第6話 脅迫文の時間

午後二時を過ぎたころ、佐伯慎吾が校閲室へ戻ってきた。
扉が開く前から、廊下の足音が分かった。急いでいるわけではない。けれど、昨日のように一度立ち止まることもなく、一定の間隔で近づいてくる。靴底が床を叩くたび、私の中に張りつめたものが一枚ずつ重なっていった。
佐伯は入室すると、挨拶より先に部屋の奥を見た。編集部へ続く連絡口。複写機。保管棚。壁際に寄せられた台車。その順番は、昨日と同じだった。
「まだ動かしていないんですね」
「動かせません」
「動かしていないのと、動かせないのは違います」
「分かっています」
私は机の上に置いた記録表を示した。
「脅迫文のあるページと、前後の版下は透明ファイルに入れてあります。原稿全体は封印して、触った人間と時刻を記録することにしました」
「誰が封印したんですか」
「相馬さんと私です。佐伯さんが立ち会う前でした」
「そのことも記録に?」
「はい」
佐伯は頷き、手帳を開いた。けれど、すぐには書かなかった。私の顔ではなく、机の端と紙束の位置を見ている。誰かが昨日から今までに、紙を少しでも動かしたかを確かめているようだった。
「きれいですね」
「何がですか」
「記録がです。時刻も、担当者も、紙束の移動先も、全部埋まっている」
「それは悪いことですか」
「悪いとは言っていません。ただ、整いすぎている」
彼は記録表の右下を指で押さえた。
「人が作った表は、どこかに迷いが出ます。書き直し、訂正、時間の空白。ところが、これは空白がない。昨日から今日まで、誰がどこにいたかが、紙の上ではきれいに並んでいる」
「実際には違うと?」
「違うかもしれない、と考えています。記録が正しいなら、脅迫文を書いた人間には、記録に残らない時間が必要です」
「それが、午後のどこかにある」
「そうです。だから、動線を見ます」
佐伯は台車のところまで歩いた。版下を運ぶための小さな台車は、車輪に薄い埃をまとっている。彼はしゃがみ込み、車輪の向きを確かめた。紙束を見ると重さを測るように持ち上げる癖があるが、台車に対しても同じだった。取っ手を軽く押し、抵抗を確かめる。
「この台車は、昨日の午後、使いましたか」
「三時十七分に一度。印刷所へ送る版下を移すためです」
「その後は?」
「壁際へ戻しました」
「誰が?」
「私です」
「戻したとき、台車の向きは?」
「連絡口に対して垂直です」
「いまは斜めです」
私は台車を見た。確かに、壁と平行ではない。右側の車輪だけが、机の脚に触れかけている。
「誰かが動かしたんでしょうか」
「昨日の記録には、台車を動かした人間の名前がありません」
「印刷所の回収担当が触った可能性は?」
「回収は四時以降です。守衛記録では、印刷所の担当者は三階へ上がっていない」
佐伯は台車の取っ手から手を離した。
「台車は、動いた。ただし、版下を運ぶためではない。人が通路を空けるために、少しだけ動かした」
「それが脅迫文と関係あると?」
「関係があるかもしれない。少なくとも、ここにいる誰かは、工程表に記録されない動きをしている」
私は返事をせず、記録表へ目を戻した。午前の再校。昼の差し替え。午後の最終確認。時刻と担当者の名前が、罫線に沿って整然と並んでいる。
脅迫文が見つかったのは、十七時四十二分だった。
そこへ至るまでに、原稿が通った工程は三つしかない。
午前十時十五分、編集部から私が最終稿を受け取った。十一時二十分、片岡さんが校正刷りを確認した。十三時五分、三橋さんが版下の差し替えを行った。十五時前後、ユウが原稿の枚数を確かめた。十六時三十分、相馬さんが校閲室へ来て、私と最終確認を始めた。そして十七時四十二分、私は脅迫文を見つけた。
記録の上では、誰も不審な時間を持っていない。
けれど、紙の上に脅迫文は残っていた。
「記録表を、時刻の順に並べるのをやめましょう」
相馬さんが言った。
彼女はいつの間にか私の背後に立っていた。机の端を一度なで、朱筆のキャップを外す。けれど、紙へは触れない。キャップを指先で回しながら、記録表ではなく、原稿の束を見ていた。
「工程順ではなく、紙の疲れ方で並べます」
「疲れ方というのは、具体的に?」
佐伯が尋ねる。
「紙は、置かれた場所と時間を完全には忘れません。重ねられた紙の下側は、空気が抜けて平らになる。何度も持ち上げられた角は、わずかに丸くなる。朱は乾く。修正テープは浮く。付箋の粘着は弱くなる」
「つまり、原稿の状態を見れば、記録と違う順番が分かる」
「記録と違う順番ではありません。記録に書かれていない手順が分かる」
相馬さんは透明ファイルを机の中央へ置いた。
「橘さん、最終稿の脅迫文のページを、最初に見つけたときの状態を説明してください」
「右下の余白に、校正記号に偽装された朱がありました。紙肌が荒れていて、朱は乾いていた。けれど、線の終わりに一点だけ濃い箇所があった」
「付箋は?」
「右端の付箋が、ほかより三ミリ下がっていました」
「紙束全体は?」
「左下が揃っていませんでした。ほんの少し、内側へ押し込まれたように」
「ページは開かれていた?」
「脅迫文のページが上から三枚目でした。最終確認のとき、私はそこまで一度めくっています」
「そのとき、朱は?」
「ありませんでした」
相馬さんは、そこで初めて朱筆を机へ置いた。
「では、脅迫文は最後の確認の直前に書かれたのではありません」
佐伯が顔を上げた。
「なぜですか」
「最後の確認でページをめくったなら、朱が乾ききっていない場合、紙の裏側へわずかに付着するはずです。けれど、脅迫文の裏には転写がない。書かれたあと、ページは一度もめくられていない」
「それなら、脅迫文は最終確認の前に書かれた」
「ええ。ただし、書かれた直後にページを閉じ、束全体を押さえている。朱の表面は乾いているのに、線の下の紙だけが沈んでいる。書いたあと、誰かが上から強く押さえたんです」
「乾くまで、束を動かさなかった」
「正確には、しばらく動かせなかった」
相馬さんは、ページの右下を示した。
「この朱は、乾くのが早い種類です。室温と湿度を考えれば、表面が乾くまで十数分。けれど、重ねた紙の下に湿気がこもったため、押さえられた部分だけ乾きが遅れた」
「そのあとで、誰かが紙束を戻した」
「はい。戻したときに、右下の余白が潰れ、付箋が三ミリずれた」
佐伯は手帳に線を引いた。
「書き込み。乾燥。束を戻す。この三つの間に、少なくとも十数分が必要だ」
「でも、記録表にはそんな時間はありません」
「だから、表の外にある」
彼は立ち上がり、編集部との連絡口へ歩いた。連絡口は普段、原稿を急いで渡すために使われる。扉は開け放たれているが、校閲室と編集部のあいだには、厚いガラスの仕切りがある。向こう側の電話の声やキーボードの音が、薄い膜を通して届いてくる。
佐伯は連絡口の前で立ち止まり、腕時計の秒針を見た。
「誰かがここを通ると、編集部からは見えますか」
「席によります。制作部側からは、扉の前が死角になります」
「校閲室からは?」
「編集部の棚が見えません」
「互いに見えない場所がある」
「はい」
「その場所で、原稿を一度だけ抜き取ることができる」
佐伯の声が、部屋の中央へ戻ってきた。
「誰かが原稿を持ち出したとしても、記録上は『回送中』に見える。戻せば、移動そのものがなかったことになる」
「でも、紙には残る」
相馬さんが言った。
「紙には残る。だから、その痕跡がいま見えている」
佐伯は記録表を手に取った。
「午前の再校は十一時二十分に完了。昼の差し替えは十三時五分から十三時二十三分。午後の最終確認は十六時三十分からです」
「はい」
「脅迫文を書いた人間が、午後の最終確認までに原稿を戻せば、見つかる可能性は低い。問題は、どこで書いたかです」
「校閲室の中でしょう」
私は言った。
「相馬さんが、外から来た形跡はないと」
「外部者を除外したわけではありません」
相馬さんは静かに訂正した。
「ただ、外部から来た人間が、鳳文社の朱筆の癖と付箋の扱いを知り、紙束を元の状態へ戻すには、ここで働いた経験か、ここを長く観察した経験が必要です」
「久坂さん」
名前が、口の中で重く転がった。
佐伯は私を見た。
「久坂さんは、昨日から出てきた名前です。まだ、本人が生きているか、どこにいるかも分かっていない」
「それでも、彼なら工程を知っています」
「彼が犯人だと思いますか」
「思いたいわけではありません。ただ、脅迫文が過去の改ざんと同じ手順を使っているなら、無関係とは言えない」
「過去の改ざんと、今回の脅迫文が同じ手順だと、どうして分かるんですか」
「相馬さんが、削除、移動、戻しの順番だと言いました」
「それは記号の順番です」
「私には、それが久坂さんのやり方に見えるんです」
佐伯は黙った。ペンの軸を指先で回している。
「久坂さんのやり方を、あなたはどれくらい知っていますか」
「直接、担当したことはありません」
「それなのに、分かる?」
「分かるのではなく、覚えているんです。あの人が原稿を扱うとき、必ず紙の端を揃えた。文章を直す前に、余白を見た。削除した箇所を、そのままにはしなかった。別紙へ写して、理由を書いていた」
「理由?」
「誰が、なぜ、何を消したのか。原稿の裏に小さく残していた。正式な記録ではありません。けれど、後から見れば、そこにしか残っていないことがあった」
「今回も、そういう記録を残したと?」
「脅迫文が告発のためなら」
「告発のためなら、なぜ脅すんですか」
佐伯の問いは、責めるというより、私の推測の足場を一枚ずつ外していくものだった。
私は原稿のファイルを見た。
「脅す相手と、読ませたい相手が違うからです。私への脅迫に見せて、社内の人間に過去を思い出させる。脅迫文は、私の名前を使っているけれど、伝えたいのは私だけではない」
「では、誰に?」
「名前を消した人間全員に」
言ってから、私は言葉の強さに怯えた。
相馬さんが私を見た。目は穏やかだったが、逃がすつもりはないように見えた。
「橘さん。全員、という言葉は便利です」
「便利?」
「責任を薄めるからです。全員が悪いと言えば、誰が何をしたのかが見えなくなる。逆に、一人だけを犯人にすれば、残りの沈黙を許せる。紙は、そのどちらも許しません」
彼女は記録表の空白を指でなぞった。
「誰が書いたかを特定することと、誰が何を見て、何を言わなかったかを残すことは別です。犯人が一人でも、沈黙は一人ではない」
私は唇を閉じた。
佐伯が、机の上の三枚の記録票を並べ替えた。午前の再校、昼の差し替え、夕方の最終確認。紙の右上には、担当者の印がある。だが、昼の差し替えだけ、受け渡し時刻の欄に訂正線が引かれていた。
「この時間、書き直されていますね」
「はい。十三時五分から十三時二十三分です」
「最初は?」
「十三時十五分と書かれていたはずです」
「はず?」
「私が見たときには、訂正されていました。三橋さんが差し替えを終えた時刻を、制作部の記録と合わせて修正したと聞いています」
「誰が修正したんですか」
「記録表の欄外に、制作部確認とあります」
「名前はない」
「はい」
佐伯は紙を裏返した。訂正線の下に、薄く別の筆圧が残っている。書き直す前の数字の跡だ。
「十三時十五分。最初の記録は、こちらだった」
「三橋さんの作業終了時刻は十三時二十三分です」
「作業終了が十三時二十三分で、原稿を受け取ったのが十三時十五分なら、八分の空白がある」
「差し替え作業中に記録を書いた可能性は?」
「可能性はあります。ただし、原稿は十三時十五分には、まだ三橋さんの机にあったことになる」
佐伯は、訂正線の端を見つめた。
「誰かが、十三時十五分から十三時二十三分の間に、原稿へ触れられた」
私の胸が、ゆっくり締まった。
昼の差し替え。脅迫文の朱の乾き。紙を戻すために必要な時間。点が、初めてひとつの線へつながりかけている。
「その八分の間に、誰が制作部へ入れますか」
「制作部への連絡口は、こちらです」
私は扉を指した。
「編集部からも、校閲室からも行けます。ただ、三橋さんが作業している間は、机の前に人が立つとすぐ分かります」
「分かるのに、原稿へ触れられた?」
「三橋さんが版下を組み直している間ではなく、作業を終えて、差し替えた紙を揃えている時間なら――」
「その場に誰かがいれば、気づくでしょう」
「目を離す瞬間はあります。版下と原稿を重ねるとき、端を揃えるために下を向く。電話が鳴れば、そちらを見る。人が作業を止めずに会話することもある」
私は三橋さんの姿を思い浮かべた。会話中も手を止めない。作業を続けながら、必要なことだけを返す。紙を信じ、人の言葉を信じない男。だからこそ、手順の中へ別の手を滑り込ませることは、難しくなかったのかもしれない。
佐伯が私に向き直った。
「十三時十五分から十三時二十三分の間、校閲室にいた人間は?」
「私は昼食を取りに、一階の休憩室へ行っていました」
「何時から何時まで」
「十二時五十分から十三時三十分です」
「片岡さんは?」
「十三時前に外出しています。外注先へ戻ったと聞いています」
「井口さんは?」
「十三時十七分ごろ、編集部の廊下で見かけました」
「相馬さんは?」
「私はその時間、校閲室にいません。別のゲラを印刷所へ返しに行っていました」
「霧島さんは?」
「十五時前後まで、来ていません」
佐伯は手帳へ書き込んだ。
「記録上、誰もいない」
「ですが、誰かはいた」
「そうです。原稿には触れた人間の痕跡がある」
佐伯は、昼の差し替え記録を持ち上げた。
「この八分を、誰が作ったのか。訂正前の十三時十五分を、誰が書いたのか。そこが重要です」
「訂正した人間が、時間をずらした可能性は?」
「あります。十三時十五分を十三時二十三分へ直せば、原稿に触れられる時間が消える」
私は、紙の上に引かれた訂正線を見た。一本の線で、八分が消える。八分だけなら、たいした時間ではない。けれど、朱が乾き、紙を戻し、付箋を整えるには十分な時間だ。
「誰かが、最初からその八分を隠すつもりだった」
「あるいは、あとから見つかると困る時間だった」
佐伯の言葉に、背中へ冷たいものが走った。
校閲室の外で、台車の車輪が転がった。誰かが急いでいるのか、車輪のひとつが床の継ぎ目に引っかかり、二度、乾いた音を立てる。
相馬さんは窓際へ歩き、脅迫文のページを光へかざした。紙の端を押さえ、裏面を見ている。
「相馬さん?」
「朱の乾きだけでは、時間を確定できません」
「さっきは、昼のあとだと」
「ええ。ですが、もう一つ見落としていました」
彼女はページを裏返し、指先を触れさせずに、紙の中央を示した。
「このページ、書き込みの前に一度、別の紙と重なっています」
「古い原稿ですか」
「分かりません。ただ、紙粉が逆方向へ寄っている。脅迫文を書いたときに重ねたのではなく、脅迫文を書く前から、上に何かが置かれていた」
「何かを読むために?」
「あるいは、何かを写すために」
私は、脅迫文の校正記号を見た。
削除。移動。戻し。
それは、単に私を脅すための文章ではない。過去の没原稿に残った記号を写し取り、現在の原稿へ移した可能性がある。誰かが古い紙を見ながら、同じ順序で朱を入れた。だから、脅迫文の朱には、昔の紙の圧が混ざっていた。
「脅迫文を書いた人間は、古い原稿を持っていた」
「もしくは、ここで見た」
佐伯が保管棚を振り返った。
棚の奥には、作者名を削られた古い校正刷りがある。記録から消えた束。久坂の名が、紙の底から浮かび上がった束。
「十三時十五分から十三時二十三分の間に、誰かが古い原稿を取り出した」
私は言った。
「そして、現在の最終稿へ脅迫文を書いた。乾くまで押さえ、元の工程へ戻した。だから、記録上は差し替え作業の一部に見える」
「まだ推測です」
佐伯はそう言ったが、否定はしなかった。
「推測を物証へ変えるには、何が必要ですか」
「訂正前の記録を書いた人間。八分のあいだに制作部へ入った人間。そして、古い原稿を動かした痕跡」
「保管棚の埃ならあります」
「棚だけでは足りない。誰かが触った順番が必要です」
「なら、棚を調べます」
私は椅子から立ち上がった。
相馬さんが私を見た。
「今度は、ひとりで触らないでください」
「分かっています」
「分かっている人の足取りではありません」
言われて、私は歩みを止めた。
自分でも、先へ急いでいるのが分かっていた。時間の穴が見えた瞬間、そこへ身体ごと入り込みたくなっている。何かを見つければ、過去も現在も一度に整理できる気がしていた。けれど、紙を急いで掴めば、また私は、見つけたものを自分の判断の中へ隠してしまう。
私は新品のノートを開いた。
「まず、十三時十五分から十三時二十三分の動線を記録します」
佐伯が頷いた。
「それから、棚の状態を撮ります。紙に触れるのは、相馬さんの指示を受けてから」
「それでいいです」
相馬さんは、私のノートへ視線を落とした。
「記録は、誰かを追い詰めるためだけにあるのではありません。あとで自分が逃げないためにもあります」
その言葉を、私はすぐには理解できなかった。
やがて、ノートの余白へ時刻を書き始めた。
十三時十五分。 十三時二十三分。 差し替え記録の訂正前と訂正後。
数字を並べるほど、八分の形がはっきりしていく。空白ではない。誰かがそこへ入り、何かをして、出ていった時間だ。
佐伯が連絡口の扉を開いた。
「制作部へ行きます」
「いまからですか」
「訂正前の記録を書いた人間を探します。記録表が整う前の紙を、まだ廃棄していないかもしれない」
「制作部は、もう終業の準備に入っています」
「終業するから、行くんです。人は帰る前に、机の上を整える。整えた紙の下に、消したくないものを残すことがある」
佐伯は扉の向こうへ出た。
相馬さんは、保管棚の前に立った。私はその隣へ行く。棚の奥から、古い紙と糊の匂いが漂ってきた。乾いた空気の中で、その匂いだけが湿っている。
「橘さん」
「はい」
「この棚の前に立ったら、まず何を見るべきですか」
「埃の乱れ。ラベルの剥がれ。紙束の角。誰かが抜き取ったなら、周囲の束にも重なりの変化が出る」
「覚えていますね」
「はい」
「では、見てください。触らずに」
私は棚の段をひとつずつ見た。
埃は均一ではなかった。古い校正刷りの束の前だけ、細い半月形に途切れている。誰かの手が入った跡だろうか。けれど、保管棚の扉を開け閉めしただけでも、空気の流れで埃は動く。
その下の段には、紙の角が外へ向かってわずかに傾いた束があった。誰かが一度抜き、戻した。戻したが、元の位置を完全には再現できなかった。
「ここです」
私が言うと、相馬さんは頷いた。
「いつ動いたか」
「まだ分かりません」
「分からないなら、分からないまま記録します」
相馬さんは朱筆を取り出し、紙へ書き込まずに、棚の位置をノートへ写し取った。段数、束の幅、埃の切れ目、ラベルの浮き。手つきは静かで、迷いがなかった。
私も同じように書いた。
紙の上に、時刻と傷が並んでいく。
そのとき、廊下の向こうから佐伯の声が聞こえた。
「橘さん!」
私は振り向いた。
佐伯は連絡口の前に立ち、片手に薄い紙を持っていた。白い紙の上には、訂正前の数字が残っている。
十三時十五分。
その数字の下に、別の朱が重なっていた。
削除線で消されたはずの欄外に、短い文字がある。
――戻したのは、八分ではない。
私は紙を見つめたまま、息を止めた。
佐伯は紙を持つ手を下げなかった。
「これを書いた人間は、時間そのものを言っているんじゃない」
彼の声が、校閲室の乾いた空気を震わせた。
「何かを戻した、と言っている」
相馬さんが、保管棚の奥を見た。
私は古い紙の匂いを吸い込んだ。乾いた繊維の奥に、朱インクの鉄のような匂いが混じっている。脅迫文の朱と、古い没原稿の朱。別々の紙に残っていたはずのものが、時間の穴を通って、同じ場所へ集まっていた。
記録表は、十三時二十三分で整えられている。
けれど、その下には十三時十五分が残っている。
消された数字は、なくなっていない。
誰かが、見えない場所へ移しただけだ。
私はノートへ新しい行を加えた。
十三時十五分から十三時二十三分。 原稿が工程の外へ出た時間。 脅迫文が書かれた可能性。 古い原稿が動いた形跡。 戻されたもの――未確認。
書き終えたとき、私はようやく気づいた。
脅迫文の「次は、あなたの名前を消す」という言葉は、未来の予告ではない。
すでに誰かの名前が消されていて、その順番が、私のところまで来たという知らせだった。
校閲室の奥で、紙が一枚、静かに滑った。
誰も触れていないはずの机の上で、最終稿の端がわずかに持ち上がる。
その下から、薄い紙片が覗いた。
朱の線が一本、途中で切れている。
削除記号ではなかった。
戻しの記号だった。
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