも勝ち負けで見るから?」

迅は答えなかった。

その沈黙が、答えのようにも、違うようにも聞こえた。

窓の外で、風に飛ばされた枯れ葉がトラックを横切った。白線の上で一度だけ跳ね、それから校庭の隅へ転がっていく。

迅が紙を僕へ差し出した。

「まだ、完全には決めてない」

「でも、変えるんだろ」

「たぶん」

「たぶんって何だよ」

「俺だって怖い」

その一言だけで、迅の整っていた輪郭が少し崩れた。

「怖いけど、前の大学を書き続けて、家のことを誰かに任せる方が嫌だった」

僕は返す言葉を探した。悔しい。羨ましい。置いていかれたくない。どれも本当だった。

その全部を抱えたまま、僕は訊いた。

「明日、もう一度話せるか」

迅は紙を折り、ポケットへしまった。

「今日、全部話すつもりだった」

「なら、話せよ」

「ここでは無理だ」

迅は部室の扉へ歩いた。

「校庭で」

扉が開き、廊下の光が部室へ流れ込んだ。迅は先に出て、数歩進んでから振り返る。

「来るなら、走るなよ」

僕はスパイクケースから手を離した。

「分かってる」

「お前はすぐ走るから」

「今日は走らない」

そう答えたのに、足はもう、迅の後を追い始めていた。

← 横にスクロールして読み進められます

消し跡の向こう側 - 進路の一文字 - 誰でも作家life