第2話 所轄の足音

佐伯慎吾が校閲室に入ってきたとき、最初に見たのは人ではなく、机の上の紙の山だった。

扉が開いた音に、私は顔を上げた。廊下から流れ込んだ空気は、室内の乾いた温度に触れた途端、薄くほどけた。佐伯は敷居のところで一度立ち止まり、紙束の高さ、複写機の横に置かれた返本、床に落ちた付箋の切れ端を順に見た。警察手帳を出すより先に、足元を確かめる。誰かが慌てて動かしたものがないか、という見方だった。

黒い革靴の先が、床の付箋から数センチのところで止まった。

「これ、踏んでも問題ないものですか」

「付箋自体は。ただ、位置を変えられると困ります」

「では、動かさないでおきます」

佐伯はそう言い、付箋を拾わずに私を見た。四十歳には届かないくらいに見えるが、目の周りには、眠りの浅い人特有の細い線があった。手帳を開く動作は事務的だったが、ペン先は急がなかった。

校閲室には、私と霧島ユウしかいなかった。ユウは窓際の椅子に座り、膝の上で原稿束を抱えている。自分のものを守るというより、他人の手から隠すような抱え方だった。

「脅迫文が見つかったのは、何時ですか」

「十七時四十二分です」

「確認した時刻ではなく、最初に目に入った時刻を」

「同じです。最終稿と版下の照合を終え、朱筆を置こうとしたときでした」

佐伯は私の返事を書き留めた。紙をめくる音が、室内に妙に大きく響いた。私は、彼がページをめくるたびに、手帳の紙質まで見ていることに気づいた。薄い罫線入りのものではない。角の立った、少し硬い紙だった。

「最終稿は、いつ編集部から届きましたか」

「今日の十時十五分です。私が編集部の棚から持ってきました」

「棚から出したのは、橘さんご本人ですか」

「はい」

「その前に、誰かが棚から出した可能性は」

「ありません。少なくとも、回送票の時間と私の記憶では」

「記憶では、というのは?」

私は一度、唇を閉じた。焦るほど声が低くなるのは、自分でも知っている。いまも、言葉を整えようとするほど、声が硬くなっていく。

「午前中は編集部の会議がありました。棚の前を通った人間は複数います。ただ、原稿は封筒に入っていて、受領印が押されるまでは誰も触れない決まりです」

「決まりと、実際に触らなかったことは同じですか」

佐伯は責める調子ではなかった。だからこそ、逃げ道がなかった。

「同じではありません」

「では、確認します。封筒を開けたのは橘さん。中身を校閲室へ運んだのも橘さん。そこから、誰が触りましたか」

「私、校閲班の片岡さん、組版の三橋さん。それから、私の立ち会いで相馬さんが一部を確認しています」

「霧島さんは?」

佐伯の視線が、窓際へ向いた。

ユウはすぐに答えなかった。膝の上の原稿の端を、親指で一度押さえた。紙が擦れ、かすかな音を立てた。

「私は、今日の午後に一度だけ」

声は低く、性別を決めさせない響きを持っていた。

「何時ごろですか」

「十五時前後です」

「原稿に触れましたか」

「触れました。ただし、脅迫文のあるページには触れていません」

「見たのですか」

「見ていません」

「見ていないのに、触れていないと分かる?」

ユウの指が、原稿の端で止まった。

「枚数を数えました。紙の匂いも、重なり方も、受け取ったときから変わっていた。ですが、そのページは開いていない」

「紙の匂いで、そこまで分かるものですか」

「紙は、触った人間の手より、触られた時間を残します」

佐伯は返事をせず、手帳の端を指で押さえた。分からない言葉を分からないまま流さない人の顔だった。

「私には、まだ意味が分かりません。ですが、分からないからといって聞かなかったことにはしません。脅迫文が書かれた紙に、誰が、いつ、どう触れたか。それが分からない限り、犯人を探す話には進めない」

「犯人、と決めていいんですか」

私が言うと、佐伯は視線を戻した。

「脅迫文です。少なくとも、誰かに恐怖を与える目的で書かれている。悪戯かどうかは、書いた側が決めることではありません」

その言葉に、胸の奥がかすかに軋んだ。

鳳文社では、問題を問題と呼ばないための言い方がいくつもあった。修正、整理、調整、差し替え。誰かの名前を消しても、文章を変えても、呼び方を変えれば作業の一部になる。私はその便利さを知りすぎていた。

「橘さん」

「はい」

「最初に脅迫文を見つけたとき、紙のほかに何か気づきましたか」

「朱の線が硬かった。校正記号に似せていますが、普段の赤字とは違う。紙肌も荒れていました」

「筆跡は」

「断定できません。ただ、校閲の仕事を知っている人間だと思いました」

「社内の人間だと?」

「まだ、そうとは」

「では、社外の人間が、社内の人間に見せかけた可能性もある」

「あります。ただ、原稿に触れられる時間と場所は限られています」

「限られているのに、誰が触ったか分からない」

「出版の工程は、そういうものです」

「工程という言葉で隠れる人がいる、ということですか」

佐伯の声は淡々としていたが、その問いだけが紙面に残る朱のように濃かった。

私はすぐに答えられなかった。誰もが触れる。けれど、触れた者を記録する仕組みは、紙束が次の机へ移るたびに薄くなる。担当者の名前は回送票に残る。だが、机へ置いた手、ページをめくった指、付箋の位置を直した癖までは残らない。

残らないはずだった。

校閲室の奥で、椅子を引く音がした。

相馬冬子が入ってきた。いつから廊下にいたのか分からない。彼女は私たちに挨拶をせず、まず机の端を指先でなぞった。机上の紙粉を確かめるような仕草だった。それから私の前まで来て、手を差し出した。

「原稿を」

「脅迫文のページは、まだ――」

「だからです」

相馬さんの声は穏やかだった。穏やかなまま、拒む余地を残さない。

私は紙束を渡した。相馬さんは表紙をめくらず、まず束の下辺を見た。次に左上の角を指で押さえ、紙の重なりを確かめる。何枚かを少しだけ持ち上げ、空気の入り方を見た。

「相馬さん、何を確認しているんですか」

佐伯が尋ねた。

「記録です」

「書類ではなく?」

「書類は、人が書いたものですから。紙のほうが正確なことがあります」

相馬さんはそう言って、脅迫文のあるページを開いた。朱の線には触れず、紙を斜めに傾ける。蛍光灯の白い光が、インクの表面を細く撫でた。

「橘さん。ここ、昨日の夕方に見たときからありましたか」

「最初に見たのが今日です」

「そうではなく、昨日の夕方の状態と比べて」

「昨日、このページは私が一度確認しています。脅迫文はありませんでした」

「ページそのものを見た?」

「はい。右下の余白も」

「なら、後から入っています」

佐伯が手帳から顔を上げた。

「根拠は」

「朱の乾き方と、紙の押され方です。書き込みだけなら、紙はここまで沈みません。書いた人間は、線を引く前に紙を押さえています。しかも、左手で束を戻しながら、右手で書いた」

「どうして左手だと?」

「右下の余白だけが潰れているのに、上のページにはずれがないからです。右手で書く人間が、左手で束全体を押さえた。書き終えてから、ページを一度だけ戻している」

「それが、外部からの侵入ではない理由になりますか」

「外部の人間でも、可能です。ただし、校正記号を偽装し、ページを戻したあとに付箋の位置まで整えられる人間は、工程を知っている。少なくとも、紙をどう扱えば異物に見えないかを知っている」

相馬さんは付箋を一枚、端だけ持ち上げた。

そこには、昨日見た三ミリのずれがあった。相馬さんはそれを直さず、むしろずれたままの状態を佐伯に示した。

「この付箋、貼った人は几帳面です」

「ずれているのに?」

「ずれているからです。雑に貼ったのではありません。いったん剥がして、元の位置へ戻そうとして三ミリ外した。粘着面の端だけが二度、紙に触れている」

佐伯が身を乗り出した。

「貼った人間の癖は?」

「この位置に貼る人は、ページの右端を基準にします。片岡さんは本文の行頭を基準にする。私は左下の角。三橋さんは付箋を使わない。井口さんは、付箋を貼ったあと必ず文字の上を避ける。ここに貼った人は、急いでいたのに、乱れて見えるのを嫌がった」

名前が、紙の上にひとつずつ置かれていく。

片岡。三橋。井口。私自身の名前も、その列に混ざっている。

「相馬さん」

私は低く呼んだ。

「はい」

「社内の手つきだと、断定できますか」

「断定はしません」

彼女は朱筆のペン先を拭い、机の上へ戻した。布に朱が薄く移る。乾いたインクの匂いが、一瞬だけ濃くなった。

「ただし、外から来たと考える理由もありません。紙は、誰かが触れた順番を残しています。順番を無視して、悪意だけを見てはいけない」

「つまり、誰かがこの室内で原稿に触れた」

「ええ。しかも、触ったことを隠すつもりで、丁寧に戻した」

その言葉に、佐伯は立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、静寂に細い傷をつけた。

彼は出入口まで歩き、校閲室の中を振り返った。複写機、保管棚、編集部へ続く連絡口、版下を置く台車。歩くたび、革靴の底が床を小さく叩く。その足音は、紙の上に残された見えない線を辿っているようだった。

「この部屋に入れる人間を、全員出してください」

「いま、ですか」

「いまです。顔を見れば分かるとは思っていません。ですが、誰がどこに立つかは見たい」

「編集部を止めることになります」

「原稿を止めるのと、現場を止めるのは違います」

私は思わず佐伯を見た。

「この件で出版が遅れれば、霧島ユウの作品そのものが傷つきます。社内では、脅迫文が入った原稿をそのまま扱ったことになる。だから、なるべく外へ広げずに――」

「橘さん」

佐伯の声が、初めて少しだけ強くなった。

「作品を守るために、事実を狭い部屋へ閉じ込めるのは、守ることとは違います。私は出版の工程を知りません。校正記号も、版下も、付箋の貼り方も、まだ分からない。だからこそ、分からないものを分かったふりして、誰か一人の責任にするつもりはないんです」

彼は手帳を閉じた。

「ただ、ここにいる人たちが全員、沈黙の使い方を知っていることだけは分かります」

室内の空調が低く唸った。

ユウが窓際から立ち上がった。原稿束を抱えたまま、佐伯を見る。

「沈黙を疑うんですか」

「疑います」

「話さない人間が、必ず何かを隠しているとは限らない」

「その通りです。話せない人間もいる。話さないと決めた人間もいる。ですが、捜査では、その違いを最初から善意で分けません」

ユウは、ほんの少しだけ原稿を抱く腕に力を込めた。

「それで、作品が汚れる」

「もう汚れています」

佐伯は脅迫文のあるページを見た。

「赤い文字が入ったからではありません。誰が触ったか分からないまま、紙が次の工程へ進もうとしていた。その状態を、綺麗に収めることはできない」

ユウの表情は変わらなかった。だが、原稿を抱えていた腕がゆっくり下がった。

私はその動きを見ていた。ユウが佐伯に信頼を預けたわけではない。ただ、これ以上、自分ひとりの手で作品を囲い込むことができないと認めたのだと思う。

相馬さんが、机の上の紙束を左下の角から揃え直した。

「佐伯さん」

「はい」

「人を呼ぶ前に、これを封じたほうがいいでしょう」

「何をですか」

「原稿の流れです。誰かを疑うなら、次に触られる前に、触れられない状態を作る」

相馬さんは保管棚から透明なファイルを取り出し、脅迫文のページを一枚だけ抜いた。手袋は使わなかった。紙に新しい傷をつけないよう、端の余白だけをつまむ。

「記録を残します。現状、時刻、位置、紙の状態。誰かがあとから見れば、私たちが何を見ていたか分かるように」

「それは証拠保全ですか」

「校閲です」

相馬さんは淡々と言った。

「校閲は、正しい文章を作るためだけの仕事ではありません。何が正しくないのかを、後からでも辿れるように残す仕事です」

私は、その言葉を聞きながら、机の上の朱筆を見た。

これまで私は、紙面を整えることを責任だと思っていた。乱れをなくし、余計なものを取り除き、決められた時間までに形を作る。そのためなら、説明のつかない違和感を端へ寄せることもあった。端へ寄せたものは、いつか誰かの名前になる。そんなことを、私は知っていたはずだった。

「私が、入室者の一覧を作ります」

声が出た。

佐伯がこちらを見る。

「誰に聞けばいいですか」

「守衛記録と、編集部の回送票。校閲室の内線履歴も確認します。今日の午後、私が見落とした移動があったかもしれない」

「見落とした?」

「覚えていない、という意味です」

言い直すと、喉の奥が乾いた。

「覚えていないことを、なかったことにはしません」

佐伯はしばらく私を見ていた。やがて、手帳に何かを書きつける。

「では、最初からやり直しましょう。原稿がここへ来たときから」

私は頷いた。

相馬さんが脅迫文のページをファイルに収め、ユウがその横で原稿の枚数を数え始めた。佐伯は校閲室の出入口に立ったまま、誰もいない廊下へ耳を澄ませている。

そのとき、遠くから足音が近づいてきた。

ひとつ、ふたつ。一定の間隔で、三階の廊下を歩いてくる音だった。

私たちは一斉に扉を見た。

足音は扉の前で止まった。だが、すぐには開かなかった。

室内の誰かが息を止めた。私も目を閉じずに、一度だけ息を止めた。

扉の向こうで、紙を擦るような音がした。

次の瞬間、ドアノブがゆっくり下がった。

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