第7話 薄明のコート

合宿最終日の朝、白樺寮の外では、山の端がまだ青かった。
廊下の窓は夜気を含んで白く曇り、木床は乾いているように見えて、歩くたびに靴底へ冷たい湿り気を返してくる。俺はラケットバッグを肩に掛け、誰も起きていない廊下をひとりで歩いた。板の軋む音が、前から来たのか、背後から来たのか分からない。立ち止まって振り返ると、薄暗い廊下には、閉じた襖と消えかけた非常灯しかなかった。
それでも、また歩き出す。
白樺寮を出ると、空気が少しだけ広くなった。夜のあいだに冷えた風が頬を撫で、汗の残っていない肌には鋭かった。蝉はまだ鳴いていない。夏の朝にはいつも何かしらの音があると思っていたのに、今日は山全体が、まだ言葉を選んでいるように静かだった。
コートへ続く坂道には、昨夜の雨で剥がれた葉が張りついていた。靴底で踏むと、乾いた葉のような軽い音ではなく、濡れた紙を押し潰すような音がする。明るくなり始めた斜面の一方には朝の光が差し、反対側にはまだ夜の色が残っている。俺はその境目を何度も越えながら、眠りの浅かった頭をどうにか起こそうとした。
コートには、もう藤堂蓮先輩がいた。
ベンチの上にラケットを置き、ネットの中央へしゃがみ込んでいる。白い帯の高さを確かめ、金具を締め、少し離れて全体を見直す。いつもと同じ手順だった。俺が何度も見てきた、蓮先輩の朝の動きだ。
けれど、今朝はベンチの上に、巻き替えの途中らしいグリップテープが置かれていた。
白いテープは半分だけ巻かれ、残りがだらりと垂れている。蓮先輩がそんな状態で道具を放置するのを、俺は見たことがなかった。
俺は足を止めた。
自分のラケットを取り出し、握りの部分を見下ろす。俺のグリップはまだ新しく、表面に細かな皺もない。けれど、握る位置は毎回少しずつずれている。強く握りすぎた箇所だけが浅くへこみ、手の形を覚えきれないまま、巻き直されている。
蓮先輩のグリップは擦り減っていた。汗を吸い、何度も巻き替えられ、ところどころ表面が薄くなっている。それなのに、巻き方だけは乱れていない。先輩の手が長い時間をかけて道具へ残した、癖と責任の跡だった。
中学のころ、強い先輩の動きを真似していた時期がある。
サーブを打つ前の肩の開き。踏み込むときの足の向き。ミスをしたあと、何事もなかったようにラケットを構え直す速さ。俺はそれをひとつずつ覚え、鏡の前で繰り返した。けれど、同じ動きをしているはずなのに、試合になると身体は言うことを聞かなかった。真似た形は、緊張すると簡単に崩れた。
勝てなかった。
そのときの悔しさより、真似をしている間だけ、自分が自分でなくて済んだことの方を、今になって思い出す。自分の打ち方で負けるより、誰かの打ち方を借りて負ける方が、少しだけ言い訳しやすかったのだ。
「早いな」
蓮先輩が立ち上がった。
俺はラケットを持ったまま、背筋を伸ばした。
「先輩こそ」
「俺はいつも早い」
「そうですね」
「そうですね、じゃない。荷物を置け。朝から立ったままだと、練習前に疲れる」
先輩はそう言いながら、ベンチの端へラケットバッグを寄せた。俺の分の場所まで空けてある。いつものことだった。誰かが来る前に、自分の物だけでなく、他人の物を置く場所まで決めておく。
その手が、ふいに止まった。
先輩の視線が、半分巻かれたグリップテープへ落ちる。
俺は何も言わなかった。答辞の下書きにあった赤ペンの跡が、目の前の白いテープへ重なって見えた。書いては消し、消してはまた書いた言葉。整えようとしても残ってしまった線。先輩の手元にあるものは、どれも一度使われてからでなければ、先輩の物にはならないように思えた。
「それ、巻き直さないんですか」
訊いてから、余計なことを言ったと思った。
蓮先輩はテープを拾い上げた。
「あとで巻く」
「今、やらないんですか」
「今はネットを見る時間だ」
「でも、気にならないんですか」
「気になる」
返事が早かった。
先輩は垂れたテープの端を指で押さえ、手のひらの中へ収めた。白いテープが、指に食い込んでいる。
「気になるからといって、すぐ直せるとは限らない」
その言葉は、ネットのことだけを言っているようには聞こえなかった。
俺はコートの白線へ目を向けた。昨夜の雨で浮いた土が、ラインの端へ薄くかぶさっている。蓮先輩はしゃがみ込み、指先でそれを払った。土埃が爪の間へ入り、白線の上に細い筋ができる。
「先輩」
「何だ」
「今日で、合宿が終わりますね」
言葉にすると、終わりというものが急に形を持った。
蓮先輩は白線の上に置いた指を動かさなかった。
「そうだな」
「帰ったら、すぐ学校です」
「二学期が始まる」
「三年生は、引退も……」
そこで俺は口を閉じた。
蓮先輩は顔を上げなかった。白線の上に残った小さな土を、何度も同じ方向へ払っている。きれいになった場所を、さらにきれいにしようとしていた。
「引退は、まだ少し先だ」
「でも、もうすぐですよね」
「近いからといって、今日終わるわけじゃない」
「分かってます」
「なら、今日の練習をしろ」
「はい」
いつもの返しだった。
けれど俺には、その「今日」という言葉が妙に重かった。昨日までの俺は、今日を積み重ねれば、いつか先輩のようになれると思っていた。先輩と同じ朝を迎え、同じコートへ立ち、同じ球を打っていれば、どこかで自分の輪郭が先輩の輪郭に重なる気がしていた。
今は違う。
先輩の答辞に残された「まだ終わりたくない」という言葉を知ってから、先輩の朝は、永遠に続くものではなくなった。先輩にも終わりがあり、終わりを知りながら今日を整えている。俺が見ていた「迷いのなさ」は、迷いがないことではなく、迷いを抱えたまま手を動かすことだった。
部員たちが、ひとり、またひとりと坂を下りてくる。
眠そうな顔。片方だけ靴紐がほどけた一年生。濡れたユニフォームを着たままの三年生。白樺寮から運ばれてきた汗と洗剤の匂いが、冷えた朝の空気へ混ざっていく。
佐伯ひよりは、へこんだ水筒を片手に、坂の途中から大きな声を上げた。
「蓮先輩、朝からまた地面と話してるんですか」
「白線を直してる」
「地面と話してるのと同じでしょ」
「お前は口より先に靴紐を直せ」
「結んであります」
「ほどけてる」
ひよりは足元を見た。右の靴紐が、確かに緩んでいる。
「これは、わざとです」
「何のために」
「先輩に見つけてもらうため」
「自分で見つけろ」
「見つけてもらった方が早いじゃないですか」
「そうやって人に頼るから、いつまでも自分で結べない」
蓮先輩は呆れたように言ったが、ひよりの前へ歩き、しゃがんで靴紐を結び直した。
ひよりは、最初こそ笑っていた。けれど、先輩の指が結び目を作るのを見下ろすうちに、口元から笑いが消えていく。
「……自分でできますよ」
「できるなら、ほどけたまま来るな」
「そういうところですよ」
「何が」
「何でも先にやるところ。先輩がいると、こっちは自分でやるタイミングを失うんです」
蓮先輩の手が止まった。
ひよりは言ってから、少しだけ顔を背けた。緊張しているときの癖で、ヘアゴムへ指を触れている。
「今の、冗談です」
「そうは聞こえなかった」
「じゃあ、冗談じゃないです」
「どっちだ」
「どっちでもいいです」
ひよりの声は明るくなかった。
蓮先輩は結び終えた靴紐を一度引き、ほどけないことを確かめた。それから立ち上がる。
「自分でやるタイミングは、待っていても来ない」
「先輩が先に取るからでしょう」
「なら、取り返せ」
「簡単に言いますね」
「簡単ではない」
先輩は、ひよりの顔をまっすぐ見た。
「俺も、最初から自分でできたわけじゃない。前の主将に何度も先回りされた。忘れ物を拾われて、練習メニューを決められて、試合のあとに言うべきことまで言われた。俺はそれをありがたいと思っていたし、同時に腹も立っていた。自分は何も任されていないように感じたからだ」
ひよりは黙っている。
蓮先輩は、いつもより長く話していた。声は大きくないが、コートの隅まで届いた。

「だから、俺はお前たちの前で、できるだけ先回りしないようにしてきた。けど、結局、気づくと俺がやっている。誰かが困る前に片づける。失敗する前に声をかける。そうしないと部が崩れると思っていたからな。でも、崩れないようにしすぎると、誰も自分で立てなくなる」
「それ、今さら言いますか」
「今だから言う」
「もっと早く言ってくださいよ」
「早く言ったら、お前は聞いたか」
ひよりは返事をしなかった。
その沈黙が、朝のコートに落ちた。蝉はまだ鳴かず、遠くの山道を車が一台走る音だけがした。ひよりは靴紐の結び目を見下ろし、やがて小さく息を吐いた。
「聞かなかったと思います」
「だろうな」
「私、先輩が何でもできると思ってました」
「できない」
「知ってます。今は」
「今も、全部は知らないだろ」
「知ろうとしてるんです」
ひよりの声が、そこで急に短くなった。
「先輩がいなくなる前に」
蓮先輩は答えなかった。
俺は、その横顔を見ていた。蓮先輩の顎が少し引かれている。返事の前に置く一拍。けれど、いつものようにすぐに別の言葉へ置き換えなかった。
「俺がいなくなっても、俺のことを全部知る必要はない」
「でも、知らないまま残されるのは嫌です」
「残される?」
「先輩は、先に行く側だから」
ひよりは笑おうとした。失敗した。
「行きたくないくせに」
その言葉が、冷えた空気をわずかに震わせた。
俺は、蓮先輩の手にある半端なグリップテープを見た。白いテープの端が、風に小さく揺れている。
先輩はすぐには否定しなかった。
その沈黙を、俺は聞いた。
蓮先輩が、何かを言おうとしている。けれど、ここには俺たちだけではない。部員たちがいる。主将として立っている以上、簡単に「行きたくない」とは言えない。言葉にした瞬間、去ることが本当になってしまうからだ。
「今日、練習するぞ」
蓮先輩は最後にそう言った。
きれいな言葉だった。きれいすぎて、ひよりは目を伏せた。
西園寺先生がコートの入口に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。黒いジャージの袖をまくり、古いホイッスルを首から下げている。先生は部員たちの足元と、ベンチの上の道具を順番に見た。
「藤堂」
「はい」
「グリップは」
「あとで巻きます」
「今、巻けない理由は」
「ネットの確認を優先しました」
「優先順位を決めたのは誰」
蓮先輩は一拍置いた。
「俺です」
「なら、あとで忘れないこと」
「はい」
先生は俺たちの方へ視線を移した。
「今日の練習は、昨日までの続きではない」
誰も返事をしなかった。
「合宿は終わる。三年生は引退へ近づく。けれど、終わりを意識したからといって、最後の日に特別な人間になれるわけではない。今日も球は飛ぶし、返せなければ失点になる。道具は使えば摩耗する。言葉を選んでいる間に、次の球が来る」
先生の声は静かだった。静かなのに、逃げる隙がなかった。
「だから、今日の一球を、自分の判断で返しなさい。誰かの姿を借りて立っているだけでは、足元が崩れたときに何も残らない」
俺は、自分のラケットを握った。
「真似るだけでは残らない」
先生が言った。
昨日も聞いた言葉だった。
けれど今朝は、その言葉が先輩を否定するものには聞こえなかった。むしろ、蓮先輩が残そうとしているものの中に、自分で決めろという要求が含まれているように思えた。
蓮先輩がボール籠を持ち上げた。
「基礎打ちから始める。望月、最初に入れ」
「俺が?」
「質問は後だ」
「はい」
「ただし、俺の打ち方を見てから動くな」
俺は先輩を見る。
「では、何を見れば」
「球を見ろ」
「それだけですか」
「それだけで、たいてい足りない」
先輩はそう言って、ネットの向こうへ歩いていった。
俺はコートへ入った。朝の土はまだ湿っていて、踏み込むたび靴底がわずかに沈む。ベンチの上では、半分巻かれたグリップテープが、誰にも触れられないまま残っている。
蓮先輩がボールを一つ、手の中で弾ませた。
俺は先輩の右手を見ないようにした。
見たくなる。握り替えの速さも、打点へ入る一歩も、身体の傾きも、全部見ていたい。けれど、見ればまた同じところへ戻ってしまう。先輩の形を追い、自分の足がどこにあるのか分からなくなる。
ボールが飛んできた。
俺は一歩遅れた。
ラケットの先に当たった球が、ネットへ吸い込まれる。
「足」
蓮先輩が言った。
「見る場所を変えても、足が遅ければ意味がない」
「はい」
「返事はいい」
次の球が来る。
俺は肩ではなく、球の軌道を見た。落ちてくる位置を予測し、半歩だけ早く入る。今度はラケットの中心に当たった。乾いた音がして、球が深く返った。
蓮先輩のラケットが動く。
その瞬間、俺は先輩の足元ではなく、ネットの向こうへ飛んでいく球を見た。
返球は浅かった。それでも、白線の内側へ落ちた。
「今のはいい」
先輩が言った。
たった一言だった。
けれど、その声をただ受け取るだけではなく、俺は自分の身体の中で返球が生まれた感触を確かめた。手のひらに残る振動。湿った土を踏んだ足の裏。汗の乾いた塩気が唇に残っている。先輩の声は、その全部の上へ重なった。
コートの外で、ひよりが一年生に声をかけた。
「今の、腕だけで打ったでしょ。蓮先輩ならもっと怖く言うけど、私は今日は優しいから」
「ひより先輩、それ優しいですか」
「声を荒げてないから優しい」
笑いが起きた。
蓮先輩も、ほんのわずかに口元を緩めた。だがすぐに、次の球へ視線を戻す。
ベンチの上で、半分巻かれた白いグリップテープが朝の光を受けている。まだ完成していない。けれど、失敗しているわけでもない。誰かが続きを巻くまで、そこに置かれているだけだ。
俺はそのテープから目を離し、次の球を見た。
蓮先輩のようには打てない。先輩のようには立てない。先輩が怖がっているものも、先輩が手放せないものも、まだ全部は分からない。
それでも、先輩が残りたいと思いながら今日の球を出していることだけは、もう知っている。
その知識は、憧れを壊すためではなかった。
憧れの内側へ、ようやく自分の手を入れるためのものだった。
朝の光がコートの奥へ進み、白線に残った水を細く輝かせていく。蝉が一匹、山の向こうで鳴き始めた。遅れて、別の蝉が応える。
俺は、次の球へ足を入れた。
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