第3話 触れられた原稿

ドアノブがゆっくり下がった。
私は机の端に置いた手を引かなかった。紙束の角を押さえたまま、扉だけを見ていた。相馬さんは透明なファイルの上に手を置き、佐伯は入口の脇へ半歩ずれて立っている。ユウは原稿を抱えたまま、窓際の椅子から動かなかった。
扉が開いた。
「失礼します」
片岡美砂だった。
片岡さんは、いつも肩から細い革の鞄を下げている。今日もその鞄を左脇に寄せ、右手には校正刷りの束を持っていた。廊下の白い光が背中から差し込み、彼女の顔を一瞬だけ平らに照らした。
片岡さんは室内の全員を見たあと、視線を紙束へ落とした。
「まだ、こちらでしたか」
「脅迫文が見つかりました」
佐伯が言った。
片岡さんの指が、持っていた校正刷りの端で止まった。ほんの一瞬だった。それから彼女は、紙束を胸元へ引き寄せるように抱え直した。
「……どのページですか」
「見たいんですか」
「見たくない校正者はいません。見たくないという理由で、確認を避けることもできません」
片岡さんはそう言った。声は低く、動揺を押し隠すために平らにされていた。
私は彼女の鞄を見た。中には、朱筆、鉛筆削り、付箋の束、薄い紙の種類見本が入っているはずだった。片岡さんは原稿を受け取る前に、必ず紙の匂いを嗅ぐ。けれど今は、その仕草をしなかった。
「脅迫文を書いたのは、片岡さんではありませんね」
相馬さんが訊いた。
「私ではありません」
「ずいぶん早いですね」
佐伯が言う。
「私の赤字なら、もっと行間が狭くなります」
片岡さんは校正刷りを机に置いた。付箋の端はきれいに揃っている。だが、三枚目の付箋だけが、ほんの少し本文側へ傾いていた。
片岡さんはそれに気づいたらしく、指先で直そうとした。
「触らないでください」
佐伯の声が飛んだ。
片岡さんの指が止まる。彼女は反論せず、手を引いた。そのまま、付箋を見つめる。
「……すみません」
「いま、直そうとしましたね」
「曲がっていたので」
「曲がっているものは、すぐ直すんですか」
「仕事では」
「仕事ではなくても?」
片岡さんは答えなかった。
その沈黙は、ユウのものとは違っていた。ユウの沈黙には、近づかせないための硬さがある。片岡さんの沈黙には、見たものを自分の中でどう扱うか迷う人の重さがあった。
相馬さんが脅迫文のページをファイル越しに示した。
「この朱を、どう見ますか」
片岡さんは一歩近づいた。だが、紙には触れない。蛍光灯の光を受けた朱が、彼女の瞳の中で細く揺れた。
「校正記号を知っている人が、校正記号を信用していない書き方です」
「どういう意味ですか」
佐伯が訊いた。
「記号は、読む人間に誤解されないためのものです。削除なら削除、移動なら移動。書き手の感情が見えすぎる線は、仕事の記号として失敗しています。これは、わざと失敗させている」
「わざと?」
「読める人間には読めるようにして、読めない人間にはただの赤字に見せるためです」
片岡さんはそこで言葉を切り、脅迫文の下にある余白を見た。
「それから、ここ」
「何かありますか」
「書いたあと、ペン先を止めています。朱が一点だけ濃い。普通の校正なら、線を引き終えたら筆を浮かせる。これは、最後の一画を置いたあと、しばらく動かなかった跡です」
私は、前日に見つけた朱の点を思い出した。
脅迫文の下にあった、小さな沈み。校正記号にも句読点にも見えなかった点。誰かが文章を書き終えたあと、ペン先を止めた跡。
「片岡さん」
私は言った。
「その止まった時間は、何を意味すると思いますか」
「知りません」
「考えたことは?」
「あります」
片岡さんは鞄の留め具へ視線を落とした。革が擦れる音がした。
「書き手が迷ったのかもしれません。書き終えてから、相手に読ませるかどうか迷った。あるいは、もう一行続けようとして、やめた」
「脅迫文の続きがあった、と?」
「紙に残っていないことまでは言えません。ただ、書き手が伝えたいことを、あの一文だけで終えていない可能性はあります」
ユウが初めて片岡さんを見た。
「余計なことを書かない人間もいます」
「ええ」
片岡さんはユウへ顔を向けた。
「だから、あれは脅しというより、合図に近いと思います」
室内の空気が変わった。
私はファイルの中の朱を見た。――次は、あなたの名前を消す。脅しとして読めば、私への攻撃だ。けれど、合図として読めば、次に何かが起きるという予告になる。
「何の合図ですか」
佐伯が訊いた。
「私には分かりません。ただ、書いた人は、この文章が誰に向けられたものかを知っている。橘さん個人に見せかけて、別の誰かにも読ませようとしているように見えます」
「別の誰か?」
「担当編集者に書けば、編集部の人間は必ず見ます。校閲者も、組版担当も、作家も。紙は一人のために使われても、紙の上に残ったものは一人のものではありません」
片岡さんの言葉は、校閲室の中央へ静かに置かれた。
ユウが原稿を抱え直した。ページの端がかすかに鳴る。
「この原稿は、私のものです」
「はい」
「なら、私にだけ見せればいい」
「それでは、あなたが知らないうちに削られたものを、あなた一人で確認することになります」
片岡さんの声に、初めて熱が混じった。
「外注の校正者は、決定権を持ちません。朱を入れても、採用するかどうかは編集部が決める。何を残して何を消すかを、最後に決める人間は別にいる。だからこそ、私は見た範囲を曖昧にしたくないんです。私が見たのに、見なかったことにしたら、それは校正ではなく、ただの加担になる」
ユウは黙った。
彼の指先が、原稿の端から離れた。けれど、すぐにまた紙を押さえた。その動きは、片岡さんの言葉を拒んでいるのか、受け止めようとしているのか、私には判断できなかった。
相馬さんが片岡さんの校正刷りを開いた。
「この付箋の貼り方は、あなたのものですね」
「はい」
「では、このページの付箋は?」
脅迫文のあるページに残された付箋を示す。
片岡さんは目を細めた。
「私ではありません」
「理由を」
「私は粘着面の端を一度だけ撫でてから貼ります。紙へ置くとき、付箋の中央からではなく、右端を先に接地させる。ここは左端から押しつけられている」
彼女はファイルへ顔を近づけた。
「それに、付箋の下の紙粉が片側へ寄っています。誰かが貼ってから剥がし、戻した。私なら剥がすとき、付箋を横へ滑らせません」
「誰ならそうするんですか」
佐伯が訊いた。
「分かりません。ただ、付箋を扱い慣れている人です。貼ったことのない人間なら、もっと紙を傷める」
相馬さんが片岡さんを見た。
「外から入った人間ではない、と?」
「外注の人間も、紙を扱う仕事をしています」
「でも、あなたは違う」
「私が犯人だと疑われていますか」
「疑いは、紙が晴らします。人間は後です」
相馬さんの言い方は穏やかだったが、逃げ道はなかった。
そのとき、廊下から別の足音が聞こえた。今度は早い。靴底が床へ触れるたび、乾いた音が三階の廊下を跳ねた。
三橋さんだった。
彼は入口で立ち止まり、校閲室の全員を見たあと、持っていた版下を机へ置いた。置く前に、机の表面を一度だけ手で拭った。いつもの癖だ。
「呼ばれた」
「版下を見せてください」
佐伯が言った。
三橋さんは返事をせず、版下を差し出した。相馬さんが受け取り、脅迫文のあるページと重ねる。
「このページは、三橋さんの工程を通っていますね」
「通っている」
「その時点で、脅迫文はありましたか」
三橋さんの目が、ほんの少しだけ動いた。
「なかった」
「断言できますか」
「版下にないものは、ない」
短い言葉だった。
佐伯が版下の端を持ち上げた。
「版下と最終稿の間に、紙一枚分の厚みがあります。これは普通ですか」
「普通じゃない」
「何が挟まった?」
「付箋か、薄い紙」
「誰かが挟んだ?」
三橋さんは答えず、版下の右下を指で押さえた。そこには、肉眼では見えないほど細い擦れがあった。
「ここを一度、台車の縁に当てている」
私は身を乗り出した。
「台車は、最終稿を運んだときのものですか」
「違う。台車の縁なら、擦れはもっと横に出る。これは机の角」
「校閲室の机ですか」
「制作部の机じゃない」
「どうして分かるんですか」
三橋さんは版下を裏返した。
「制作部の机は、角にゴムを貼っている。紙が傷つかないように。これは木の角だ」
佐伯が室内を見渡した。校閲室の机は、どれも古い木製だった。何年も使われた天板の角には、塗装の剥がれがある。
「この部屋のどこかで、版下が角に当たった」
「そうなる」
「誰かが、急いで戻した?」
三橋さんは少し黙った。
「急いだかどうかは、紙には残らない」
「残らない?」
「角を当てたことは残る。急いだかどうかは、人間があとからつける意味だ」
その言葉に、相馬さんが小さく頷いた。
「三橋さんらしい答えですね」
「工程のことしか分からない」
「久坂さんのころにも、工程外の差し替えはありましたか」
私の口から、名前が出た。
三橋さんの手が止まった。
それまで、彼は版下の隅を何度も整えていた。けれど、久坂の名を聞いた瞬間、その手が紙の上から離れた。
佐伯が私を見る。
「久坂さんとは?」
しまったと思った。だが、もう戻せなかった。
「以前、鳳文社にいた編集者です。数年前に退職しています」
「今回の件と関係が?」
「まだ分かりません」
「分からない名前を、いま出した理由は?」
私は一度、息を止めた。口の中に、朱インクのような苦い味が広がった気がした。
「脅迫文を見たときから、昔の改ざんを思い出していました。そのとき、久坂さんが担当していた企画の原稿が、出版直前に大きく差し替えられた。名義も責任の所在も、曖昧なまま処理されたんです」
「あなたは関わっていた」
「はい」
「何をしたんですか」
佐伯の声は低かった。責めるためではなく、紙の重さを確かめるような声だった。
「差し替え後の原稿を、版下と照合しました。おかしい箇所はありました。でも、私は校了を止めなかった」
「なぜ」
「作品を出すためです」
「それは理由ですか」
「当時の私には、理由でした」
言葉が一度出ると、あとは止めにくかった。
「企画は、もう発売日が決まっていました。関係者も動いていて、原稿を戻せばすべてが止まる。井口さんは、現場が崩れると言った。上からは、差し替えは決定事項だと伝えられた。私は、決まったことに従いました。久坂さんが抗議していたのも知っています。名義が変わることも、責任だけが彼に残ることも、見ていました」
「それでも黙った」
「はい」
私の返事は、思っていたより簡単に出た。
簡単に出たことが、いちばん苦しかった。
三橋さんが版下を見たまま言った。
「あのとき、組版は一度戻った」
「戻った?」
「差し替えの指示書がなかった。口頭だった」
「誰の指示ですか」
「言わない」
「なぜですか」
「言ったら、俺も同じになる」
それきり、三橋さんは口を閉じた。
佐伯が目を細める。
「同じ、というのは?」
三橋さんは答えなかった。代わりに、版下の左端を指で平らにした。紙面の傷を撫でているように見えた。
ユウが窓際から言った。
「名前を消したのは、久坂さんだけではないんですね」
誰もすぐに返事をしなかった。
ユウは原稿を抱えたまま、私を見た。疑っている。だが、その疑いは私個人に向けられているのではない。私が所属している場所そのものへ向けられている。
「霧島さん」
私は言った。
「この件と、あなたの過去が繋がっている可能性があります」
「分かっています」
「知っていたんですか」
「知っているというより、似た傷を見たことがある」
ユウは原稿の表紙を撫でた。紙の表面を確かめるような、ほとんど触れているだけの手つきだった。
「僕の初期原稿にも、消された一節があります。担当が変わる前のものです。文章としては残っていない。でも、前後の呼吸が不自然だった。そこだけ、誰かが文章を抜いて、別の文章を押し込んでいる」
「その一節は、何について書かれていたんですか」
「覚えていません」
「本当に?」
「忘れたのではありません。思い出すと、誰かの名前が一緒に出てくる気がする。だから、思い出さないようにしている」
ユウの声は平らだった。だが、原稿を抱える腕に力が入っている。
「名前を伏せることは、作品を守ることだと思っていました」
ユウは続けた。
「僕が表に出なければ、文章だけが読まれる。そうすれば、誰かが僕の事情を利用して作品を変えることもない。けれど、名前を伏せたままでは、誰かがその名前を代わりに使える。僕の沈黙を、同意として扱える」
私は何も言えなかった。
「あなたも、そうしたんですか」
ユウが訊いた。
「私が?」
「僕の沈黙を、都合のいい了承として扱ったことはありませんか」
胸の奥で、古い紙が折れた。
「あります」
私は答えた。
「霧島さんが何も言わないから、任せてもらえていると思った。反対されていないから、守れていると思った。でも、違った。私は、あなたが言わないことを利用して、判断の責任を軽くしていた」
「いまも?」
「いまは、まだ分かりません」
「その言い方が、いちばん怖い」
ユウはそう言って、原稿の束を机へ置いた。置いたというより、ようやく自分の手だけでは支えきれなくなったものを、他人の目の前へ預けたように見えた。
相馬さんが、脅迫文のページをファイル越しに見つめている。
「この朱は、脅迫文だけではありません」
「どういうことですか」
佐伯が訊いた。
「このページの下に、消された文字の圧痕があります」
相馬さんは紙を斜めに傾けた。蛍光灯の光が、余白の奥に細い凹凸を浮かび上がらせる。
「朱で書かれる前に、別の紙が重なっていた。上から強く書かれた文字が、下のページへ移っている」
「読めますか」
「まだです」
相馬さんは眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。それから、同じ行を二度、目でなぞった。
「ただ、これは脅迫文を書くために置かれた紙ではない。脅迫文を書く前から、別の原稿が重ねられていた」
「別の原稿?」
私は声を落とした。
相馬さんは答えず、保管棚のほうを見た。
棚の奥には、昨日から動かしていない古い校正刷りがある。封の切られた封筒。埃の薄い跡。紙の角だけが、周囲よりわずかに新しい。
私はそこへ歩いた。
一歩進むたび、床板が小さく鳴った。窓の外では、神田の夕方が夜へ沈みはじめている。車のライトが二重窓に流れ、白い筋になって消えた。校閲室へ戻る道は数歩しかないのに、過去へ向かって歩いているような気がした。
保管棚の前で、私は封筒に手を伸ばした。
「橘さん」
佐伯が呼んだ。
「触る前に、記録してください」
私は手を止めた。
少し前なら、先に中身を確かめていた。見つけたものを、急いで自分の判断の中へ取り込もうとしただろう。だが、私は鞄から新品のノートを取り出し、時刻と位置を書いた。封筒の幅、紙粉の付着、棚板の傷。行間まで確認する癖が、いまは逃げではなく、記録のために使える。
相馬さんが私の横へ来た。
「開けます」
「私が開けます」
「なぜですか」
「担当だからです」
「担当であることは、触る理由にはなります。でも、最初に触る人間である理由にはならない」
相馬さんは、私の手元を見た。
「橘さん。あなたはもう、作品を守るために最初に触る必要はありません。触った者が名乗る仕組みを作るほうが先です」
その言葉は厳しかった。けれど、見捨てる厳しさではなかった。仕事上の敬意が、慰めより深く胸に入ってくる。
私は手を引いた。
「お願いします」
相馬さんは封筒を撮影し、佐伯が時刻を読み上げた。片岡さんは少し離れた場所で、鞄の中の付箋を一枚ずつ並べている。三橋さんは版下の端を揃えたまま、こちらを見ていた。ユウは窓際で、数え終えたはずの原稿をまた最初から数え直している。
誰もが、自分の手を自分から切り離そうとしていた。
相馬さんが封筒を開いた。
中から出てきたのは、古い校正刷りの束だった。表紙には企画名だけが残り、作者名の欄は不自然に白く削られている。紙の端に、朱の小さな点がひとつあった。
その点を見た瞬間、私は思い出した。
若かった私が、久坂さんの机の前で立ち尽くしていた夜。井口さんが「これはもう、終わったことだから」と言い、私は手にしていた名刺を引き出しへ戻した。そこに書かれていた名前が、久坂慎一だった。
私は名刺を捨てなかった。
けれど、返しもしなかった。
封筒の底から、折れた名刺が一枚滑り落ちた。
表には、鳳文社の古い社章。裏には朱で、校正記号のような線が引かれている。線の先は、ひとつの文字を示していた。
久坂。
佐伯が名刺を拾おうとした。私は先に止めた。
「そのままにしてください」
「理由は?」
「まだ、誰の手の跡が残っているか分からない」
佐伯は頷き、手帳へ新しいページを開いた。
ユウが窓際からこちらを見ている。相馬さんは名刺の裏を覗き込み、片岡さんは朱の色を確かめるため、わずかに身をかがめていた。
誰も名前を口にしなかった。
それでも、校閲室の中には、消されたはずの名前が戻っていた。
紙をめくる音がした。
ユウがまた、原稿のページを数え始めたのだ。
一枚、また一枚。
その音は、脅迫文を書いた人間が次の言葉を待っている音にも、私たちが失った順番を取り戻そうとする音にも聞こえた。
私は朱筆を手に取らなかった。
代わりに、新しいノートの余白へ、久坂慎一という名前を書いた。
まだ、何も分かっていない。
けれど今度は、その名前を消さないことから始めるしかなかった。
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