第8話 言いかけた朝食

朝食のあと、食堂にはまだ味噌汁と焼いた魚の匂いが残っていた。

窓は開け放たれているのに、山の湿気はうまく外へ逃げていかない。木の柱は薄く汗をかき、床には誰かがこぼした水がいくつも残っていた。食器を返す部員たちの声、流しで皿を重ねる音、隣の談話室から聞こえる洗濯機の低い振動。それらが一つの塊になって、白樺寮の朝を押し動かしている。

俺が空になった水筒を持って食堂を出ようとすると、袖を引かれた。

振り向くと、ひよりがいた。

「ちょっと来て」

それだけ言って、返事を待たずに歩き出す。いつものひよりなら、「朝から難しい顔してると、味噌汁にまで嫌われるよ」とか、「その水筒、持ってるだけで飲んでないでしょ」とか、何かひとつ軽口を挟むはずだった。

けれど、今日は何も言わなかった。

俺はその背中を追った。ひよりの右足が、床に残った水滴を避けて進む。避けたと思うと、次の一歩ではわざと水の上へ踏み込んだ。濡れた靴底が木床をこすり、きゅ、と小さな音を立てる。

食堂から洗濯場へ続く廊下は、朝の光が届きにくい。窓の外は晴れているのに、壁際には夜の冷たさがまだ残っていた。薄暗い廊下を抜けると、洗濯場の前に積まれたユニフォームの山が見えた。湿った布の重さが、そのまま形になっている。袖口には汗の白い塩が浮き、裾には乾ききらない土がこびりついていた。

ひよりはそこで足を止めた。

洗濯機の蓋が閉じたまま、低く震えている。脱水の終わりを待っているらしい。床に置かれた籠の中で、濡れたタオルが互いに重なり、洗剤と汗の匂いを濃くしていた。

ひよりは床に落ちた水滴を見下ろしたまま、鼻から一度だけ息を吐いた。

「見たなら、知らないふりだけはするなよ」

声は低かった。

俺は手にした水筒の蓋を無意識に触った。冷えた金属が指先へ張りつく。

「……何を」

「そういうの、やめて」

「何が」

「分かってるくせに、分からないふりするやつ」

ひよりは俺の方を見た。目が合うと、いつもなら先に笑う。今日は笑わなかった。

「答辞。蓮先輩のバッグ。赤ペンで消してあったやつ」

俺は返事をしなかった。

食堂では、見たことを口にするのを避けた。蓮先輩の前で封筒のことを言いかけ、練習メニューの話へ逃げた。ひよりも同じように黙った。俺たちは何も言わないことで、先輩の書いたものを守っているつもりだった。

けれど、沈黙は何かを守るたび、別のものを傷つける。

「返すのは簡単だよ」

ひよりは籠から濡れたユニフォームを一枚取り出し、両手で広げた。背中に、三年生の名前が印刷されている。布は水を吸って重く、ひよりの腕がわずかに下がった。

「バッグに戻して、何もなかった顔をする。蓮先輩がいつもの顔で練習して、私たちもいつもの顔で返事する。それで終わり」

「それでいいと思ってるのか」

「思ってない」

即答だった。

ひよりはユニフォームを二つに折った。袖を揃え、襟を整える。けれど、いつもなら一度で終わるはずの作業を、今日は何度もやり直している。

「だから面倒なんだよ」

「面倒?」

「見なかったことにするのは、もっと面倒だから」

ひよりは折り畳んだユニフォームを籠の端へ置き、次の一枚へ手を伸ばした。

「見たものを見なかったことにするには、ずっと覚えておかなきゃいけないでしょ。あの紙を見てない顔をするために、蓮先輩が何も書いてなかったみたいに振る舞うために、いちいち自分の反応を隠さなきゃいけない。そういうの、私は嫌い」

「でも、先輩が自分で消した言葉だ」

「うん」

「読まれたくなかったのかもしれない」

「うん」

「だったら、勝手に踏み込むのは……」

「悪いよ」

ひよりの手が止まった。

「勝手に見たことは悪い。そこはごまかさない。でも、悪かったからって、そこで全部終わりにするのも違うと思う」

俺は水筒を持ったまま、立ち尽くしていた。蓋を開ければ水を飲める。朝食のあとにいつもするように、一息で冷たい水を流し込めば、喉の渇きはなくなる。だが、今はその当たり前の動作さえできなかった。

ひよりが俺の手元を見た。

「また、蓋だけ触ってる」

「癖だから」

「知ってる。考えがまとまらないと、水筒とかタオルとか、必要以上に整える」

「ひよりだって、今、同じユニフォームを三回畳み直した」

「私は仕事が丁寧なの」

「そういう言い方で逃げるなよ」

言ってから、胸の奥がざらついた。

ひよりはユニフォームを持ったまま、俺を見た。足先が小さく揺れている。怒っているときの癖だ。

「逃げてない」

「逃げてる」

「悠真に言われたくない」

「俺だって……」

「俺だって何」

言葉が止まった。

言い返せると思っていたわけではない。ただ、ひよりの言葉を受け止めるだけでいると、また自分が何も決められない人間に戻ってしまう気がした。

ひよりは、俺が黙ったのを見て、少しだけ視線を和らげた。

「ごめん。今のは言いすぎた」

「珍しいな」

「謝ったのに、そこ拾う?」

「いや……」

「そういうところも嫌い」

「悪かった」

「また謝る」

「じゃあ、何て言えばいい」

「知らないよ。私だって分からないから、こうやって洗濯物を畳んでるんでしょ」

ひよりは濡れたユニフォームを持ち上げた。布の重みで、手首の筋が浮く。

「しゃべるだけじゃ何も片づかないし、片づけてるだけでも何も解決しない。だから困ってる」

洗濯機が一度、大きく揺れた。

蓋の内側で水が回る音がする。ぐる、ぐる、と一定の音が続き、俺たちの間に残った言葉を飲み込んでいく。

ひよりは次のユニフォームを取り出した。今度は蓮先輩のものだった。背中に小さく、藤堂の名前が入っている。汗と洗剤を吸った布は、他のものより少しだけ重く見えた。

ひよりはそれを広げ、名前の部分を指でなぞった。

「私ね、中学のとき、一回だけ、友達と大喧嘩したことがある」

「一回だけ?」

「そこはどうでもいい。たくさんあるけど、いちばん後悔してるやつ」

「何があったんだ」

「その子が部活を辞めたいって言ったの。私は、そんなの逃げだって言った。今思えば、その子が本当に言いたかったのは、辞めたいじゃなくて、続けたいけど苦しい、だったんだと思う。でも私は、辞めるか続けるかの二択にして、続けるなら頑張れって言った」

「それで?」

「次の日から、その子は私に相談しなくなった。辞めはしなかったけど、練習中も別の子といるようになった。私は、正しいことを言ったつもりだった。逃げるなって、励ましたつもりだった。でも、たぶんあの子が欲しかったのは、正しさじゃなくて、苦しいって言ってもいい場所だった」

ひよりはユニフォームを畳んだ。今回は一度で形が決まった。

「卒業してから、その子とは一度も話してない。謝ればいいと思うでしょ。でも、今さら謝るのも、自分が楽になりたいだけみたいで嫌なんだよ」

俺は、ひよりの指先を見ていた。荒れた爪の脇に、小さな赤い傷がある。彼女はそこをかばうように布を持っている。

「だから、蓮先輩にも、同じことをしたくない」

「同じことって?」

「先輩が残りたいって書いたからって、『分かります』とか『大丈夫です』とか言って、きれいなところへ戻すこと。あの人が何を言いたいのか分からないまま、こっちの都合のいい感動にすること」

「じゃあ、どうすればいい」

「それを聞いてるんだよ」

ひよりは初めて、困った顔をした。

「私だって、蓮先輩に何て言えばいいか分からない。でも、分からないから言わないってやったら、また同じことになる。言葉が下手でも、途中で詰まっても、言いかけたままでも、何かは渡さなきゃいけない」

「言いかけたままでも?」

「うん。完成してから話そうとすると、たいてい遅いから」

その言葉が、俺の中に残った。

蓮先輩の答辞は、完成していなかった。感謝の言葉を整えようとするたび、別の言葉が出てきた。頼りなかった。本当は不安だった。まだ終わりたくない。赤ペンで何度消しても、消しきれない本音が紙の上に残った。

完成していないからこそ、俺たちはそこに触れてしまった。

「俺は、先輩に何を言えばいいんだ」

「まず、読んだって言えばいい」

「それだけで?」

「それだけじゃない。でも、最初にそこを言わないと、何を言っても嘘になる」

「怖い」

「うん」

ひよりはあっさり頷いた。

「私も怖い。蓮先輩に嫌われるかもしれないし、軽蔑されるかもしれないし、逆に何でもない顔をされるかもしれない。『気にしてない』って言われたら、たぶん私はもっと困る」

「何でもない顔をされるのが嫌なのか」

「嫌だよ。先輩が書いたものを読んで、こっちの胸だけが揺れて、先輩は何もなかったみたいにしていたら、私たちが見たものはどこへ行くの」

ひよりの声が、少しずつ強くなった。

「先輩の弱さを見たから、優しくしてあげたいわけじゃない。そんなの、先輩に失礼でしょ。弱いから守ってあげる、なんて、上から見てるのと変わらない。私はただ、先輩が怖いまま立ってたことを、怖くなかったことにしたくないだけ」

俺は何も言えなかった。

その言葉は、蓮先輩へ向けられているようで、同時にひより自身へ向けられている気がした。強い顔をして、何でもないふりをして、平気ではないことを平気に見せてきた彼女自身へ。

洗濯機が止まった。

急に音がなくなると、寮の外の蝉の声がはっきり聞こえた。細い声が重なり、山の斜面から押し寄せてくる。夏の終わりの蝉は、盛夏のものより必死に聞こえた。鳴き続けなければ、季節そのものに置いていかれると知っているようだった。

ひよりが蓋を開けた。

熱気と湿った布の匂いが、顔へまともにかかる。彼女は眉をしかめながら、洗濯物を一枚ずつ籠へ移した。俺も黙って手伝った。

蓮先輩のユニフォームを持ち上げると、指先へ冷たい水が落ちた。布は重く、汗の塩気がまだ残っている。俺はそれを絞ろうとして、ひよりに手首を止められた。

「絞らないで。伸びる」

「でも、重い」

「重いまま干すの。水を含んだままの方が、どこを持てばいいか分かるから」

ひよりはそう言い、ユニフォームの肩と裾を両手でつまんだ。水滴が床へ落ち、黒い点をいくつも作る。

俺たちは物干し場へ向かった。

洗濯場の裏手は、山道に面している。朝の光が葉の隙間からこぼれ、濡れた土を斑に照らしていた。昨日の雨で道はまだ柔らかく、踏むたび靴の裏へ泥がまとわりつく。湿った葉の匂いが鼻へ入り、遠くのコートからボールを打つ音が聞こえた。

蓮先輩たちは、もう練習を始めているらしい。

乾いた打球音が、山の空気を一定の間隔で叩いている。

俺は足を止め、音の方を見た。

「行きたい?」

ひよりが訊いた。

「練習があるから」

「それだけ?」

俺は答えなかった。

コートへ行けば、蓮先輩がいる。いつものように球を出し、短い言葉で指示をする。俺はその声を聞きながら、何もなかったようにラケットを握ることができるかもしれない。

けれど、何もなかったことにはできない。

「見たなら、知らないふりだけはするなよ」

ひよりの言葉が、湿った空気の中で浮かんだ。

「俺は、先輩を困らせたくない」

「困らせるよ」

ひよりは洗濯物を物干し竿へかけながら言った。

「困らせるに決まってる。こっちが何も言わなければ、先輩は自分だけで片づけて、また何でもない顔をする。困るくらいでちょうどいいんだよ。人に何かを渡すって、相手を少し困らせることでもあるから」

「渡す?」

「感謝とか、戸惑いとか、残ってほしいって気持ちとか。全部、相手がどう受け取るかは分からない。でも、渡さないと何も始まらない」

「俺たちが、先輩に残ってほしいと言うのか」

「言えるならね」

ひよりの手が止まった。

風が吹き、濡れたユニフォームの裾が一斉に揺れた。白い布が重たそうに膨らみ、また元へ戻る。乾くにはまだ時間がかかる。

「私は、言いたい」

ひよりが言った。

「行かないでって、言いたいよ。卒業しても来てくださいじゃなくて、来られるときでいいですとかでもなくて。今のまま、ずっとここにいてくださいって言いたい。たぶん無理なのも、そんなこと言ったら先輩が困るのも分かってる。でも、言いたいと思ったことまで、先輩のために消すのは違う」

俺は濡れた土へ視線を落とした。

ひよりが「行かないで」と言う声を想像した。強くて、まっすぐで、きっと途中で震える。蓮先輩は困った顔をするだろう。すぐには返事をせず、いつもの一拍を置く。その一拍のあいだに、先輩自身の「残りたい」が戻ってくるかもしれない。

でも、俺にはまだ言えない。

言いたいことがないのではない。言葉にした瞬間、それが自分の願いになるのが怖かった。先輩に残ってほしいのか。先輩のようになりたいのか。先輩が去ったあと、自分が中心に立たなければならないのが怖いだけなのか。

そのすべてが混ざって、どの言葉を選べば先輩への敬意になるのか分からない。

「俺は、まだ……」

「まだ何」

「分からない」

「うん」

「先輩に残ってほしいのか、先輩が残りたいと思っていたことを知りたいだけなのか、自分でも分からない」

ひよりは物干し竿に手を置いたまま、俺を見た。

「それでいいんじゃない」

「いいのか」

「分からないままの方が、嘘が少ない」

「でも、何も言えない」

「言えないなら、言えないって言えばいい。『何て言えばいいか分かりません』って、蓮先輩に言えばいい」

「そんなの、情けない」

「情けなくないよ」

ひよりは、先ほどの俺と同じ言葉を返した。

「情けないのは、言えないくせに、分かったふりをすること。ちゃんとできるまで黙ってること。悠真は、いつもそれで自分を守ってる。でも、守ったままじゃ、誰にも触れられない」

胸の奥が痛んだ。

蓮先輩の答辞を見て、俺は先輩の弱さを知ったと思っていた。けれど、俺自身もまた、見られないように自分を整えていた。先輩のように立てないことを隠し、先輩の言葉を理解できないことを隠し、決められないことを黙っていた。

「ひよりは、言えるのか」

「言えない」

「さっき言えるって」

「言いたいだけ。言えるとは言ってない」

ひよりはそこで初めて、弱く笑った。

「私だって、肝心なところでは黙るよ。怒ってるふりをして、泣きそうなのを隠す。冗談を言って、聞かれたくないことから逃げる。だから、悠真にだけ偉そうに言ってると、あとで自分に刺さる」

「じゃあ、どうする」

ひよりは濡れたタオルを竿へかけた。

「一緒に行く」

「どこへ」

「蓮先輩のところ。原稿を返しに」

「今?」

「今は練習中。終わってから」

「みんなの前で?」

「みんなの前で、とは言ってない。でも、二人だけで隠れて返すのも違う気がする」

「どうして」

「私たちだけの秘密にすると、また先輩と私たちの間だけで終わるから。蓮先輩の本音は、部全体のものじゃない。でも、蓮先輩がいた時間は、私たちだけのものでもない」

ひよりは、濡れたユニフォームの列を見た。

「見たことを謝る。勝手に読んだことを認める。それから、読んだせいで何を思ったかを言う。蓮先輩が答えたくなければ、答えなくていい。私はそれでいいと思う」

「先輩が怒ったら」

「怒るよ」

「そこは否定しないんだな」

「怒る権利はあるから。でも、怒ったからって、こっちが何も言わなかったことにはならない」

遠くで、ボールを打つ音が止まった。

代わりに、蓮先輩の声らしいものが風に混じって聞こえた。何を言っているかまでは届かない。ただ、低く、短く、コートの空気を引き締める声だった。

俺は水筒を握り直した。

手のひらへ、冷えが戻る。

「分かった」

「何が」

「練習が終わったら、返す」

「原稿を?」

「うん」

「それだけ?」

俺はひよりを見た。

「読んだことを言う。何て言えばいいか分からないっていうことも言う」

「それでいい」

「ひよりも言うんだろ」

「言う」

「行かないでって?」

ひよりは一瞬、目を伏せた。

「それは……まだ決めてない」

「さっき、言いたいって」

「言いたいのと、言うのは別」

その言葉が、蓮先輩の答辞のように聞こえた。書くことと、読むことは別。思うことと、渡すことも別。それでも、書かれた文字は消されても残り、言えなかった言葉は、言えないままでも人の中に居座る。

ひよりは物干し場を見回し、最後のタオルを竿へかけた。

「ほら、行くよ。練習、遅れる」

「うん」

俺たちは山道を戻った。

来たときより、靴底へ泥が重くついている。歩くたびに小さな土の塊が剥がれ、濡れた葉の上へ落ちた。坂の向こうにコートが見える。朝の光はもう高く、白線の上に残っていた水はほとんど消えていた。

それでも、空気にはまだ夕立の湿気が残っている。

乾いたように見える場所ほど、手のひらを置けば冷たさを返してくる。

俺はその感触を知っている。

蓮先輩のことも、ひよりのことも、まだ全部は分からない。自分が何を望んでいるのかも、先輩に何を渡せるのかも決められない。

ただ、見たものを見なかったことにはしない。

言いかけた言葉を、きれいに完成させてから渡そうともしない。

コート脇では、蓮先輩がボールを拾っていた。俺たちに気づくと、一度だけ顔を上げる。目が合った。先輩は何も言わなかったが、俺も視線を逸らさなかった。

ひよりが隣で、鼻から小さく息を吐いた。

そして、先に声を出した。

「蓮先輩、練習が終わったら、少し話があります」

蓮先輩の手の中で、ボールが止まった。

「分かった」

返事の前に置かれた一拍は、いつもより長かった。

俺はその間を聞いた。

ひよりはもう一度、靴紐を確かめた。俺は水筒の蓋から手を離した。

まだ、何も始まってはいない。

それでも、今度は沈黙の中へ逃げ込まずに、コートの中へ歩いていけた。

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