第6話 棚の整い方

昼前、談話室では荷物の仕分けが始まっていた。
合宿最終日の午後には、使ったものを数え、洗ったものを畳み、持ち主の分からないものを一か所へ集める。毎年、誰かが靴下を片方なくし、誰かが自分のタオルを別人の荷物へ紛れ込ませる。白樺寮の小さな共同空間は、部員たちが動くたびに形を変え、洗濯物の山と空の段ボールと、汗を吸ったユニフォームの匂いで満たされていった。
窓の外では蝉が鳴いていた。昨日の夕立で湿った土はまだ黒く、軒下から落ちる雫が、一定の間隔で石を叩いている。
俺は談話室の入口に立ったまま、すぐには中へ入れなかった。
部屋の隅に、蓮先輩の忘れ物バッグが置かれている。今朝、持ち手のねじれを直したのは俺だ。整えたあとで、先輩の代わりをしたような気がして手を引いた。それでも、完全に放っておくことはできなかった。
バッグは壁際に置かれ、口が閉じられている。封筒が中にあることを、俺は知っている。
知ってしまったものは、閉じたところで消えない。
「そこに立ってると、荷物の一部になるよ」
ひよりの声がした。
振り返ると、彼女は濡れたタオルを腕に抱えていた。お気に入りのヘアゴムで髪を束ねているが、後れ毛が頬に張りついている。タオルの端から水が一滴落ち、床板に黒いしみを作った。
「手伝う」
「見れば分かる。見てるだけじゃなくて、手を使って」
「何をすればいい」
「そこにある水筒、ラベルが見える向きにして。蓮先輩みたいに右向きにする必要はないからね」
「分かってる」
俺は談話室へ入り、水筒を一つずつ拾った。
ひよりは、棚の前にしゃがみ込んでいた。棚には洗剤の詰め替え袋や救急箱、予備のガット、古い大会要項などが無秩序に押し込まれている。彼女はそれらを一度すべて床へ出し、必要なものと、もう使わないものを分けていた。
「それ、捨てるのか」
俺が古いテーピングの箱を指すと、ひよりは箱を裏返した。
「期限切れてる。たぶん三年前の」
「使えるかもしれない」
「使えるかもしれない、で残してたら、ここが倉庫になる。蓮先輩は残すけど、私は捨てる」
「蓮先輩なら、期限が切れていても何かに使えるって言うかもしれない」
「言うね。たぶん、箱の角がきれいだから取っておこうとか言う」
ひよりは笑い、箱を二つに折った。厚紙が乾いた音を立てる。
「でも、蓮先輩が全部残すからって、私たちまで残さなくていいんだよ」
俺は水筒のラベルを一つずつ揃えた。赤い印のもの、青い印のもの、名前が消えかけたもの。ひよりはそれを横目で見ながら、棚の奥へ手を伸ばした。
「……あ」
彼女が引き出したのは、黒い表紙の古いノートだった。
表紙の角は擦れて白くなり、背表紙には何本も透明なテープが貼られている。濡れた指で触れたら、紙がそのままほどけてしまいそうだった。
「練習記録?」
「たぶん。これ、前の代のやつ」
ひよりは埃を払って、ノートを膝の上へ置いた。表紙を開くと、最初のページに、年度と部員の名前が並んでいた。字の大きさも筆圧もばらばらで、誰かが書いた文字の横へ、別の誰かが赤ペンで補足している。
『朝練、遅刻三名。次は五分早く集合』
『雨天時は廊下でフットワーク』
『佐伯、声を出す。声が小さいと、ミスしたときに誰も気づけない』
「これ、私が一年のときの字」
ひよりが言った。
「分かるのか」
「分かるよ。字が今より細い。あと、蓮先輩の赤ペンが入ってる」
ページの端に、小さく書かれていた。
『声を出せば、失敗しても次に行ける』
ひよりはその一文を指でなぞった。
「これ、ずっと覚えてた」
「先輩に言われた言葉?」
「うん。私、一年のころ、試合でミスすると黙る癖があったんだよ。ポイントを落としても、何も言わずに次の構えをして、またミスする。自分では切り替えてるつもりだったけど、ただ隠れてただけだった」
ひよりはノートを閉じずに、膝の上で押さえた。
「そのとき蓮先輩が言った。『声を出せば、失敗しても次に行ける』って。別に優しい言い方じゃなかったよ。『黙ってると、失敗したことまで誰にも拾われない』って、もっと嫌なことも言われた」
「蓮先輩らしい」
「でしょ。腹が立った。でも、次のポイントで声を出したら、前衛の子が動いてくれた。私のミスを消してくれたわけじゃない。でも、ミスしたあとに一人で立たなくてよくなった」
ひよりはページの隅へ視線を落とした。
「だから、先輩がいなくなっても、これは残るんだと思ってた」
「言葉が?」
「言葉だけじゃない。言われたときの嫌な感じとか、納得したくなかった感じとか。そういうのも含めて」
俺はノートを覗き込んだ。
別のページには、合宿の夜の当番表が貼られている。その下に、三年生らしい誰かの落書きがあった。
『引退したら、このノートは誰が持つ?』
その問いに、赤ペンで返事が書かれている。
『次に見つけた人』
「変なの」
ひよりが言った。
「答えになってない」
「蓮先輩の字か」
「たぶん。でも、こういうのを残すのは蓮先輩だよね。全部決めて、全部きれいに終わらせるくせに、最後のところだけは誰かに預ける」
「預ける……」
その言葉が、胸の中で小さく響いた。
答辞の下書きも、そうなのだろうか。赤ペンで消された言葉は、蓮先輩が隠そうとしたものだ。けれど、隠しきれずに残った痕を、俺たちは見つけた。見つけた以上、そこには先輩が意図しなかった形で、何かを預けられている気がした。
「悠真」
ひよりがノートを閉じた。
「また、先輩の言葉を勝手に背負おうとしてるでしょ」
「そんなつもりはない」
「あるよ。顔に出てる」
「どんな顔だよ」
「自分が持たなきゃ、って顔。蓮先輩の分まで困って、蓮先輩の分まで考えて、蓮先輩の分までちゃんとしようとしてる」
「そんなの……」
否定しかけたが、言葉が続かなかった。
ひよりは立ち上がり、ノートを棚の上へ置いた。
「先輩は先輩で、勝手に残したり消したりする。私たちは私たちで、受け取るかどうか決めればいい。全部受け取ったら、重すぎて動けなくなる」
「でも、受け取らなかったら、先輩がここにいた時間を捨てることにならないか」
「それは違う」
ひよりは少しだけ声を落とした。
「捨てるって、なくすことじゃないよ。手元から離すことだと思う。ずっと抱えていないと大事にしたことにならないなら、私たちは何も持てない」
彼女は棚の最上段から、古い缶を取り出した。表面がへこみ、蓋には黒い油の跡がついている。
「これ、誰のか知ってる?」
「蓮先輩の?」
「違う。去年引退した三年の。蓮先輩がずっと預かってたんだって」
「預かってた?」
「前の主将から渡されたらしいよ。『お前が持ってろ』って。それを蓮先輩が一年間持って、今度は誰かに渡すつもりだったんじゃないかな」
「中身は?」
ひよりは蓋を開けた。
中には、切れたグリップテープの端、使いかけの鉛筆、折れたホイッスルの紐、それから小さな紙片が入っていた。
ひよりが紙を広げる。
『忘れたものは、拾った人のものではない。次に必要な人へ渡せ』
紙の字は古く、端が黄ばんでいた。
俺はその文を読んで、すぐには息ができなかった。
忘れ物バッグ。封筒。ノート。水筒。グリップテープ。部に残るものは、誰かの所有物でありながら、いつか別の誰かの手へ移っていく。持ち主を失った瞬間に消えるのではなく、次に必要とする人間を待っている。
それはきれいな継承ではなかった。汗の匂いも、摩耗も、使いにくさも残ったまま、手渡されるものだった。
「これ、蓮先輩に返す?」
ひよりが訊いた。
俺は紙片を見た。返すべきだと思った。蓮先輩が預かっていたものだから、元の場所へ戻すのが正しい気がした。
けれど、棚の上には、まだ誰のものか分からないものがいくつもある。使い古されたタオル、名前の消えたラケットケース、片方だけの靴下。誰かが戻さなければ、誰かが拾わなければ、物はただそこに残る。
「返すだけじゃ、足りないかもしれない」
「何が?」
「蓮先輩がずっと預かってきたものを、また先輩に戻したら、先輩はそれを持ったまま卒業する。次に渡す人がいなくなる」
ひよりは俺をじっと見た。
「じゃあ、悠真が持つの?」

すぐには答えられなかった。
紙片は薄く、軽い。けれど、指に乗せると妙に重い。蓮先輩の使い古したグリップテープをもらったときとは違う重さだった。形を真似るためのものではなく、判断を迫る重さだ。
「まだ、分からない」
「それでいいと思う」
ひよりは意外なほどあっさり言った。
「分からないまま持つものもあるから。決めたふりして持つより、ずっとまし」
彼女は紙片を俺の手のひらへ置いた。
「でも、なくすなよ。悠真は考えすぎて、持ってるものまで見失いそうだから」
「ひよりに言われたくない」
「私はなくしてない。後で一人になってから、ちゃんと引きずってる」
冗談めかしているのに、目は笑っていなかった。
そのとき、談話室の入口で足音が止まった。
振り向くと、蓮先輩が立っていた。
右手には、いつもの水筒。左手には、洗濯物を入れた袋がある。背筋は伸びているが、俺たちが棚の前に集まっているのを見て、顎がわずかに引かれた。
「何を見てる」
ひよりは一拍置いてから、古いノートを持ち上げた。
「先輩たちの記録です。あと、預かりもの」
蓮先輩の視線が、俺の手元へ落ちた。
紙片を握っていることに気づいたのだろう。
「それは、まだ持っていたのか」
「先輩のですか」
「俺のものじゃない」
「でも、先輩が預かっていた」
「預かっていただけだ」
「誰に返すんですか」
蓮先輩は答えなかった。談話室の窓から風が入り、棚に置かれた大会要項の端を揺らした。湿った空気が、洗剤と木の匂いを運んでくる。
「前の主将に渡された。卒業するときに、次の主将へ渡せと言われた」
「じゃあ、次の主将に」
ひよりが言った。
蓮先輩は彼女を見た。
「まだ決まっていない」
「決まってなくても、渡す相手くらい考えてるんじゃないですか」
「お前は、何でも急ぐな」
「先輩が何でも遅らせるからです」
ひよりの声が短くなった。
「答辞も、引退も、こういうものを誰に渡すかも。先輩はずっと、自分の中で片づけてからじゃないと話さない。でも、片づけ終わるころには、こっちはもう次の場所へ行かなきゃいけない」
蓮先輩は黙っていた。
俺は紙片を握る手に力を込めた。ひよりの言葉は正しい。正しいが、蓮先輩の立場を簡単に切り捨ててもいけない。先輩は、抱え込むことでしか部を守れなかった時間を持っている。そのやり方が正しいかどうかではなく、それしかできなかった日々がある。
「先輩」
俺は紙片を差し出した。
「これ、俺が持っていてもいいですか」
ひよりがこちらを見た。蓮先輩の目も、紙片から俺へ移った。
「お前が?」
「まだ、次の主将になるかも決まってないです。でも、決まるまで誰かが持っていてもいいなら」
「何のために」
俺は紙片へ視線を落とした。
「忘れないためです。先輩の代わりになるためじゃなくて、いつか渡すものだと分かるように」
蓮先輩はしばらく俺を見ていた。
「持っていたら、捨てられないぞ」
「捨てません」
「重いぞ」
「分かりません。でも、重いまま持ってみます」
口にしてから、胸の内側にあったものが少しだけ形を持った。
蓮先輩は水筒を床へ置いた。キャップは右を向いている。だが、いつものように置き直さなかった。
「なら、預ける」
短い言葉だった。
ひよりが息を吐く。
「先輩、こういうときだけ簡単に言うんですね」
「何が」
「もっと、渡す側の気持ちとか、いろいろあるでしょう。『頼んだ』とか、『お前ならできる』とか」
「そういう言葉は、後で自分が恥ずかしくなる」
「今さら?」
ひよりは笑おうとしたが、途中でやめた。
「……先輩、本当に卒業するんですね」
蓮先輩の顔から、わずかに表情が抜けた。
それは主将の顔だった。けれど、昨夜の廊下で見た人の顔も、そこに重なっている。
「する」
「行きたくなくても?」
「行きたくなくても」
「残りたいと思っていても?」
蓮先輩は、すぐには答えなかった。
俺はその沈黙を見た。返事の前に置かれた、先輩のいつもの一拍。その一拍が、今日は長かった。
「残りたいと思っていても」
先輩は言った。
「それでも、行く」
ひよりは視線を落とした。足先が小さく揺れ、床を一度だけ叩いた。
俺は紙片を、部活ノートの間へ挟んだ。落とさないように、古い練習メニューのページで挟み込む。紙は薄いのに、ノートの背が少し膨らんだ。
「それ、どこに置く」
蓮先輩が訊いた。
俺は談話室の棚を見た。
水筒の向きは、右と左が混ざっている。ひよりがわざとそうしたのだ。乱れているようにも見えるが、誰のものかは分かる。ラベルが見え、取り出しやすく、次に使う人間が困らない。その程度には整っている。
「ここに置きます」
俺は棚の中央へノートを置いた。
蓮先輩なら、少し右へ寄せるか、背表紙の向きを揃えただろう。俺は迷った末、棚の奥へ押し込まず、誰でも手に取れる位置にした。
蓮先輩はそれを見て、何も言わなかった。
ひよりが濡れたタオルを畳み直し、棚の端へ置いた。俺もその隣で、散らかったテープの箱を種類ごとに分けた。古いものを捨てるかどうかは、まだ決められなかった。けれど、少なくとも誰かが必要なときに見つけられるようにはした。
窓の外で、蝉が一斉に鳴き始めた。
夏の熱が談話室へ流れ込み、湿ったユニフォームの重さが腕にまとわりつく。部屋の中は暑い。紙も、木も、汗も、すべてが水分を含んで、簡単には乾かない。
蓮先輩は水筒を取り上げ、棚の端へ置いた。
キャップは右を向いていた。
俺はそれを左へ向け直そうとして、やめた。
向きを変えることも、変えないことも、自分で決めなければならない。そう思った。
そのとき初めて、棚の整い方が、誰か一人の正しさで決まるものではないと分かった。残った人間が、それぞれの手で触れ、使い、少しずつ形を変えながら保っていくものなのだ。
ひよりが俺の肩を軽く叩いた。
「それ、忘れないでよ」
「何を」
「今、自分で決めた顔してた」
「そんな顔、分かるのか」
「分かる。私、観察得意だから」
「俺の真似?」
「違う。元から」
ひよりはそう言って、棚の上に残っていた古いクリアファイルを一冊だけ、処分箱へ入れた。
蓮先輩はそれを見て、止めなかった。
白樺寮の談話室には、まだ片づいていない荷物がいくつも残っていた。誰のものか分からない靴下、汗の染みたタオル、書き込みだらけのノート。すべてをきれいに終えることはできない。
それでも、次に手を伸ばす人間が迷わないように、俺たちは棚の中身を並べ直した。蓮先輩の水筒は右向きのまま、俺の水筒は左向きのまま、ひよりのへこんだ水筒は少し斜めに置いた。
その不揃いな並びを見ていると、胸の浅いところで止まっていた呼吸が、ようやく少しだけ深くなった。
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