第8話 久坂慎一の戻り道

佐伯が制作部へ戻っていったあと、校閲室には、紙の擦れる音だけが残った。
相馬さんは保管棚の前に立ち、棚板に落ちた埃の切れ目を見ていた。私はその隣で、空になった段を見つめている。誰かが抜き取った束を、いったん戻した跡。紙の角、ラベルの浮き、乾いた糊の匂い。どれも、久坂という名前を直接語ってはいなかった。
それでも、名前はそこにあった。
三橋さんが見たという、帽子をかぶった男。台車の上で朱を入れ、古い原稿と現在の最終稿を重ねた人間。私の記憶に残る、低い声。
原稿を戻してください。
私は新品のノートを閉じた。閉じた拍子に、表紙が紙束へ触れ、乾いた音がした。
「まだ行かないほうがいいでしょう」
相馬さんが言った。
「どこへですか」
「倉庫側です。見に行きたい顔をしています」
「行かなければ、また何かを見なかったことにする気がします」
「行くなとは言っていません。ひとりで行くなと言っています」
「佐伯さんを待つべきですか」
「刑事を待っている間に、紙は別の場所へ移されます」
相馬さんはそう言って、古い校正尺を机へ戻した。
「ただし、触らない。見たものを記録する。誰かがそこにいるなら、その人間の言葉も、紙と同じように扱う。信じるのではなく、残すんです」
私は頷いた。
校閲室を出ると、廊下の空気は少し湿っていた。三階の奥へ進むほど照明が減り、編集部の電話の音も遠のいていく。窓のない通路には、紙ではなく古い建物の匂いがこもっていた。糊、埃、金属の錆。それらが重なり、誰も使わなくなった時間そのもののように鼻の奥へ残る。
鳳文社の倉庫は、本社の裏手に増築された細い区画にある。かつて印刷所へ送る前の紙を一時保管していた場所で、今は廃棄予定の帳票や旧版の見本誌が積まれていた。扉の上に小さな明かりがついている。普段は誰も点けない明かりだった。
相馬さんが足を止めた。
「誰かいます」
声を低くしたのは、感情を抑えたときの癖だった。
扉の下から、細い光が漏れている。
私はノートを開いた。時刻を書こうとして、腕時計がないことに気づいた。携帯電話を取り出すと、表示は二十時十一分だった。数字を記しているあいだにも、扉の向こうから紙を揃える音が聞こえている。
一枚、また一枚。
誰かが、紙束を傷の多い順に並べていた。
相馬さんが扉を二度叩いた。
返事はなかった。
もう一度、今度は少し強く叩く。
「鳳文社校閲部です。中にいる方、扉を開けてください」
紙を擦る音が止まった。
代わりに、鍵の回る音がした。
扉が内側へ開く。暗い倉庫の奥に、男が立っていた。
最初、私は影が人の形を取ったのだと思った。
髪は伸び、頬は削げている。古い紺色のネクタイだけが、編集部にいたころの記憶と同じだった。顔つきは変わっているのに、目だけが変わっていない。相手の手元を見てから、ようやく視線を上げる目。紙の端に残った傷を、人間の表情より先に読む目。
久坂慎一だった。
声を出す前に、喉が乾いた。
「……久坂さん」
久坂は名乗らなかった。私の顔を見ず、相馬さんの肩越しに校閲室の方向を見ている。そこにある紙束の配置まで、壁を透かして確認しているようだった。
「最終稿は、まだ動かしていない」
「どうして、それを知っているんですか」
「動かせば、あなたは机の右端を三度叩く」
私は無意識に、右手を握った。
「そんな癖を覚えていたんですか」
「癖は、記録より正確です」
久坂は倉庫の中へ戻った。私たちを招く仕草はしなかったが、追い返しもしなかった。相馬さんが先に入り、私はそのあとに続く。
棚の前に、古い封筒や帳票が並べられている。床には紙束が三つ置かれていた。日付順ではない。角の擦れたもの、朱の滲みが残るもの、表紙の一部が剥がれたもの。その順番には、久坂の執着があった。
「ここにいたんですか」
私は尋ねた。
久坂は古い封筒の端を揃えながら答えた。
「ここにいた、という言い方は便利ですね。人間が見えなくなった場所を、勝手に不在にできる」
「質問に答えてください」
「鳳文社を去ったことになったあとも、何度か来ました。倉庫の鍵は変わらなかった。誰も確認しなかった。退職した人間が、退職した会社の倉庫に入っても、見られなければ存在しない」
「原稿に脅迫文を書いたのは、あなたですか」
久坂は封筒の角を押さえたまま、薄く笑った。
笑ったというより、紙の角が一枚めくれたような表情だった。
「脅迫文と呼ぶなら、そうでしょう」
「私の名前を消すと書いた」
「あなたの名前を消すとは書いていない」
「書いてあります。次は、あなたの名前を消す、と」
「誰の名前を消すのか。そこを読まなかった」
「私を脅したのではないんですか」
「あなたは、名前を消される側ですか。それとも、消す側ですか」
言葉が、乾いた倉庫の空気に落ちた。
私はすぐに返せなかった。久坂は、私の沈黙を待った。急かさず、怒鳴らず、ただ私がどちらの側に立つのかを見ている。
相馬さんが紙束を見ながら言った。
「脅迫文は、古い朱を写していました」
「よく見ていますね」
「紙が見せたものです」
「紙は、見ようとする人間にしか見せません」
「あなたは、何を戻そうとしているんですか」
久坂は初めて相馬さんを見た。
「名前です」
「作者名?」
「作者名。担当者名。責任者の名前。どれも、同じ紙面から消されました。けれど、消された順番は違う。最初に消えたのは作者の名前です。次に私の名前。最後に、誰が消したかという記録が消えた」
私は、古い企画書の表紙を見た。作者名の欄が削られ、白い紙で覆われている。そこに指を伸ばしかけたが、相馬さんの横顔が視界に入り、手を止めた。
「その企画の作者は、誰だったんですか」
久坂は答える前に、紙束を逆から数えた。最後の一枚から、順に指を置いていく。
「あなたは、まだ作者名だけを知りたい」
「知る必要があります」
「なぜ?」
「あなたが責任を押しつけられたというなら、誰の作品だったのかを明らかにしなければ、過去の改ざんを証明できない」
「証明して、どうするんです」
「公にします」
「霧島ユウの本も止まります」
「止めるかどうかは、私ひとりで決めません」
久坂の目が細くなった。
「昔のあなたは、決めました」
胸の奥に、古い紙が折れる感触があった。
「私は、指示に従っただけです」
「その言葉を、何度聞いたと思いますか」
「……」
「井口も言った。三橋も言った。相馬も、言葉を変えただけで同じことを言った。あなたは、まだ若かった。だから、決まったことに従った。上がそう言った。発売日が迫っていた。作者も了承していると聞かされた。便利ですね。誰か一人が悪いわけではない。誰も決めていないのに、名前だけが消える」
久坂の声は低かった。怒りを抑えているというより、怒りを薄く延ばし、何年も紙へ塗り重ねたような声だった。
「あなたは、自分だけが悪者にされたと思っている」
「思っているのではありません。記録に残っている」
「担当者として、改ざんを止められなかった責任はあるでしょう」
「あります」
「だったら、なぜ復讐するんですか」
「復讐ではありません」
「脅迫文を書いた」
「告発のためです」
「相手を怖がらせて、告発と呼ぶんですか」
「怖がらなければ、思い出さないからです」
久坂は紙束から一枚を抜き、机代わりの木箱へ置いた。そこには朱の記号がいくつも残っている。削除、移動、戻し。現在の脅迫文と同じ順番だった。
「あなたたちは、恐怖を感じないと、紙の傷を見ません。発売日がある。工程がある。取引先がいる。作者の生活がある。そう言って、傷を見ない。なら、傷を見せる必要がある」
「霧島さんの原稿を使ったのは、彼の作品を傷つけるためですか」
「違います」
久坂は即座に答えた。
「彼の作品だから使った。霧島ユウは、名前を伏せている。名前を伏せているからこそ、鳳文社はそこへ過去の処理を重ねられる。作品が売れているほど、会社はそれを止めたくない。私は、止めたくないものの余白へ、消したものを置いただけです」
「霧島さんの沈黙を利用した」
「鳳文社が先に利用した」
「あなたも同じことをしている」
久坂の手が止まった。
「そうかもしれません」
声から、初めてわずかな揺れが消えた。怒りではない。自分の行為を、他人の罪だけでは支えきれなくなった人間の空白だった。
「だから、私は霧島さんに会っていない。直接、原稿を渡すこともしない。作品の中へ私の事情を混ぜたくはない。混ぜたのは、鳳文社が過去にしたことの痕跡です」
「それでも、作品を危険にさらした」
「作品は、すでに危険にさらされていた。名前を消すということは、作品から責任を抜くことです。責任のない作品は、誰でも好きに使える」
久坂は、古い封筒を開いた。中には、細い文字で書かれた工程メモが何枚も入っている。日付、担当者、版下の差し替え時刻。紙の端に朱が滲んでいた。
私は一枚へ目を落とした。
そこに、若いころの自分の字があった。
「綾乃さん、再校確認済み」
その下に、久坂の鉛筆書きが重なっている。
――何を確認したのか。
私は息を止めた。
「これは……」
「あなたの字です」
「どうして持っているんですか」
「捨てられたからです。あなたが書いた紙を、あなたは覚えていない。けれど、私は覚えている。誰が何を確認したと言ったか。何を見ずに確認したと言ったか」
「私は、全体を見ました」
「名前を見ましたか」
私は答えられなかった。
久坂はメモを私の前へ滑らせた。紙の移動する音が、倉庫の中で大きく響いた。
「あなたは、作者名の欄を見なかった。見たとしても、記録には残さなかった。私は、あなたが悪意を持っていたと言っているのではありません」
「では、何を言っているんですか」
「悪意がなくても、名前は消せる。むしろ、悪意がないほうが消しやすい。守るため、整えるため、間に合わせるため。そういう言葉の下で、人は平然と紙を削る」
私はメモへ指を伸ばした。
「触らないでください」
久坂の声が飛んだ。
私の手が止まる。
「あなたも、紙を自分のものにする癖がある」
「何ですか、それは」
「見つけたものを自分で確かめる。自分の責任で処理する。誰かに渡す前に、紙を自分の判断へ取り込む。あなたはそれを仕事の速さだと思っている。でも、そうして触れたものから、他人の名前をこぼしてきた」
その言葉は、相馬さんから受けた注意と同じだった。けれど、久坂の口から聞くと、過去の紙面そのものが私を責めているように感じられた。
「私は、変わろうとしている」
「変わるのは、名前を残したあとです」
「あなたは、何を望んでいるんですか」
「望みではありません。記録です」
久坂は、古い封筒を閉じた。
「私が何を望んでいるかは、どうでもいい。作者の名前が誰だったのか。誰が差し替えを指示したのか。誰が版下を組み、誰が朱を確認し、誰が黙ったのか。その順番を残す。私が取り返したいのは、名誉ではなく順番です」
「それを終えたら、霧島さんの作品から手を引くんですか」
「終わっていません」
「何が足りない」
久坂は私の机――校閲室の方向へ目を向けた。
「あなたの告白です」
「私の?」
「あなたは、過去のことを認め始めた。でも、まだ自分の名前を記録の中へ置いていない。自分は若かった、自分は従った、自分は止められなかった。そう言っているだけです。責任の欄に、自分の名前を書いていない」
「あなたが、私にそれを強いる権利はありません」
「権利ではない。順番です」
久坂の目が、再び編集部にいたころの切れ味を帯びた。
「次は、あなたの名前を消す。あれは、あなたを消すという意味ではない。あなたが誰かの名前を消したとき、その場所へ、あなた自身の名前を置くという意味です」
「私を同じ目に遭わせるために?」
「同じ目に遭わなければ、分からない人間がいる」
「分かっています」
「分かっていない」
私は声を低くした。
「私は、あなたが消されたことを知っています。あなたが抗議していたことも、作者名を戻せと言っていたことも知っている。知っていて黙った。だから、私は自分の責任を認めます。でも、あなたの怒りまで私が引き受けることはできない」
「引き受けろとは言っていない」
「では、何を?」
「言え」
久坂の声は荒れていなかった。だからこそ、逃げ道がなかった。
「誰が、何を見て、何を消したのか。あなたの言葉で言え。紙に書かれたものを、紙の上へ戻せ」
私は久坂を見た。細くなった頬。古いネクタイ。必要以上に物を持たない机。彼の前にあるのは、封筒と紙束と、使い古した赤鉛筆だけだった。
「あなたは、私を呼び出すために脅迫文を書いた」
「そうです」
「私が来なければ?」
「別の紙へ書く」
「霧島さんの原稿を、さらに傷つける?」
「あなたが来るまで、傷は増える」
私は唇を閉じた。久坂は、脅しを撤回しなかった。作品を守るという私の信念を知り、その場所を正確に押している。
相馬さんが、倉庫の奥を見た。
「久坂さん」
「はい」
「あなたは、名刺を一枚持っていますね」
久坂は返事をしなかった。代わりに、背後の棚へ手を伸ばした。古い封筒と名刺入れが、紙束の隙間に押し込まれている。相馬さんはその位置を見ただけで、棚板の埃が乱れていることに気づいたようだった。
私は手を伸ばしかけた。
久坂が先に名刺入れを取った。
革は乾いて硬くなっている。角が擦れ、社章の金色が薄れていた。久坂はそれを開き、古い名刺を一枚だけ抜いた。
鳳文社の社名。 文芸編集部。 久坂慎一。
名刺は、私が覚えているものより白かった。誰かが長いあいだ、光の当たらない場所で保管していたのだろう。
久坂は名刺を机へ置いた。
裏側には、朱の印があった。
校正記号のように見える線。削除線の先端から、細い矢印が伸びている。矢印の先には、短い文字がひとつだけ残されていた。
「戻せ」
私は息を止めた。
「これは、あなたが書いたんですか」
「いいえ」
「では、誰が?」
「それを知るために、あなたたちの紙を戻している」
「この名刺は、誰が残したんですか」
久坂は名刺を見たまま答えた。
「あなたです」
胸の奥が、冷たく沈んだ。
「私が?」
「退職の夜、あなたはこれを返さなかった。捨てもしなかった。引き出しへしまった。そのあと、誰かが私の机から持ち出し、倉庫へ移した。あなたは見ていたはずです」
「覚えていません」
「だから、紙に残した」
久坂は名刺の裏を私へ向けた。
「あなたが忘れたのではない。忘れたことにしたんです」
相馬さんは、名刺の朱を見つめていた。佐伯が戻ってくる気配はまだない。倉庫の外の廊下にも、足音はなかった。
久坂は名刺を私の前へ置いた。
「これは呼び出しです」
「私を、ここへ?」
「あなたひとりではない」
「誰を呼ぶつもりですか」
「紙に触れた全員です。井口。三橋。相馬。霧島ユウ。そして、あなた」
「警察も?」
「佐伯さんは、すでに来ている」
「彼はここにいません」
「紙の流れに入った人間は、もう部外者ではない」
その言葉の直後、倉庫の入口で足音がした。
佐伯だった。息を切らしてはいない。けれど、右手の黒い手帳を強く握っている。彼は久坂を見たあと、すぐに名刺へ視線を落とした。
「久坂慎一さんですね」
久坂は答えなかった。
佐伯は一歩、倉庫へ入った。床の紙粉が靴底でわずかに鳴る。
「あなたが脅迫文を書いたという話を、いま確認したい」
「確認ではなく、記録でしょう」
「どちらでもいい。あなたが何をしたのか、聞きます」
「聞く前に、見てください」
久坂は名刺を指した。
「この名刺は、捨てられていない。返されてもいない。誰かが残した。残した人間がいる限り、私は失踪していない」
佐伯は名刺に手を伸ばさず、手帳へ時刻を書いた。
「触らないんですか」
「触る前に記録する」
「出版の人間より、刑事のほうが校閲を覚えるのが早い」
「紙を汚したくないだけです」
「汚れることを恐れているうちは、記録は途中で止まります」
「だから、誰が触ったかを残す」
佐伯は久坂を見た。
「あなたが望むのは、告発ですか。復讐ですか」
久坂は長く黙った。倉庫の奥で、古い複写機がどこかの階の振動を拾い、低く唸った。
「名前を取り戻すことに、呼び方はありません」
「それでは、行為の責任が曖昧になる」
「責任を曖昧にしたのは、あなたたちでしょう」
「だから、あなたも曖昧にしていい?」
「私は、曖昧にしていない。ここにいる」
久坂はようやく私を見た。
「消された人間が、消されていないと示すには、紙の上へ戻るしかない」
私は名刺の裏の朱を見た。
戻せ。
その線は、削除記号に見えて、実際には逆向きだった。消されたものを、消された場所へ戻す。名義を、責任を、記録を。
けれど、戻す相手を間違えるな。
その言葉が、台車の下から出てきた紙片と重なった。
「久坂さん」
私は言った。
「この名刺を、私に渡すのはなぜですか」
「あなたが最初に、私の名前を消した紙へ触れたからです」
「私が消したわけではない」
「けれど、あなたは赤を入れた」
「命令された」
「それでも、あなたの手です」
私は名刺へ視線を落とした。朱は乾ききっている。何年も前に押されたはずなのに、線の端だけが新しく見えた。
「私は、あなたの名前を戻します」
「紙の上だけでは足りない」
「分かっています」
「まだ分かっていない」
「では、何をすればいいんですか」
久坂は答えず、名刺入れの底からもう一枚の紙を取り出した。
薄い、使い古したコピーだった。企画書の表紙らしい。作者名の欄には、白い修正紙が貼られている。その中央に、朱の点がひとつ沈んでいた。
私は、その紙を見た瞬間、息を呑んだ。
修正紙の下から、霧島ユウの旧い筆跡に似た文字が透けていた。
久坂は紙を置き、静かに言った。
「次に戻すのは、私の名前ではありません」
「誰の名前ですか」
「あなたが、霧島ユウの原稿から消した一節の中にある名前です」
倉庫の空気が止まった。
私の記憶の底で、消したはずの一行が、初めて形を持った。文章ではなく、名前の一部。誰かの名義を隠すために削った、あの一行。
佐伯が手帳を閉じた。
相馬さんは、古いコピーへ目を近づけた。久坂は紙の端を押さえ、誰の手にも渡さないまま、こちらを見ている。
「今夜、あなたは思い出してください」
「思い出せなければ?」
「思い出すまで、原稿は校了に回せない」
「あなたに、出版を止める権利はありません」
「権利ではない。傷です」
久坂の声が、倉庫の奥で平らに響いた。
「傷のある紙を、綺麗な顔で送り出すことはできない」
私は名刺を見た。
裏側の朱の矢印は、私を指しているように見えた。けれど、その先にあるのは私の名前ではなかった。消された名前へ戻るための、細い道だった。
久坂は名刺を私のほうへ滑らせた。
「これは呼び出しです」
私は触れずに見つめた。
「誰への?」
「あなたが黙った、あの夜の全員へ」
倉庫の外で、紙を運ぶ台車の車輪が鳴った。
一度、二度。
足音は遠ざかっていく。
私はノートを開き、名刺の位置と朱の形を記録した。その下に、久坂慎一の名前を書く。さらに、まだ読めないコピーの文字のために、空白を残した。
紙の上に戻されたのは、名刺だけではなかった。
過去の夜が、私たちの前へ、ひとりずつ戻り始めていた。
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