第7話 紙の順番を戻す夜

佐伯が制作部へ向かったあとも、私はしばらく動けなかった。

机の上には、訂正前の記録が残った薄い紙と、十三時十五分から十三時二十三分までの八分を示す工程表が並んでいる。数字は小さい。けれど、その八分の中へ、誰かの手が入り、原稿を抜き、古い紙を重ね、朱を置き、乾くまで待ち、また元の流れへ戻した。

紙の上では、すべてが終わった形になっている。

だからこそ、終わっていない。

相馬さんは保管棚の前に立ったまま、棚板の傷を見ていた。埃の切れ目、ラベルの浮き、紙束の角度。指で触れればすぐに確かめられるものを、触れずに目だけで追っている。

「相馬さん」

「はい」

「記録を戻す、というのは、順番を正しく並べることですか」

「それだけではありません」

相馬さんは、こちらを振り向かなかった。

「順番には、誰かが最初に触れたという事実が含まれます。次に触った人間は、その前の状態を引き継ぐ。後の人間が、前の人間のしたことを知らないまま作業しても、紙には前の手が残る」

「知らずに引き継いだ人間にも、責任はありますか」

「責任と罪は別です」

「でも、黙って作業を続けたら」

「その場合は、見たかどうかが問題になります。見えたのに見なかったのか、見えないようにされていたのか。紙は、その差を残します」

私は机へ戻った。

最終稿、版下、再校、校閲刷り、受け渡し票。昨夜から何度も見てきた紙を、今度は時刻ではなく、傷の順番で並べ直す。佐伯が置いていった導線図を机の中央へ広げ、その周囲へ紙を配置した。

十三時十五分の訂正前記録。 十三時二十三分の訂正後記録。 三橋さんの作業日報。 昼の差し替えに使われた版下。 保管棚から出した古い校正刷り。

紙の端を揃えようとして、私は手を止めた。

いつもの私なら、まず角を合わせる。ばらばらに置かれたものを、順序と形の中へ戻す。整っていれば、次に進めると思っていた。

けれど、今夜は揃えなかった。

角のずれも、折れも、付箋の傾きも、そのまま残した。乱れは見苦しい。見苦しいからこそ、誰かがそこへ触れたと分かる。整えてしまえば、私自身が二度目の改ざんをすることになる。

相馬さんが、私の手元を見た。

「今日は、揃えないんですね」

「揃えると、分からなくなる気がします」

「何がですか」

「誰かが乱したことが」

相馬さんは短く頷いた。

「それでいいでしょう」

彼女は古い校正尺を机へ置いた。木の表面には細かな傷がいくつもついている。長年、紙の端を押さえ続けてきた傷だった。

「最初に、紙の厚みを測ります」

「同じ束なのに?」

「同じ束だからです。誰かが途中で紙を一枚抜いたり、別の紙を挟んだりすれば、重さが変わる。わずかな違いでも、工程を知っている人間なら覚えている」

「私は覚えていません」

「覚えていないことを責めているのではありません。覚えていない状態を、記録し直すんです」

相馬さんは文鎮を取り出し、紙束の中央を押さえた。金属が紙に触れる音は小さかったが、乾いた室内では妙に長く響いた。

そこへ、佐伯が戻ってきた。

右手には薄い紙の束、左手には冷めた缶コーヒーを持っている。缶の表面には、指で何度も押さえた跡が残っていた。

「制作部の廃棄箱を見ました」

「何かありましたか」

「ありました。訂正前の記録表と、差し替え指示の控えです」

佐伯は紙を机へ置いた。置く前に、机の角へ一度視線を落とす。私がいつもするように、紙の位置と周囲の空白を確かめている。

「廃棄箱に入っていたんですか」

「正確には、廃棄箱の底に敷かれていました。紙を捨てるとき、底へ一枚敷く人がいるそうです。インクが机へ移らないように」

「誰が敷いたかは?」

「三橋さんです」

その名前を聞いたとき、胸の奥が重くなった。

「三橋さんが、記録を隠した?」

「そう決めるのは早い」

佐伯は缶コーヒーを机の端へ置いた。

「三橋さんは、訂正前の記録を捨ててはいません。むしろ、残していた。捨てたように見える場所へ、残した」

「それは、隠したのと同じではありませんか」

「違います。誰にも見つけられない場所へ入れたなら隠蔽です。見つける人間がいることを前提に底へ置いたなら、保管です。ただ、本人に聞かない限り分からない」

「三橋さんは、何と言っていましたか」

「『工程表は捨てた。紙は捨てていない』」

相馬さんが、初めて佐伯のほうを見た。

「三橋さんらしいですね」

「ですが、記録表の訂正をしたのも三橋さんです」

「訂正した理由は?」

「制作部の作業終了時刻と合わなかったから、と」

「それだけですか」

「本人はそう言いました。ただ、訂正前の十三時十五分に、誰が原稿を受け取ったかは覚えていない」

「忘れたのではなく、言わない」

私が言うと、佐伯はすぐに否定しなかった。

「どちらかは、まだ分かりません」

彼は紙束から一枚を抜いた。薄い作業票だった。右上に三橋さんの印があり、中央に版下の受け渡し時刻が記されている。

十三時十五分。

その下に、鉛筆で小さく書かれた文字があった。

――一度、戻す。

私はその文を見つめた。

「三橋さんの字ですか」

「本人は認めました」

「何を戻す、と書いたんですか」

「聞きました。答えは、『版下を』でした」

「本当に?」

「本人はそう言いました」

相馬さんが、作業票の余白を覗き込んだ。

「鉛筆の圧が強いですね」

「強い?」

「普段の三橋さんなら、もっと紙に沈まない。これは、急いでいたか、手を止めたくなかったときの書き方です」

「三橋さんは、何かを見た」

私は呟いた。

「見たから、戻した」

佐伯は腕時計を見た。秒針が、乾いた音を立てて進んでいる。

「三橋さんを呼びます」

「ここへ?」

「制作部では、彼の机と版下が彼を守りすぎる。ここなら、紙を中心に話を聞けます」

「来るでしょうか」

「来てもらいます。逃げる理由があるかどうかを、本人に確かめる」

しばらくして、連絡口の向こうに三橋さんの姿が現れた。彼はいつものように、入室前に机の表面を見た。紙が乱れていることに気づくと、眉間に浅い皺を刻む。

「呼ばれた」

「この記録について聞きたいことがあります」

佐伯が紙を示した。

三橋さんは、紙へ手を伸ばしかけた。だが、相馬さんが静かに言った。

「触る前に見てください」

三橋さんは手を引いた。紙の上の数字を、少し離れた場所から見つめる。

「十三時十五分に、版下を戻したと書いてあります。どこへですか」

「制作部の机」

「誰が取りに来た?」

「覚えていない」

「忘れたんですか」

「違う」

「では、言えない?」

三橋さんの目が、紙の端へ落ちた。

「言えば、順番が変わる」

「順番は、もう変わっています」

私が言った。

「記録が訂正され、原稿には脅迫文が入り、古い原稿まで動いている。変わっていないのは、紙が残した傷だけです」

三橋さんは、私を見た。怒りを感じるほど声が低くなる人の目だった。

「お前が、それを言うのか」

「言います」

「前は、言わなかった」

「はい」

「久坂の前でも?」

胸の内側で、何かが裂けた。

「前は、言いませんでした」

「原稿を戻せと言われたときも?」

「はい」

「作者名を戻せと言われたときも?」

「……はい」

三橋さんは、机の上の紙を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

「なら、今さら順番を戻すな」

「戻します」

「戻せば、誰かが傷つく」

「もう傷ついています」

「まだ出ていない傷もある」

「出ていないなら、出すべきです。誰かが傷つかないようにと伏せた結果、久坂さんの名前も、作者の名前も、責任の所在も消えた。私は、これ以上その仕組みに加わりたくありません」

「お前ひとりが正しくなれば、過去が正しくなると思うな」

「思っていません」

私は、机の上の古い版下を見た。消された名前の跡。紙を削り、上から白い紙を貼り、それでも残った圧痕。

「私が正しくなれるとも思っていません。ただ、見たものを見たと言うことはできます。今までしなかっただけです」

三橋さんはしばらく黙っていた。

相馬さんは口を挟まなかった。佐伯も急かさない。校閲室には、空調と、遠くで稼働を始めた複写機の低い音だけがあった。

やがて三橋さんは、作業票の十三時十五分を指で示した。

「この時間、久坂が来た」

私の喉が鳴った。

「久坂さんが?」

「本人かどうかは、顔を見たわけじゃない」

「どういう意味ですか」

「肩越しに見えた。帽子をかぶっていた。制作部の前を通り、保管棚のほうへ行った。歩き方は、久坂だった」

「声は聞きましたか」

「聞いていない」

「それで、本人だと?」

「紙の持ち方が同じだった」

三橋さんは、作業票を裏返した。裏には、鉛筆で描いた小さな線がある。保管棚、台車、制作部の机。線は簡単な導線図になっていた。

「久坂は、原稿を持つとき、束の中央を押さえない。端を強く押さえる。紙を落とさないためじゃない。自分が触れた位置を覚えるためだ」

「そこまで見ていたんですか」

「組版をしていれば、見える」

「あなたは、久坂さんを通した?」

「止めなかった」

「なぜですか」

三橋さんは、長く黙った。

「戻すと言ったからだ」

「何を?」

「名前を」

その言葉が、校閲室の中央へ落ちた。

「久坂は、過去の原稿を持っていた。作者名を消される前の版下。俺が組んだものだ。あいつは、それを現在の原稿へ重ねた。朱を写した。脅迫文を書いた。俺は見ていた」

佐伯が初めて口を挟んだ。

「止めなかった理由は?」

「俺も、あのとき口頭の指示に従った。作者名を消した版下を仕上げた。久坂の名前を担当表から消す作業にも、手を貸した。名前を消した側の人間だ」

「だから、協力した?」

「協力ではない」

三橋さんは平板に言った。

「返しただけだ。あいつが失ったものを、俺の手で返せるとは思っていない。だが、俺が見なかったことにした紙を、もう一度見える場所へ置くことくらいはできる」

私は、脅迫文の朱を思い出した。

――次は、あなたの名前を消す。

あの言葉は、復讐の宣言であると同時に、順番を戻すための指示だった。消されたものを、消した側の前へ戻す。その一番目として、私の名前が選ばれた。

「久坂さんは、どこへ行きましたか」

「保管棚の奥へ」

「そのあと?」

「知らない」

「本当に?」

三橋さんは、私を見た。

「お前は、まだ人間の答えを欲しがっている」

「では、紙の答えをください」

三橋さんは作業票の裏に描いた線を指でなぞった。

「保管棚から古い束を出した。脅迫文のある最終稿と重ねた。だが、朱を書いたのは校閲室じゃない」

相馬さんが顔を上げた。

「どこですか」

「台車の上」

私は、壁際の台車を見た。昨夜、佐伯が車輪の向きを確かめた台車。埃の上に残った細い車輪の跡。誰かが通路を空けるために動かしたと考えていた。

「台車の上で書いたなら、紙の端が傷つく」

「傷ついている」

三橋さんは、最終稿の右下を見た。

「台車の縁に当たった傷じゃない。台車に置いた版下が、誰かの膝に押されて沈んだ。書いているあいだ、台車を動かさないように片手で押さえていた」

「それで、付箋が三ミリずれた」

相馬さんが言った。

「そうなる」

佐伯は手帳を開き、すぐに書き始めた。

「十三時十五分。久坂が保管棚から古い原稿を取り出す。台車の上で現在の原稿へ朱を入れる。乾くまで押さえる。十三時二十三分、三橋さんが版下を戻す」

「違う」

三橋さんが言った。

「十三時二十三分に戻したのは、版下だけだ。最終稿は、その前に誰かが持っていった」

室内の空気が、急に薄くなった。

「誰が?」

三橋さんは答えなかった。

私は、机の上の最終稿を見た。そこにあると思っていた紙が、実は別の束と入れ替わっている。脅迫文が仕込まれた時間だけでなく、原稿が移動した順番そのものが違っていた。

相馬さんが、最終稿の背を見た。綴じられた紙の端には、わずかな擦過痕がある。

「この束は、台車へ戻されたあと、もう一度持ち上げられています」

「誰が持ち上げたんですか」

「それは、まだ紙だけでは分かりません」

「でも、三橋さんは見た」

「俺が見たのは、久坂が書いているところまでだ」

「そのあと、誰が持っていった?」

三橋さんは、ゆっくりと私の机へ視線を移した。

「お前だ」

私の胸が、音を立てて冷えた。

「私?」

「十三時二十三分のあと、お前が制作部へ来た」

「私は一階の休憩室にいました」

「来た。俺のところではなく、連絡口の手前まで。誰かと話していた」

「誰と?」

三橋さんは答えを急がなかった。

「井口」

井口さん。

彼女が十三時十七分ごろ、編集部の廊下にいたという私の記憶と重なった。私はその時間、一階にいたはずだ。けれど、記録ではなく記憶なら、どこかに取り違えがある。昨日から何度も、私は覚えているはずの場面を曖昧にしていた。

「私が、井口さんと?」

「お前は、原稿を受け取った。脅迫文を見たかどうかは知らない。だが、束を持って編集部へ戻った」

「そんな記憶はありません」

「記憶にないから、なかったことになるのか」

三橋さんの言葉が、過去の紙面へ重なった。

私は目を閉じずに、一度だけ息を止めた。

十三時二十三分。制作部の連絡口。台車。井口さんの低い声。私の腕に抱えた紙束。けれど、記憶の中心には、別のものがあった。

一階の休憩室で飲んだ、ぬるい珈琲。空になった紙コップ。スマートフォンの画面。そこに表示された時刻。

十三時三十一分。

私は十三時二十三分のあと、制作部へ行ける。

だが、なぜ覚えていないのか。

「橘さん」

佐伯の声が、遠くから届いた。

「このとき、誰かから電話を受けませんでしたか」

私は記憶を探った。受けた。たぶん、受けている。画面には登録されていない番号が表示され、私は廊下へ出て話した。内容は思い出せない。声だけが、ひどく低かった。

『原稿を戻してください』

誰の声だったのか。

私は机の端を押さえた。指先に紙の硬さが食い込む。

「電話がありました」

「誰からですか」

「分かりません。ただ、原稿を戻せと言われた気がします」

「それを聞いて、あなたは制作部へ?」

「分かりません」

「また、分からないですか」

責められたとは思わなかった。佐伯は、私が逃げ込める曖昧さを一枚ずつ剥がしているだけだった。

相馬さんが、記録表の十三時十五分を指で押さえた。

「橘さん。覚えていない時間を、思い出す必要はありません」

「でも、私は――」

「思い出せないことと、隠していることは違います。ただし、違うと証明するには、記録が要る」

相馬さんは、私の新品のノートを見た。

「今夜のあなたは、記憶ではなく、紙に戻ってください」

私はノートを開いた。

十三時十五分。 十三時二十三分。 十三時三十一分。

数字のあいだに、電話。制作部。井口さん。原稿。

手が震えて、文字の線が少し乱れた。私はその乱れを消さなかった。

書き終えたとき、台車の下から紙が一枚、滑り出た。

誰も触れていない。けれど、台車の車輪がわずかに動き、底に挟まっていた紙片を押し出したのだろう。

相馬さんが、すぐには拾わなかった。

佐伯が時刻を読み上げ、私が位置を記録する。三橋さんは紙片を見たまま動かない。

紙には、朱の線がひとつだけ残っていた。

削除の記号。その横に、薄い鉛筆の文字がある。

――戻す相手を、間違えるな。

私はその一文を読み、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

久坂は、誰かの名前を戻そうとしている。

けれど、私たちはまだ、誰の名前を、誰の手へ戻すべきなのか知らない。

校閲室の外では、夜の神田を走る車の音が二重窓に吸われていた。紙をめくる音だけが、室内に残っている。

相馬さんは、紙片を透明なファイルへ収めた。

佐伯は、導線図の上に新しい線を引いた。

私は朱筆を手に取った。ペン先を紙端で試すことはしなかった。代わりに、ノートの余白へ、三つの名前を書いた。

橘綾乃。 井口澄江。 久坂慎一。

その下に、まだ名前のない誰かのための空白を残した。

紙の順番は、少しずつ戻り始めていた。 けれど、戻された紙の一枚一枚が、私たちの沈黙を同じ場所へ運んでくる。

逃げ道のない、余白の中央へ。

← 横にスクロールして読み進められます

紙の順番を戻す夜 - 朱の告発 - 誰でも作家life