第5話 井口澄江の笑顔

昼前になっても、校閲室の空気は変わらなかった。窓の外だけが、灰色の雲の切れ間から弱い光を差し込ませている。私は保管棚の前で、久坂慎一の名前が浮かび上がった古い版下をもう一度見つめていた。文字は完全には消えていない。消したつもりの誰かが、消しきれなかった圧痕として、いまも紙の底に沈んでいる。
廊下の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてきた。踵の低い靴が、規則正しく床を叩く。急がず、慌てず、けれど止まりもしない歩き方だった。
「橘さん、いる?」
扉が半分開いて、井口澄江が顔を覗かせた。別部署に異動してからも、彼女の声には校閲室を通り過ぎる編集者特有の、紙を怖がらない落ち着きが残っている。手にした書類の角を、指先でひとつなぞってから、彼女は敷居をまたいだ。
その仕草だけを見れば、責任を曖昧にする人間には見えない。むしろ丁寧すぎるほどだった。だが私は、彼女の視線が机の上の最終稿に触れた瞬間、ほんのわずかに逸れたのを見逃さなかった。見たくないものを見てしまったときの目の動きに、よく似ていた。
「騒ぎになっているようね」
井口はそう言って、書類鞄を椅子の背にかけた。まるで天気の話でもするような声色だった。窓の外はまだ雨が降っていないのに、彼女の言葉には湿り気があった。
「騒ぎにしたくてしているわけじゃありません」
「分かってる。あなたがそんな人じゃないことくらい、私が一番よく知ってるつもりよ」
井口はそう言って、私の隣の椅子に腰を下ろした。長年の癖なのか、座るとすぐに背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねる。その姿勢は、何かを問われても揺らがないための、静かな防御の形にも見えた。
「霧島ユウさんの最終稿に、脅迫文が入っていたそうね」
「誰から聞いたんですか」
「編集部は狭いのよ、橘さん。あなたが知らないだけで、私のところにも、それなりに話は流れてくる」
「井口さんは、今はもう霧島さんの担当じゃありません」
「ええ、もう何年も前のことよ」
「なのに、こうして様子を見に来た」
私の声は、思っていたより硬くなった。井口は表情を変えず、ただ小さく微笑んだ。相手の言葉の棘を吸い取ってしまうような、柔らかい笑い方だった。
「昔担当していた作品が傷つくのは、誰だって気になるものでしょう。それだけよ」
そこへ、相馬さんが古い校正刷りの束を持って歩み寄ってきた。厚みのある紙が擦れる音が、静かな部屋に短く響く。相馬さんは井口の前に、脅迫文のページが挟まれた透明なファイルと、もう一枚、旧い没原稿の写しを並べて置いた。
「井口さん。この朱、あなたの癖じゃないですね」
井口はそれを受け取らず、目だけで見た。視線の動きは滑らかだったが、瞬きの回数がわずかに増えていた。
「そうでしょうね。ずいぶん前のことですし」
「前のことだから、ですか」
私の声が、また硬くなる。井口は、その硬さをなだめるように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「橘さん。あなたは若いから、まだ現場が『正しさ』だけで回っていると思っているところがあるでしょう。でもね、出版という仕事は、正しさと、円滑さと、締め切りの三つが常に綱引きをしているの。三つとも満点を取れることなんて滅多にない。だから誰かが、どれかを少しだけ諦める。私はあのとき、円滑さを選んだ。それだけのことよ」
「円滑さのために、何を諦めたんですか」
井口の指先が、膝の上でほんの少しだけ動いた。
「綺麗に収めたかっただけよ。現場が止まるよりは、ね」
その言い方は、これまで幾度となく使われてきた便利な言葉だった。作品を守るため。現場を止めないため。組織を壊さないため。私自身が、そのたびに何かを飲み込んできたことを、井口の語尾が思い出させる。だが今回だけは、その便利さが、脅迫文の朱と同じ匂いを帯びていた。守るという言葉で隠されるものは、たいてい、誰かの名前だった。
「久坂さんの名前も、円滑さのために消したんですか」
沈黙が落ちた。空調の低い唸りだけが、部屋の隅で息をしている。
井口は、すぐには答えなかった。答えないことが、答えになることを、彼女自身がよく分かっているようだった。長い沈黙のあと、彼女は静かに口を開いた。
「久坂さんは、良い編集者だったわ。原稿を、作者の代わりに守ろうとするタイプだった。だからこそ、あの企画のときも一歩も引かなかった。名義を戻せ、責任の所在をはっきりさせろって、何度も言った。でもね、橘さん。発売日というのは、一度動き出すと、誰の正義感でも止められない列車のようなものなの。私は、その列車を止める勇気がなかった。久坂さんは、止めようとして轢かれた。それだけの話よ」
「それだけ、では終わっていません」
「終わっていないことは、私も知ってる」
井口の声が、初めて低くなった。静けさで自分を守るタイプの彼女が、静けさのまま少しだけ本音を漏らした瞬間だった。
「終わっていないから、あなたは今、こんな目に遭っている。私は、そのことを申し訳なく思ってはいる。でもね、申し訳なく思うことと、断罪されることは違う。私はあのとき、あなたを守ったつもりだった。若かったあなたに、全部を背負わせないために、曖昧な言葉で終わらせた。それが間違っていたと、今さら断言されても、私にはどうしようもない」
「守るために黙ったのか、隠すために黙ったのか。井口さんは、どちらだったんですか」
井口は、ようやく私の目を見た。長い付き合いの先輩としてではなく、ひとりの、疲れた人間の目だった。
「両方よ、橘さん。両方が同時に起きるのが、この仕事なの。あなたも、いずれ分かる。いいえ、もうとっくに分かっているんでしょうね。だからこそ、こんな顔をしているんだから」
彼女はそう言って、静かに立ち上がった。書類鞄を肩にかけ、机の端に置かれた紙束の上へ、ほんの一瞬だけ視線を落とす。その視線は、見落としたいものを、最後にもう一度だけ確かめる目だった。
「井口さん」
「これ以上は、私からは何も。ごめんなさいね」
彼女は最後まで言い切らずに、扉のほうへ歩いていった。踵の音が、来たときと同じ規則正しさで遠ざかっていく。だが、その足取りのどこかに、来たときにはなかった重さが混じっているように、私には聞こえた。
相馬さんが、井口の座っていた椅子をそっと元の位置に戻した。紙束の端をもう一度揃え直しながら、私に言った。
「橘さん。井口さんは、何も知らないんじゃありません。知っていて、触れたくないだけです」
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。知っていて、触れたくない。それは、私自身がこれまで何度も選んできた態度と、あまりにもよく似ていた。
窓の外で、灰色の雲がまた厚みを増していた。まだ雨は降っていない。それでも、いつ降り出してもおかしくない重さが、空にも、この部屋の空気にも、等しく満ちていた。
私は机の上の脅迫文のファイルを見つめた。朱の線は、乾いたまま静かに紙の上にとどまっている。誰かの言い訳では消えない、消えるはずのない傷として。
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