第9話 朱の乾きが示す時刻

倉庫から校閲室へ戻る廊下は、来たときより長く感じられた。
相馬さんが先を歩き、私はその半歩後ろをついていく。彼女の手には、久坂の名刺と、古い企画書のコピーが透明なファイルに収められていた。ファイルの中で紙がわずかに揺れるたび、朱の線が蛍光灯の光を返す。
佐伯は少し離れて歩いていた。手帳を開いたまま、何かを書き続けている。靴音の間隔は一定だったが、階段へ差しかかったところで一度だけ止まった。
「どうしました」
私が振り返ると、佐伯は階下を見ていた。
「いえ。倉庫へ行く前と、戻るときで、紙の匂いが違う」
「匂いが?」
「古い紙の匂いが強くなっています。誰かが、こちらで何かを開いたんでしょう」
私は答えられなかった。階段の踊り場には、古い見本誌の箱が積まれている。箱の隙間から乾いた紙の粉が舞い、鼻の奥にざらついた感触を残していた。
校閲室の扉を開けると、相馬さんは机の端を指先でなぞった。誰かが戻ってくるまでに、室内の配置が変わっていないかを確かめるためだった。
「最終稿は?」
「封印したままです」
「誰が触りましたか」
「私が、戻す前の位置を記録しました。佐伯さんが一度、ファイルの外から確認しています」
「なら、記録を見せてください」
私は新品のノートを開いた。紙の余白に、時刻と位置を並べてある。二十時十一分、倉庫前。二十時十四分、扉の開放。二十時二十三分、久坂と接触。二十時三十六分、佐伯合流。二十時四十二分、校閲室へ帰還。
相馬さんは、私の文字を黙って追った。
「時刻を記録するだけでは足りません」
「何が足りないんですか」
「その時刻に、紙がどんな状態だったかです」
彼女はファイルを机の中央へ置き、久坂の名刺と脅迫文のあるページを並べた。名刺の朱は、脅迫文より暗い。赤というより、乾いた血の色に近かった。脅迫文の朱にはまだ光沢がある。完全に沈んではいない。
私は二つの朱を見比べた。
「同じ色に見えます」
「色だけなら、そうでしょうね」
相馬さんは眼鏡を外し、レンズを拭いた。それから、ファイル越しに名刺の裏を見た。
「こちらは、何年も前に書かれたものです。朱の表面が紙の繊維へ沈んでいる。顔料が紙の中で止まっている」
「脅迫文は?」
「乾いてはいます。でも、沈み方が浅い」
「つまり、最近書かれた」
「最近、という言い方では曖昧です」
相馬さんは、机の引き出しから小さなルーペを取り出した。
「朱は、乾けば終わりではありません。表面が乾く時間と、紙へ定着する時間は違う。書いた直後は光を返す。次に、紙の繊維へ染みる。さらに時間が経つと、線の端がわずかに痩せる。インクは乾くのではなく、紙の中へ逃げていくんです」
「それで、何時に書かれたか分かるんですか」
「正確な時刻までは無理です。紙の種類、室温、湿度、筆圧で変わる。ただ、書かれた順番は分かる」
相馬さんは、名刺の朱、脅迫文の朱、古いコピーに残った朱の順に、指を触れず目で追った。
「古いコピーの朱が最も沈んでいる。次に名刺。最後が脅迫文です」
「名刺は、久坂さんが倉庫で見せたものですよね。脅迫文より先に書かれたなら、あの名刺を合図にして原稿へ書いた」
「そこまでは言えません」
「でも、名刺の裏には『戻せ』とあった」
「書かれた内容と、書かれた時刻は別です。人は文章を、時間から切り離して読もうとする。けれど紙は、順番を切り離さない」
相馬さんは、脅迫文の右下へ視線を落とした。
「この朱は、印刷直前に仕込まれたものではありません」
「前にも聞きました」
「いえ。前は、そう推測しただけです。今は、理由が増えました」
彼女はページを少し傾けた。蛍光灯の白い線が朱の上を滑り、線の終わりにある小さな濃みを浮かび上がらせる。
「ここは、書き終えたあとにペン先を止めた場所です。止めた時間が長い。普通なら、朱が一点に溜まりすぎる前にペンを上げる。けれど、この人は最後の一画を置いたあと、紙を見ていた」
「何を考えていたんでしょう」
「分かりません。ただ、書き終えた文を読み返す時間があった。急いでいたわけではない」
「脅迫文なのに?」
「脅迫する人間が、いつも急いでいるとは限りません」
相馬さんの声は静かだった。
「むしろ、相手が読む時間まで計算している人間は、書き終えたあとに待つ。相手の手が止まる瞬間を想像する。そのための時間です」
私は、朱の点を見つめた。
誰かが紙へペン先を置き、そのまま動かなかった。私の名前を書いたあとで、私が読む姿を想像していた。怒りを感じているのか、怯えているのか、それとも過去を思い出すのか。
「書いた人間は、私を知っている」
「あなたを知っているだけではありません」
佐伯が言った。
「あなたが、どんな紙を見れば動くかを知っている」
彼は導線図を机へ広げた。紙の上には、校閲室、編集部、制作部、保管棚、台車の位置が線で結ばれている。
「脅迫文が書かれたのは、最終確認の直前ではない。三橋さんが版下を戻す前後でもない。朱の表面が乾いているのに、紙の重なりの奥だけが湿っていた。書いたあと、一定時間、束を閉じたまま押さえていた」
「時間はどれくらいですか」
「相馬さん」
「少なくとも、十数分です」
相馬さんが答えた。
「室温は一定。紙は校正用の薄い上質紙。朱の種類も、校閲室で使うものと同じ。表面が乾くまでに五分から七分。重ねた紙の下で定着するまで、さらに数分。つまり、書いた者は、すぐにはその束を三橋さんへ戻せなかった」
「三橋さんの前に、誰かが紙を滑り込ませた」
私が言った。
「ええ」
相馬さんは頷いた。
「三橋さんが手順を崩していないなら、脅迫文のある紙は、彼の作業が始まる前に混ざっていた。三橋さんが手を止めずに作業できたのは、紙が最初からそこにあったからです」
佐伯は導線図の一点をペン先で叩いた。
「では、書き込みの時間は、三橋さんの作業開始前。十三時十五分より前か、少なくともその直前です」
「記録では、十三時十五分に原稿を受け取ったことになっています」
「訂正前の記録では、です」
佐伯は別の紙を取り出した。十三時十五分と書かれた欄。その上から十三時二十三分という数字が重ねられている。
「この訂正線は、時間を直したものではない。時間を消したものです」
「同じではありませんか」
「違います。十三時十五分が誤りなら、正しい時刻を書けばいい。けれど、この紙では、元の数字を完全に消さず、その上へ新しい数字を重ねている。下の数字が読めることを、書いた人間は知っていた」
「見つかることを想定していた」
「あるいは、見つけてほしかった」
私は、久坂の名刺の裏にあった朱を思い出した。
戻せ。
脅迫文も、訂正前の数字も、誰かが消したものを消しきれずに残している。消した人間と、戻そうとする人間は、同じ紙の上で互いの手を重ねていた。
「この時間に、誰が原稿へ触れられたんですか」
佐伯が私に聞いた。
「三橋さんの作業前なら、制作部へ原稿が届く前です。私が編集部から持ってきたあと、校閲室の台車へ置いた。そこから三橋さんが受け取るまでの数分間なら、誰でも触れます」
「誰でも、という言葉は使わないでください」
相馬さんが言った。
「誰でも触れられる場所には、必ず触れた人間がいる。誰でも、という言葉にすると、手の主が消えます」
「では、名前を挙げます」
私は導線図を見た。
「私。片岡さん。井口さん。相馬さん。三橋さん。それから、原稿の動きを知っている人間」
「久坂さん」
佐伯が言った。
「彼は十三時十五分ごろ、鳳文社にいたと三橋さんが証言しています。ただし、顔は見ていない。紙の持ち方だけが久坂さんに似ていた」
「その証言を、どう扱いますか」
「証言ではなく、物証と重ねます。彼がいたとされる時間に、古い原稿が動いている。現在の原稿には、古い朱を写した跡がある。名刺にも同じ順番の記号がある。久坂さんが書いた可能性は高い」
「高い、で止めるんですか」
「刑事は、可能性で人を逮捕できません」
佐伯は導線図を折らずに、端を揃えた。
「だから、聞きます。あなたは、誰を疑っていますか」
私はすぐには答えなかった。
疑っているのは久坂だ。けれど、彼がしたことだけを疑えば、話は簡単になる。脅迫文を書いた。古い原稿を持ち出した。私たちの沈黙を利用した。そこまでを並べれば、犯人の輪郭はできる。
しかし、脅迫文が告発のための合図なら、久坂だけを犯人にすることは、過去と同じ処理になる。
一人へ責任を集め、残りの手を見えなくする。
「久坂さんを疑っています」
私は言った。
「でも、久坂さんだけを疑うことはできません」
佐伯は黙って私を見た。
「脅迫文を書いたのは、彼だと思います。工程を知っている。朱の癖を真似られる。古い原稿を持ち出せる。私を呼び出す理由もある。けれど、彼が紙へ傷をつけられたのは、私たちが紙を置き去りにしたからです」
「責任を分けたいんですか」
「分けるのではありません。戻したいんです。誰がどこで何をしたか、その場所へ」
「あなた自身の名前も?」
「はい」
私はノートの余白へ、橘綾乃と書いた。すでに何度も書いた名前だった。けれど、今度は署名のようにではなく、責任者の欄へ置くつもりで、一文字ずつ書いた。
「私が、差し替え後の原稿を確認しました。作者名の欄を見ました。見て、消えていることに気づいた。それでも、校了を止めなかった」
言葉にすると、胃の奥が冷えた。
相馬さんは、何も言わなかった。相馬さんはいつも、相手の顔ではなく紙を見る。私の告白を聞きながらも、机の上の記録票から目を逸らさなかった。
「私は、井口さんに言われたから従ったのではありません。言われたことを理由にして、自分が見たものを処理した。作品を出すためだと考えた。でも、作品を守るためなら、作者名を消してよいという理屈はありません」
「そのとき、久坂さんは何をしていた」
佐伯が尋ねた。
「名前を戻せと言っていました。何度も。私は聞いていました」
「それでも黙った」
「はい」
「なぜ」
「怖かったんです」
自分の口から出た言葉に、私は驚いた。
これまで私は、止める勇気がなかったと言っていた。決まったことに従ったと言っていた。けれど、もっと単純な言葉が残っていた。
「発売を止めれば、私は失敗した編集者になる。井口さんや上の人たちに逆らえば、次の企画から外される。作者名を戻せと言えば、作品そのものが出なくなるかもしれない。私は、誰かを守るふりをして、自分が傷つかない場所へ逃げました」
佐伯はペンを止めなかった。
「今は?」
「今も怖いです」
私は脅迫文の朱を見た。
「でも、怖いからこそ、これは脅迫だけではないと分かります。久坂さんは私を黙らせたいのではなく、私に言わせたい。誰が悪いかではなく、誰が黙ったかを」
相馬さんが、低い声で言った。
「それなら、まだ足りません」
私は相馬さんを見た。
「何がですか」
「誰が黙ったかだけではなく、誰が何を見たかです。黙った人間を一つの塊にしてはいけない。井口さんは差し替えを知っていた。三橋さんは版下を組んだ。私は紙の異常を見ていた。あなたは作者名を確認した。片岡さんは、どこまで見たかを言わなかった。見た範囲が違う以上、沈黙の重さも違います」
相馬さんは、古いコピーへ目を向けた。
「私も、あのとき見ました。差し替え前の紙と、差し替え後の紙。朱の順番が不自然だった。けれど、私は校閲班の机へ戻した。止めなかった。見た者としての責任を、工程の責任に隠したんです」
「相馬さん……」
「同情はいりません」
声は穏やかだったが、そこには明確な拒絶があった。
「事実を残してください。私が見た。私が止めなかった。その二つを、別々に書く。そうしないと、反省という言葉でまた整えてしまう」
私はノートへ書いた。
相馬冬子。差し替え前後の異常を確認。工程停止せず。
文字を書くたび、紙の上に人間が増えていく。誰も完全な被害者ではなく、誰も完全な加害者ではない。けれど、その曖昧さを理由に責任まで曖昧にしてはいけない。
そのとき、校閲室の扉が開いた。
井口さんだった。
彼女は部屋へ入るなり、机の上の名刺と脅迫文へ目を落とした。口角がわずかに上がったが、笑顔にはならなかった。
「久坂さんに会ったのね」
「知っていたんですか」
私が尋ねると、井口さんは返事の前に一拍置いた。いつもの癖だった。ただ、今日はその間が長い。
「会ったことはないわ」
「会ったことがないことと、どこにいるか知らないことは別です」
佐伯の言葉に、井口さんは手元の紙の角をなぞった。
「倉庫にいるかもしれない、とは思っていた」
「なぜ言わなかったんですか」
「言えば、あなたたちは探しに行くでしょう。久坂さんは、誰かに見つけてほしいときほど、見つけられない場所へ行く人だったから」
「それは、庇っていたんですか」
「庇う? そんなきれいなものじゃないわ」
井口さんは椅子に座らず、立ったまま続けた。
「私は、久坂さんが戻ってくるのを恐れていた。戻ってきて、当時のことを全部話されたら、私も、あなたも、相馬さんも、三橋さんも、会社も、誰も無傷では済まない。だから、倉庫の鍵が変わっていないことを知っていて、知らないふりをした。久坂さんが何年もそこへ出入りしていた可能性も、見ないことにした」
「脅迫文を書いたのは、久坂さんです」
「そうでしょうね」
「どうして断言できるんですか」
「朱の点の置き方が、久坂さんだから」
井口さんは、ファイルの中の脅迫文を見た。触れない。けれど目は、朱の線の終わりから離れなかった。
「久坂さんは、文章を書き終えたあと、必ず一度だけペンを止めるの。書いたものを読み返すのではなく、読まれたあとの相手の顔を想像するために。昔からそうだった」
「それを知っていて、なぜ私に言わなかったんですか」
「あなたが、まだ自分で見つける必要があると思ったから」
「それは、守るためですか」
井口さんの顔から、最後の笑みが消えた。
「違うわ。私が、もう一度あなたを利用したの。あなたなら紙を見れば分かる。あなたなら、自分の記憶に戻れる。そう思って、あなたが辿り着くのを待っていた」
「利用した?」
「ええ。久坂さんが私に直接、あなたへ伝えろと言ったわけではない。でも、私はあなたが脅迫文を見つけたと聞いたとき、これで過去が戻ると思った。自分で言う勇気がないから、あなたの手に紙を渡した」
「あなたも、黙っていた」
「そうよ」
井口さんは、書類鞄から古い手帳を取り出した。表紙は傷が少なく、角だけが擦れている。彼女はそれを開き、数年前のページを探した。
「差し替えの夜、久坂さんは作者名を戻せと言った。私は、作者本人が了承していると上へ報告した。実際には、本人に確認していなかった。私は確認したことにした。あなたは、その報告を信じたふりをした。相馬さんは、紙の異常を見たことにしなかった。三橋さんは、口頭指示を正式な工程に変えた。全員が少しずつ嘘を引き受けた」
「作者は、誰だったんですか」
私が聞くと、井口さんは手帳のページへ目を落とした。
「それを、私は言えない」
「まだ、言えないんですか」
「言えないのではなく、言う前に本人へ返す必要があるの」
「誰ですか」
井口さんは答えなかった。
その沈黙に、ユウの姿が重なった。
作品を前にしたときだけ、存在の密度が変わる人。名義より文章を守り、名前を伏せることで作品を生かそうとした人。けれど、その沈黙が、誰かの都合を助けたと知っている人。
私は机の上の最終稿を見た。
「霧島ユウさんは、過去の作者と関係があるんですか」
井口さんの視線が、初めて私へ向いた。
「その名前を、あなたがどう扱うかで答えは変わるわ」
「どういう意味ですか」
「霧島ユウという名を、作品を守るための仮面として扱うのか。それとも、責任を持つ一人の作者として扱うのか。あなたが名義をどう考えるかで、過去の名前も、今の名前も、同じ場所へ戻ってしまう」
佐伯が静かに尋ねた。
「井口さん。脅迫文は、いつ書かれたと思いますか」
井口さんは、相馬さんの説明を聞き終えたあと、短く息を吐いた。
「十三時十五分より前でしょう」
「根拠は?」
「久坂さんは、三橋さんの作業が始まる前に、必ず紙を重ねます。朱が乾くまで、誰にも触らせないために」
「なぜ知っているんですか」
「見ていたから」
井口さんの声は、静かだった。
「私は、あの日、十三時十七分に制作部の前を通った。久坂さんがいるのを見た。台車の上に原稿があった。私は声をかけなかった。久坂さんも、私を見た。でも、何も言わなかった」
「そのあと、私と会った?」
「会ったわ」
私は息を止めた。
「あなたに、原稿を戻すよう言った。あなたは電話を受けて、制作部へ向かった。久坂さんが去ったあとだった」
「私は何を持っていたんですか」
「最終稿よ」
「脅迫文を見ましたか」
「見た」
「それでも、私に渡した?」
「見なかったことにして、渡した」
井口さんは目を逸らさなかった。
「あなたの名前宛ての文があることを知っていた。けれど、あれがあなたを傷つけるためのものではなく、私たち全員を呼び戻すためのものだと分かっていたから。私は、怖かったの。紙を開けば、次に私の名前が書かれると思った」
「だから、私に渡した」
「そう」
「また、私を先に立たせた」
「そうよ」
井口さんの声は、初めて崩れた。
「ごめんなさいと言って済むとは思っていない。私はあなたを守っているつもりで、ずっとあなたを前に押し出してきた。若かったあなたに判断をさせ、私が決めたことを、あなたが確認した形にした。久坂さんの名前を消した紙にも、霧島さんの一行を削った紙にも、あなたの赤を残した。私の手は綺麗に見えるでしょうね。紙を傷つけないから。でも、傷つけない手で、人を紙の外へ追いやることはできるのよ」
校閲室の空気が、ひどく乾いていた。
私は、脅迫文の朱を見た。書いた直後に止まったペン先。私の名前を置いたあと、誰かが読む姿を待った線。
「相馬さん」
「はい」
「朱が乾いた時刻を、確定できますか」
相馬さんは、名刺と脅迫文を再び並べた。
「十三時十五分より前に書かれた可能性が高い。井口さんの証言、三橋さんの工程、紙の重なり、朱の定着具合が一致しています。ただし、何時何分とは言えません」
佐伯は、訂正前の記録表へ視線を落とした。
「十三時十五分。ここが、脅迫文を書いた時間ではなく、書いたあとに原稿を戻した時間だとしたら」
「久坂さんは、その前に書き終えていた」
「そして、井口さんが見た」
「私が原稿を受け取った」
私は言った。
「でも、私は脅迫文を見なかった」
「見なかったのではなく、見ないようにされた」
相馬さんが言った。
「付箋の位置、束の重なり、ページの向き。誰かが、あなたに見えないように戻した。脅迫文のあるページは、最終稿の下から三枚目だった。普通なら、あなたは照合のときに開く。けれど、付箋が三ミリずれていたため、次のページへ視線が流れた」
「誰かが、私の癖を知っていた」
「ええ」
相馬さんは私を見た。
「あなたが、紙の角を揃えてから読むこと。右上の付箋から確認すること。ページの右下を最後に見ること。そうした仕事の癖を知っている人間が、見せるために隠した」
「見せるために隠した」
佐伯が繰り返した。
「脅迫文を、いつか見つけさせるために」
私は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
久坂は、私をすぐに呼び出したかったわけではない。脅迫文を見つけたあと、私がどこまで紙を戻せるかを見ていた。もし私が脅迫文を朱で塗りつぶし、ページを差し替え、出版を優先していたら、彼は別の紙へ書いたのだろう。
彼は、私の仕事の癖そのものを罠にした。
そして同時に、私がもう一度、紙を見直すことを待っていた。
「これは、脅迫ではなく合図だった」
私は言った。
「そうです」
相馬さんが答えた。
「けれど、合図だから罪が軽くなるわけではありません。霧島さんの原稿を使い、無断で朱を入れた。作品を危険にさらした。その責任は久坂さんにある」
「私たちの責任も」
「ええ。紙は、誰か一人の罪を証明する道具ではありません。触れた順番を残すものです」
佐伯は手帳を閉じた。
「明日、会社へ正式に報告します。脅迫事件としての捜査も続ける。過去の改ざんについては、関係者の証言と資料を分けて記録します」
「出版はどうなりますか」
私が聞くと、佐伯はすぐに答えなかった。
相馬さんが最終稿を見た。
「校了には回せません。少なくとも、いまのままでは」
「霧島さんの作品を止めることになります」
「止めるのではありません」
相馬さんは、ファイルの中の脅迫文を見た。
「この紙に何が書かれているかを明らかにするまで、次の工程へ渡さないだけです。止めることと、見送ることは違う」
井口さんが、古い手帳を閉じた。
「霧島さん本人へ、すべて話すべきです」
その言葉に、私は顔を上げた。
「いままで、本人には?」
「私は、過去の作者名について、何も伝えていない。伝えれば、霧島ユウという名義が壊れると思った。あなたも、似た理由で黙っていたのでしょう」
「はい」
「でも、名義が壊れるのを恐れて名前を伏せ続ければ、また誰かがその名前を使う。今度は、本人に選んでもらうべきよ」
私は、ユウから最初にもらった簡素な礼状を思い出した。飾りのない紙に、短い一文だけが書かれていた。
――原稿を、原稿のまま読んでくれてありがとう。
あの言葉を、私は長いあいだ信頼の証だと思っていた。けれど、あれは願いだったのかもしれない。原稿を原稿のまま扱うこと。事情で汚さず、名義で奪わず、書かれたものをそのまま受け取ること。
私は、机の上の朱筆へ手を伸ばした。
今度は、ペン先を紙端で試さなかった。
その代わり、新品のノートを開き、記録の続きを書いた。
十三時十五分以前。 久坂慎一が古い原稿を持ち出した可能性。 井口澄江が目撃し、沈黙。 私が最終稿を受け取り、脅迫文を見ないまま戻した。 相馬冬子は朱の乾きと紙の重なりを確認。 三橋修は工程の前後を証言。 佐伯慎吾は記録の訂正を物証として保全。
そして最後に、自分の名前を書いた。
橘綾乃。 見た。 黙った。 戻す。
書き終えたとき、校閲室の扉が開いた。
霧島ユウが立っていた。
誰かが呼んだのか、いつから廊下にいたのか、私は知らない。ただ、ユウはまっすぐ机の上の最終稿を見ていた。顔にはほとんど表情がない。けれど、原稿へ向けられた視線には、これまでにない疲れがあった。
「話は聞きました」
ユウが言った。
私は立ち上がった。
「霧島さん。謝らなければなりません」
「謝罪は後でいいです」
「でも――」
「いま、原稿を見せてください」
私は、透明ファイルに収めた脅迫文のページを示した。ユウは近づき、触れずに朱を見た。
「これは、久坂さんの字です」
「分かるんですか」
「字ではありません。止まり方が同じです」
ユウは、しばらく朱の点を見つめた。
「昔、僕の原稿から一行を消した人も、最後に同じようにペンを止めました」
私は息を止めた。
「何が書かれていたんですか」
「名前です」
「誰の?」
ユウは私を見た。
「僕の名前ではありません」
校閲室の空調が、低く唸った。
「僕が最初に書いた作品には、別の名前がありました。僕がその人の文章を引き継いだわけではない。でも、その人が書き始めた企画を、僕が完成させた。鳳文社は、作者が表に出られない事情を利用して、名前を伏せた。僕も、それで作品が生きるならいいと思った」
「その名前を、私が消した」
「あなたひとりではありません」
「でも、私が赤を入れた」
「そうです」
ユウは原稿の端を押さえた。
「だから、あなたに任せた。あなたなら、文章を守るために名前を消すことの危険を、いつか理解すると分かっていたから」
「信じていたんですか」
「信じていた、とは言いません」
ユウは長く沈黙した。
「あなたが、もう一度見直す可能性を残していた」
その言葉は、私に向けられた庇護に近かった。許すのではない。私が自分で責任へ戻るための道を、作品の余白に残していた。
私は、脅迫文の朱を見た。
同じ朱でも、これは後から置いたものじゃない。
相馬さんの言葉が、耳の奥で繰り返される。
朱は乾く。紙へ沈む。けれど、消えない。
「この原稿は、どうしますか」
佐伯がユウへ尋ねた。
ユウは最終稿を見たまま答えた。
「出します」
私は思わず顔を上げた。
「このままでは出せません」
「このままでは、です」
ユウは私を見る。
「脅迫文を削除し、なかったことにした最終稿なら、出しません。けれど、何が起きたかを記録し、必要な一節を戻し、名前をどうするかを僕自身が決められるなら、出す」
「名前を戻すんですか」
「戻すかどうかは、まだ決めていません。名前を伏せることと、名前を奪われることは違う。今度は、自分で選びます」
私は頷いた。
「私も、記録を提出します。過去の差し替えについて、私が見たことを全部」
井口さんが、小さく息を吐いた。
「全部、という言葉は重いわよ」
「分かっています」
「会社を敵に回すかもしれない」
「分かっています」
「あなた自身の責任も問われる」
「分かっています」
私は朱筆を机へ戻した。
「それでも、もう『見なかったことにした』とは書きたくありません」
相馬さんが、机上の紙束を左下の角から揃えた。今度は、ずれていた角も、折れた紙も、記録を取ったあとで整えられていく。乱れを隠すためではない。どこが乱れていたかを残したうえで、次の工程へ渡すためだった。
佐伯は導線図を畳み、手帳へ挟んだ。
「では、明日の朝、正式な聞き取りをします」
「今夜は?」
「今夜は、原稿をここに置く。誰も触らない」
「触らないまま、守れるでしょうか」
ユウが訊いた。
佐伯は一度、机の上の紙束を見た。
「触らないことと、見捨てることは違います。誰が触れたかを残しながら、必要な人間だけが触る。そういう手順を作る」
相馬さんが頷いた。
「工程に戻しましょう」
その言葉で、部屋の空気がわずかに変わった。
紙はまだ傷ついている。脅迫文も、削られた名前も、消された責任も、元には戻っていない。けれど、紙の上に残された順番は、もう誰か一人の沈黙へ押し込められない。
私は最後に、脅迫文のページを見た。
朱の点は、もう濃く見えなかった。乾いた線の終わりに、誰かが止まった時間だけが残っている。書き手がためらった時間。読まれるのを待った時間。私たちが、ようやくそれを読むために費やした時間。
校閲室の照明が一つ、音もなく消えた。
窓の外には、神田の夜が広がっていた。車のライトが二重窓を白く横切り、紙面の上を走る朱のように、すぐに消えた。
私はノートを閉じた。
表紙の下には、いくつもの名前が残っている。消さずに書いた名前。見たことと、黙ったこと。触れた順番と、戻すべき場所。
明日の朝、私たちはこの記録を会社へ渡す。
その先で何が失われるのか、何が残るのか、私はまだ知らない。
ただ、校閲室の机の上で、霧島ユウの最終稿だけが、誰の手にも触れられないまま静かに横たわっていた。
余白には、もう朱を入れる場所がなかった。
その代わり、消されずに残された空白が、次に書かれる名前を待っていた。
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