第1話 最終稿の余白

鳳文社三階の校閲室は、夕方になると空調の低い唸りだけが残り、人の気配より先に紙が疲れていく場所だった。
窓の外では、神田の通りを走る車の音が途切れ途切れに聞こえていた。けれど、二重窓を閉めた校閲室まで届くころには、どの音も薄い膜をかぶっている。ここに残るのは、複写機の駆動音と、紙をめくる乾いた音と、誰かが息を飲んだときの、ごく小さな喉の動きだけだった。
私は最後の一枚を版下の隣に置き、左右の余白を見比べた。
行送りに乱れはない。柱の位置も合っている。章扉のノンブル、傍注の幅、句読点の揺れ。霧島ユウの最終稿は、いつものように隙がなかった。文章の癖を削り、感情の振幅まで均してしまったような文体。それなのに、読んだ者の内部には、削られたはずの何かが残る。
その作品を、今日こそ校了に回せる。
胸の奥で張りつめていた糸が、ようやく一本だけ緩んだ。私は使い込んだ朱筆を机に置き、机上の付箋を右上から順に揃えようとした。
そのとき、ページの右下に落ちていた朱の線が、視界の片隅で妙に濃く見えた。
校正記号の形をしている。削除を示す線にも、移動を示す線にも見える。だが、線の伸び方が少し硬い。普段の赤字なら、書き手の手が紙の上を迷いなく滑る。これは違った。線が紙を押し込んでいる。迷ったのではなく、押しつけたような筆圧だった。
私は紙の端を押さえた。
乾いている。
ただ、その一角だけ、紙肌がわずかに荒れていた。爪で引っかいたような荒れではない。朱筆を強く寝かせたとき、紙の繊維が毛羽立つ。そういう傷だった。
私は朱筆を取り、書き込みを直すふりをして、線の続きを目で追った。
欄外に、校正記号の形を借りた文字が並んでいる。
「橘綾乃へ」
そこまで読んだところで、呼吸が止まった。
次の行は、本文の行間に紛れるように書かれていた。赤字の訂正として読めないこともない。けれど、記号の矢印が示している先を順に拾うと、意味が立ち上がった。
――次は、あなたの名前を消す。
短い文だった。
脅迫というには静かで、告発というには近すぎる。誰かが私の机の前に立ち、声をかける代わりに、紙へ口をつけたような文だった。
指先が冷えた。朱の色は校正用インクと同じだった。だが、私が知っている誰の赤字とも違う。相馬さんの線は細く、始点と終点がいつも正確に定まっている。片岡さんの赤字は密度が高く、付箋の端まで几帳面だ。三橋さんは必要な線しか引かない。井口さんは、そもそも朱筆を持つときにも紙を傷つけない。
この文字には、職能を知っている人間の手つきがあった。
見慣れた道具で、見慣れた記号を使い、見慣れた紙の上にだけ残る傷をつけている。
私は机の上を振り返った。
返却待ちのゲラ。青字で埋まった付箋。朱が少し滲んだ古い校正刷り。私が朝から何度も並べ直した紙束は、いつもの順番に重なっている。けれど、右端の付箋が一枚だけ、ほかより三ミリほど下がっていた。
三ミリのずれが、今日は大きかった。
私は付箋を直さず、原稿に手を戻した。ページの角、余白の幅、綴じ穴の位置。受け取ったときの状態を、頭の中でひとつずつ再現する。
編集部から回送された封筒。受領印。私が封を切った時刻。校閲室へ運んだときに使った台車。午前の再校。昼の差し替え。最終確認。
誰が、どこで、どの順番に触れたか。
その問いを頭の中で繰り返したとき、背後で扉が開いた。
振り向くと、霧島ユウが立っていた。
本社へ直接来ることは、ほとんどない。受け渡しは郵送か、綾乃――私に限られた連絡経路を通す。本人の居場所を知っている者は、社内でも片手で数えられるほどだった。
霧島ユウは、性別や年齢を推測させるものを徹底して避けていた。服装も声も、どこか輪郭を消すように整えられている。けれど、原稿を前にしたときだけ、存在の密度が変わる。
私は反射的にページへ指を伸ばした。
その指を、ユウが見た。
「……触らないでください」
声は低かった。怒っているわけではない。むしろ、怒りを表に出すことを拒んでいる声だった。
「もう触れてしまったわ」
「それでも、今は」
ユウはそこで言葉を切った。私の手元ではなく、紙の端を見ている。触れられたことを責めているのではない。触れられた痕跡が、これ以上増えることを恐れている。
「脅迫文が入っています」
私は言った。
ユウの視線が、初めて朱の線へ移った。表情は変わらなかったが、呼吸の間がわずかに長くなった。
「読んだんですね」
「校正記号に偽装されています。担当者宛の文です。私の名前が――」
「見せてください」
「このままでは触れられません。相馬さんを呼びます」
「見せてください」
同じ言葉だった。けれど二度目は、命令に近かった。
私は紙束を動かさず、脅迫文のある箇所だけを目で示した。ユウは近づき、机の端に手を置いた。指先が紙に触れないよう、細心の注意を払っている。その姿を見ていると、原稿に執着しているというより、原稿を傷つけた者の手から守ろうとしているように見えた。
「あなたが書いたものではありませんね」
「私が、ですか」
「校正記号の形が似すぎています。似せようとしている」
「私の赤字に見せかけたい誰かがいる、ということ?」
ユウはすぐには答えなかった。いつもそうだ。会話の前に沈黙を置き、その沈黙の中で相手が何を急いでいるのかを見ている。
「これは、脅しだけではありません」
「何か心当たりが?」
「ありません」
「本当に?」
問いが硬くなった。
ユウは私の目を見なかった。紙の右下、傷んだ余白だけを見ていた。
「心当たりがあるかどうかと、原稿を守れるかどうかは別です。僕は、誰かの事情を作品の中へ勝手に入れられたくない。事情が正しくても、善意でも、同じです」
「作品を止めるつもりはありません」
「止めるつもりがなくても、止まることはある」
「私は、校了に回す前に出所を確認します」
「確認している間に、誰かがまた触る」
「だから、この部屋から動かしません」
「この部屋にいる人間なら、誰でも触れられる」
その言葉は、紙の上に置かれた刃物のようだった。
私は返す言葉を探した。校閲室には、私とユウのほかに誰もいない。空調の唸りが耳の奥で膨らみ、複写機の待機ランプが緑色に点いている。いつもなら安心できる静けさが、今は誰かの息を隠すための幕に見えた。
「私を疑っていますか」
ようやくそう聞くと、ユウは少しだけ顔を上げた。
「あなたを疑わない理由が、いまの僕にはありません」
胸の奥に、乾いた音がした。
「私が、あなたの原稿に脅迫文を入れたと?」
「そうは言っていません」
「言っているのと同じです」
「違います」
「違わないでしょう。私が封を切った。私が校閲室へ運んだ。私が版下と照合した。私の名前宛ての文が、私の管理している紙に入っている。疑うなら、私からで当然です」
声を荒らげたつもりはなかった。それでも、最後の言葉だけは紙面を押す朱筆のように硬くなった。
ユウは黙っていた。
その沈黙を、私は責められなかった。彼はこれまで、自分の名前を出さないことで作品を守ってきた。誰に何を言われても、名義の背後へ退き、文章だけを前に置いてきた。けれど、その沈黙は同意ではない。私たちは都合よく、彼の沈黙を了承として扱ってきたのではないか。
「……霧島さん」
「名前で呼ばないでください」
「すみません」
「その名前も、もう誰のものか分からないので」
ユウはそう言って、原稿の端を指先で揃えた。ページ数を一枚ずつ数える。百二十七、百二十八、百二十九。声には出さない。指が紙の端を一度ずつ押さえ、束の呼吸を確かめていく。
その仕草を見て、私はかつての夜を思い出した。
まだ若かった私は、井口さんの隣で、ある原稿の一行を削った。売り場に出すには強すぎる。読者に誤解される。作家本人も、いずれ分かってくれる。そう言われ、私は赤鉛筆で線を引いた。
一行を消すだけだった。
けれど翌朝、その一行の周囲にあった文章まで、別の意味に見えた。私は気づいていた。それでも、校了を止めなかった。
守ったつもりだった。作品を。作家を。鳳文社を。
本当は、止める勇気がなかっただけだ。
ユウがページを数え終え、こちらを見る。
「あなたは、最初にこれを見つけたとき、何を思いましたか」
「脅迫だと思いました」
「その前に」
私は答えられなかった。
その前に思ったのは、見覚えだった。朱の色ではない。紙が傷ついた場所ではない。誰かが作品を守るという名目で、別の誰かの名前を消そうとするときに生まれる、あの乾いた気配だった。
「昔のことを思い出しました」
私は言った。
ユウは何も促さなかった。沈黙が、続きを求めているように感じられた。
「一行だけ、原稿から消したことがあります。私が決めたわけではありません。でも、私が赤を入れました。削除の理由は、今となってははっきりしません。売れるためだったのか、誰かを守るためだったのか。たぶん、どちらでもなかった。私は、決まったことに従っただけです」
言葉にすると、記憶は思っていたより薄かった。薄いのに、触れた場所だけが痛む。
「それが、今回と同じだと?」
「分かりません。ただ、似ています。紙の傷が、きれいすぎる」
ユウは脅迫文へ目を戻した。
「きれいに消されたものは、あとから見つけにくい」
「だから、見つけたいんです」
「見つけたあと、どうするんですか」
問いのほうが、脅迫文より重かった。
私はすぐに答えられなかった。見つけたものを公にするのか。出版を止めるのか。霧島ユウの作品を守るために、また別の誰かの名前を伏せるのか。
その迷いを見透かしたように、ユウは静かに言った。
「僕の原稿を守るために、誰かの名前を消さないでください」
校閲室の空調が、一度だけ低く唸った。
私は返事をする前に唇を閉じた。いつもの癖だった。だが今日は、その一拍を逃げに使いたくなかった。
「分かりました」
「本当に?」
「はい。少なくとも、今度は見なかったことにしません」
ユウは私を見た。疑いが消えたわけではない。信頼が戻ったわけでもない。ただ、手を引いていた原稿の端から、ほんの少しだけ指が離れた。
私は内線電話へ手を伸ばした。
相馬さんを呼ぶためだった。
受話器を取った瞬間、紙の下から、かすかな擦れる音がした。風のない室内で、一枚だけページが動いたように聞こえた。
私は反射的に視線を落とした。
脅迫文のある余白のさらに下に、もうひとつ、朱の点があった。校正記号にも、句読点にも見えない小さな点。だが、そこだけ紙がわずかに沈んでいる。
誰かが、文章を書き終えたあと、ペン先を止めた跡だった。
私は受話器を耳に当てたまま、その点から目を離せなかった。 校閲室の静けさは、もう仕事のためのものではなかった。 紙の上で、誰かが次の言葉を待っていた。
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