第4話 保管棚の沈黙

翌朝の校閲室は、前日より音が少なかった。
複写機は電源が落とされ、印刷所へ送るはずだった台車も壁際に寄せられている。誰かが意図して止めたのではない。脅迫文のある原稿を動かせない以上、工程のほうが自然に息を潜めていた。
窓の外では、神田の空が薄い灰色に沈んでいた。雨は降っていないのに、二重窓の向こうに湿り気が張りついている。校閲室の空調は一定の温度を保っていたが、紙の匂いだけが昨日より濃かった。乾いた繊維と、古い糊と、朱インクが乾ききる直前の、鉄に似た匂い。
私は机の中央に、霧島ユウの最終稿を置いた。
その隣には、昨夜、保管棚から出した古い校正刷りがある。表紙から作者名だけが削られた束。紙の端には、脅迫文の余白に残っていたものとよく似た朱の点があった。
相馬さんは、朝から一度もその束を開いていない。
代わりに、机の端を指先でなぞっていた。紙粉がついていないことを確かめるような、いつもの仕草だった。
「古いものから見ますか」
私が尋ねると、相馬さんは眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。
「順番があります」
「現在の原稿より先に?」
「紙が古いから先、ではありません。触られた順番を戻すためです。現在の原稿に入った朱が、過去の朱を真似たものなら、古いほうに手つきが残っている。逆なら、古いものを手本にした人間がいる」
「手本にした人間」
「朱は、色だけでは真似できません。線を引く速さ、止める場所、紙を押さえる強さ。書く人間は、隠そうとしても、手順までは隠せない」
相馬さんはようやく古い束へ手を伸ばした。端を揃えてから、表紙をめくる。
一枚目には、企画名だけが残っていた。作者名の欄は、白く削られている。修正液ではない。紙の表面を薄く削り、その上から別の紙を貼り、さらに剥がした跡だった。
私は指を伸ばしかけた。
相馬さんが、視線だけで止めた。
「触らないでください」
「分かっています」
「分かっている人の指ではありません」
「……そんなに伸びていましたか」
「ええ。紙のほうへ」
言われて、私は手を引いた。指先が空中で行き場を失い、膝の上へ落ちる。
昨日までなら、見つけたものを自分の手で確かめていた。確かめることが責任だと思っていた。誰かに任せるより、自分が先に触れたほうが速い。現場を止めずに済む。けれど、私が先に触れてきた紙のいくつかは、触れた者の名前を残さないまま、別の形へ変えられていった。
相馬さんは削られた作者名の欄を、斜めから見た。蛍光灯の光が紙面を滑り、表面に細い凹凸を浮かべる。
「ここは、あとから削ったのではありません」
「え?」
「削る前に、上へ別の紙が重ねられています」
「別の紙?」
「この下に、何かを書いた紙があった。強い筆圧で書かれた文字が、下の紙へ移っている」
相馬さんは束の中から一枚を抜き、窓際へ運んだ。朝の光は弱かったが、紙を傾けると、白い余白に淡い影が浮かんだ。
私は立ち上がり、彼女の横へ歩いた。
窓際までの数歩が、妙に長く感じられた。机と棚のあいだにある通路は、昨日まで何度も往復した場所だ。編集部から来た原稿を置き、複写機へ向かい、台車を押して戻る。何の意味もない動線だったはずなのに、今は誰かの足跡が床の上に沈んでいるように思える。
窓の外で、車が濡れた路面を走った。タイヤの音が二重窓に吸われ、残った振動だけが足元へ伝わってくる。
相馬さんが紙を傾け直した。
「読めそうですか」
「文字ではありません。圧痕です」
「それでも、何か分かるのでは?」
「読もうとすると、見たいものを見ます。まず、あるものをあるままにする」
その言い方は、相馬さんが校閲の話をしているのか、人の話をしているのか分からなかった。
彼女はルーペを取り出し、紙の上へかざした。金属の縁が朝の光を返す。
「ここに、横線が二本」
「削除記号ですか」
「似ています。ただし、普通の削除線より短い。その下に、縦の線が一本。移動ではない。戻せ、という指示に近い」
「何を戻すんですか」
「文字か、責任か」
相馬さんはルーペを下ろした。
「紙面に書かれた記号だけなら、文字です。でも、作者名を消した紙の上に残っているなら、もっと大きいものを指している可能性がある」
「責任を戻す」
私はその言葉を口にしてから、舌の裏に苦い味を感じた。
昨夜、ノートへ久坂慎一と書いた。書いただけで何かが戻ったわけではない。それでも、名前を書くという行為は、削られた紙面へ最初の傷をつけることに似ていた。白く整えられた場所へ、消せないものを置く。
「この企画の作者名を、知っていますか」
相馬さんはすぐに答えなかった。
「知っている人間は、まだ社内にいるでしょう」
「相馬さんは?」
「私は、当時の校正刷りを見たことがあります」
「作者名も?」
「表紙にありました」
「覚えていますか」
「覚えています」
彼女は古い束を閉じずに、ページの端を押さえたまま続けた。
「覚えていることと、言えることは別です。以前の私は、そこを分けていました。記憶は個人的なもの。記録は会社のもの。だから、記録に残っていないことを口にしてはいけないと思っていた」
「今は違うんですか」
「違うと思いたいだけかもしれません」
相馬さんの声は低かった。感情が動くと、彼女の声は逆に静かになる。
「でも、紙面から名前を削った人間が、削られた名前まで消せるわけではありません。私たちは、名前が消えた紙を何度も見てきた。見てきたのに、見たことにしなかった」
「久坂さんの名前も?」
相馬さんは私を見た。
「あなたは、昨夜からその名前をノートに書いていますね」
「見ていたんですか」
「紙を見る人間は、手元も見ます」
「久坂さんのことを、どこまで知っていますか」
「あなたより多くはありません。ただ、あなたより早く違和感に気づいていた可能性はあります」
「なのに、黙った」
「ええ」
その答えは、あまりに早かった。
私は相馬さんの横顔を見た。眼鏡の奥の目は紙に向けられている。誰かを責める目ではない。自分の中に残っている見逃しを、何度も確かめる目だった。
「どうして黙ったんですか」
相馬さんは、古い束の右下を指で押さえた。
「当時、私は校閲班の副班長でした。差し替え前の原稿と、差し替え後の原稿の両方を見た。文章の呼吸が違っていた。削除された箇所の前後が不自然で、紙の重なりも一度ではなかった」
「一度ではなかった?」
「差し替えの前に、仮の紙が挟まれていた。そこへ赤が入り、その赤を消すために、さらに別の紙が重なった。誰かが文章を直したのではなく、直した事実そのものを整えようとしていた」
「そのことを、久坂さんに伝えましたか」
「伝えようとしました」
「けれど?」
「編集部から、確認済みだと言われました。企画の方向性が変わった。作者本人も了承している。版下はもう戻せない。そう説明された」
「信じたんですか」
「信じたのではありません。信じたことにした」
その言葉が、紙の上へ落ちた。
私は、相馬さんを責められなかった。私も同じことをしている。誰かの説明を信じたのではなく、信じたことにして、次の作業へ進んできた。
「私は、久坂さんが抗議していたのを見ました」
「そうですか」
「机の前に立っていました。井口さんが対応していて、私は少し離れた場所にいました。久坂さんは、作者名を戻してほしいと言っていた。私は聞いていました」
「何か言いましたか」
「いいえ」
「なぜ?」
「何を言えばいいか分からなかった」
「分からなかったのではなく、言わないほうが安全だった」
私は答えを返せなかった。
相馬さんは私から目を離し、紙面へ戻った。
「安全だったでしょうね。現場は止まらず、発売日は変わらず、誰も大声を出さずに済んだ。ただ、紙の上から消えた名前だけが、行き場を失った」
「久坂さんは、退職したと聞いています」
「退職した、と記録されています」
「違うんですか」
「退職届があったかどうか、私は知りません」
初めて、相馬さんの指が紙の上で止まった。
「知らない?」
「人事の書類を見たわけではありません。ある朝、久坂さんの机が空になっていた。名刺立ても、私物の赤鉛筆もなかった。その日の午後には、担当表から名前が消えていた。誰かが説明した記憶はあります。でも、説明した人の名前は思い出せない」
「それは、退職とは言えないのでは」
「だから、記録が必要なんです」
相馬さんは古い束を閉じた。
「人は、見えなくなったものを、去ったものとして扱う癖がある。部屋からいなくなれば退職。名前が消えれば担当外。机が空けば、もう関係がない。けれど、仕事の痕跡は、本人がいなくなっても残る」
背後で、紙を揃える音がした。
三橋さんが、少し離れた机で版下を並べていた。作業前に机を拭き、紙の角を揃える。いつもと変わらない動作だったが、昨夜から彼の沈黙が気になっていた。
私は一枚の古い版下を持って、三橋さんのところへ歩いた。
「三橋さん」
彼は顔を上げなかった。
「この版下、見てもらえますか」
「見ている」
「作者名の欄が削られています」
「見れば分かる」
「削られた前の状態を、覚えていますか」
三橋さんは定規を版下の端へ当てた。紙の位置を調整しながら、しばらく黙っていた。
「覚えている」
「誰の名前でしたか」
定規が止まった。
相馬さんもこちらを見ている。佐伯さんはまだ来ていない。ユウの姿も、今日は校閲室にない。部屋の中にいるのは私たち三人だけだった。
「名前を言ってください」
三橋さんは紙から目を上げた。
「仕事の範囲外だ」
「作者名を確認することが、仕事の範囲外ですか」
「版下に入っていた文字を組む。それが仕事だ。誰の名前かを判断する仕事じゃない」
「でも、消された」
「消したのは俺じゃない」
「消した人を知っている?」
「知らない」
「見たことは?」
三橋さんの手が、版下の端を整え始めた。左から右へ、何度も同じ動作を繰り返す。怒っているときの癖だと、昨夜相馬さんから聞いたわけではないのに、そう思った。
「三橋さん」
「指示書はなかった」
「指示書がなかったことは、昨日聞きました」
「口頭だった」
「誰の指示ですか」
「言わない」
「なぜですか」
「言えば、俺も同じになる」
昨日と同じ言葉だった。
私は机の前に立ったまま、三橋さんの手元を見た。版下の右下に、細い擦れがある。現在の最終稿に残るものと似ていた。ただし、古い版下の擦れはもっと深く、木の角へぶつけたように紙の繊維が立っている。
「この傷は、差し替えのときについたものですか」
「違う」
「では、いつ?」
「組み直したあと、戻すとき」
「誰が戻したんですか」
「俺だ」
「そのとき、作者名はもう消えていた?」
三橋さんは答えなかった。
私は、紙をめくる音のない部屋で、彼の沈黙を聞いた。空調の低い唸り。遠くの廊下を通る台車の車輪。窓の向こうで信号が変わったことを知らせる、かすかな電子音。
「三橋さん。あなたは、何を見たんですか」
「見たものは、版下に残っている」
「人の名前は?」
「残っていない」
「消されたから?」
「消したからだ」
「誰が」
「名前を消す必要があると思った人間だ」
「それでは、答えになっていません」
「工程の答えは、いつも人の答えとは違う」
三橋さんは定規を置いた。
「誰が消したかを言えば、俺はその人間の側に立つことになる。言わなければ、消された側の側にも立てない。俺は、版下を仕上げた。仕上げた以上、俺の手にも責任は残る。だから、他人の責任まで口で引き受けるつもりはない」
「口で引き受けるのではなく、見たことを言ってほしいんです」
「見たことを言うだけで、誰かの生活が壊れる」
「壊れた生活を、黙ることで綺麗に見せることはできません」
三橋さんの目が、初めて私を正面から捉えた。
「それを、今になって言うのか」
声は低かった。怒鳴っていないのに、紙の端で指を切ったような痛みがあった。
「今だから言います」
「昨日までは?」
「昨日までは、まだ自分が被害者だと思っていました。脅迫文を入れられた側だと。けれど、私も同じ紙を見て、同じように黙っていた。何かを消す指示に従って、何かを見なかったことにして、後から作品を守ったと言っていた」
「作品は守られた」
「誰かの名前を失わせてまで?」
「名前が残れば、作品が出なかったかもしれない」
「だから消した?」
「出すためには、消すしかないこともある」
「それは編集ですか」
三橋さんは、すぐに答えなかった。
相馬さんが静かに言った。
「三橋さん、その言い方は久坂さんが一番嫌っていたものです」
彼の眉がわずかに動いた。
「久坂は、名前を残せと言った」
「知っていたんですか」
「版下を戻したとき、あいつはここにいた」
三橋さんは、古い版下の左端を押さえた。
「作者名を消した版下を見て、久坂は何度も聞いた。誰の指示か。誰が責任を取るのか。俺は工程が止まるから、答えなかった」
「そのとき、何があったんですか」
「何もない」
「何もないはずがありません」
「怒鳴ったわけでもない。机を叩いたわけでもない。ただ、久坂は版下の余白を見ていた。名前があった場所を、ずっと。最後に、俺へ言った」
三橋さんはそこで口を閉じた。
「何と言ったんですか」
「覚えている」
「なら、言ってください」
三橋さんは、古い版下の作者名が消えた欄を見つめた。
「ここにないものは、なくなったわけじゃない。見えない場所へ移っただけだ、と」
相馬さんが眼鏡をかけ直した。
私は、脅迫文の朱を思い出した。
――次は、あなたの名前を消す。
それは、私を脅す言葉ではなかったのかもしれない。名前が消される感覚を知る者が、消す側にいた人間へ向けた、順番の知らせ。いずれ同じ場所へ立たせるという予告。あるいは、消された名前を、もう一度見える場所へ戻すための合図。
「久坂さんは、その後どうなったんですか」
「知らない」
「本当に?」
「退職したと聞いた」
「誰から?」
三橋さんは、返事をしなかった。
その沈黙は、昨夜のものと違っていた。隠すための沈黙ではない。言えば、もう元の位置へ戻せなくなると知っている人間の沈黙だった。
私は、机の上の古い版下へ目を落とした。
作者名を削った跡の下に、かすかな文字が浮いている。完全には消えていない。紙を削ったあと、上から白い紙を貼ったため、その境目に圧痕が残っている。
私は顔を近づけた。
相馬さんが止めなかった。
薄い光の中で、文字の一部が浮かび上がった。
「久……」
そこまでしか読めない。
その下には、別の文字が重なっていた。朱の線で押しつぶされ、紙の繊維へ沈んでいる。
「……坂」
私は息を止めた。
三橋さんは、その文字を見ないように顔を背けた。だが、見ないことは、もう消すことと同じではなかった。
相馬さんが古い束の中から、別の一枚を取り出した。作者名の欄ではなく、本文の途中にあるページだった。そこには、赤字の訂正がいくつも入っている。削除、移動、差し替え。通常の校正記号に見える朱の列を、相馬さんは指で追った。
「この赤字、現在の脅迫文と同じ順番です」
「同じ?」
「削除、移動、戻し。普通の校正では、戻しの記号は最後に来ません。直した箇所を確認してから、必要なら使う。けれど、この原稿では、消したあとに戻せという指示が残っている」
「誰が入れたんですか」
「分かりません」
「でも、脅迫文を書いた人間は、この束を知っている」
「その可能性は高いでしょう」
「久坂さんが書いた?」
相馬さんは答えなかった。
紙の上には、朱の線が並んでいた。整っている。整いすぎている。まるで誰かが、何年もかけて同じ手順を練習してきたように。
私は窓の外を見た。灰色の空の下を、人が傘を持たずに歩いている。雨は降っていない。それでも誰も、空を信じていない歩き方をしていた。いつ降ってもおかしくないものを、頭上に抱えたまま進んでいる。
「相馬さん」
「はい」
「この古い原稿を、どうして保管棚の奥に置いたんですか」
「私が置いたわけではありません」
「でも、ここにある」
「保管記録には?」
「ありません」
私は棚の側面へ回った。古いラベルの剥がし跡があり、その下に新しい紙片が貼られている。紙片は白く、端だけが少し浮いていた。
相馬さんがルーペを受け取り、ラベルを確認する。
「この紙、昨日貼られたものではありません」
「分かるんですか」
「粘着剤が変色しています。少なくとも数年は経っている」
「では、ずっとここに?」
「記録から消えたまま、残っていた」
その言葉の意味を、私はすぐには掴めなかった。
記録から消えたものが、紙の束として残っている。名義を消された原稿が、保管棚の奥にある。退職したことにされた編集者の名刺が、誰かの手によって戻される。
消すことは、なくすことではない。
見えない場所へ移すことだ。
私は古い束を見つめた。脅迫文の朱に触れず、削られた作者名にも触れず、ただ紙の上に残された凹凸を目で追う。
そのとき、校閲室の外で、短い足音が止まった。
誰かが扉の前に立っている。
相馬さんと三橋さんは、同時にそちらを見た。私は反射的に朱筆へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
扉は開かなかった。
代わりに、下の隙間から一枚の紙が差し込まれた。
白い紙だった。文字はない。
紙の中央に、朱の校正記号がひとつだけある。削除を示す線。その先端は、保管棚ではなく、私の机を指していた。
私は立ち上がった。
紙を拾おうとしたが、相馬さんが先に低く言った。
「記録してからです」
私は手を止めた。
扉の向こうに誰がいるのか、分からない。足音はもう聞こえなかった。廊下の空気だけが、紙の隙間から細く流れ込んでくる。
私は新品のノートを開き、時刻を書いた。
次に、紙の位置。厚み。朱の色。線の長さ。
それから、誰がこの部屋にいたかを記した。
相馬冬子。
三橋修。
橘綾乃。
名前を並べているうちに、胸の奥が重くなった。記録するということは、誰かを疑うためだけではない。自分もまた、紙の上に残るということだ。見た者として。触れた者として。かつて黙った者として。
相馬さんが、紙の先端を見つめた。
「この記号は、脅迫ではありません」
「では、何ですか」
「指示です」
「何を消せと?」
相馬さんは、私の机の上にある最終稿と、保管棚の古い没原稿を交互に見た。
「たぶん、逆です」
彼女は静かに言った。
「何を消したのか、もう一度見ろという指示でしょう」
私は紙を拾わなかった。
触れずに見ることが、これほど難しいとは思わなかった。指先はいつでも、確かめるという名目で、紙を自分の側へ引き寄せようとする。だが、紙は誰かの手に渡るたび、別の意味を帯びてしまう。
私は机の上の古い名刺入れを思い出した。
引き出しの奥にしまったまま、返さなかった名刺。捨てなかったことで、私は自分が忘れていないつもりになっていた。けれど、残しておくことと、向き合うことは違う。
校閲室の空調が、低く唸った。
紙の隙間から流れた風が、扉の下の白い紙をわずかに揺らす。朱の線が、光の中で細く震えていた。
誰かが、保管棚の奥から過去を引き出した。
次に消されるのは、名前なのか。
それとも、名前を消した側の言い訳なのか。
私はノートの余白へ、もう一度、久坂慎一と書いた。
今度は、その下に続けて記した。
――作者名、未確認。責任の所在、未確認。目撃者、複数。
書き終えたところで、私は初めて、書いた文字を消したくないと思った。
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