第5話 練習メニューの向こう側

コートへ続く坂道には、昨夜の雨で剥がれた葉が張りついていた。
靴底が踏むたび、薄い音がする。乾いた葉のように軽くはなく、濡れた紙を押し潰すときのような、頼りない音だった。朝の光は山の斜面へ斜めに差し込み、明るい場所と暗い場所を曲がり角ごとに作っている。俺はその境目を越えるたび、自分の中にある何かまで明るみに出されるような気がした。
コートには、もう蓮先輩がいた。
ネットの中央に立ち、白い帯の高さを確かめている。片手でネットを押さえ、もう片方の手で金具を調整する。いつもなら、その動きには迷いがなかった。今朝も手順そのものは変わらない。けれど、金具を締めたあと、先輩は一度だけ手を止めた。
ほんの半拍。
俺には、それが見えた。
「遅い」
振り向かずに、蓮先輩が言った。
「すみません」
「謝る前に、球を出せ」
「はい」
俺はボール籠を持ち上げた。金属の枠が手のひらへ食い込み、冷たさが皮膚の奥まで伝わってくる。籠の中でボールが重なり合い、歩くたびに乾いた音を立てた。
部員が集まり始める。眠そうな顔、まだ湿った髪、昨日の夕立で乾ききらなかったユニフォーム。誰もが口数少なく、コート脇のベンチや水筒の位置を確かめながら、自分の場所へ散っていく。
蓮先輩は全員が揃うまで何も言わなかった。
いつもなら、遅れて来た一年生へ短く声をかける。ラケットを忘れたやつには予備を渡し、靴紐の緩い部員には足元を見ろと言う。今朝は、誰の忘れ物にも手を伸ばさない。部員たちが自分で気づくのを待っているようにも見えたし、単に先輩自身が余計な動きを控えているようにも見えた。
どちらなのか、俺には分からなかった。
全員が並ぶと、蓮先輩はラケットを脇へ挟んだ。
「基礎打ち十五分。そのあと前衛。無駄を減らせ」
声はいつも通りだった。低く、よく通る。けれど、昨日まで声の底にあった熱が、今朝は少し遠い。乾いた布で拭われたように、音だけがきれいに残っている。
「今日は荷物整理もある。練習の密度を落とすな。三年が抜ける前に、覚えるべきことは覚えろ」
その言葉に、何人かの視線が揺れた。
三年が抜ける。
蓮先輩は、いつもなら引退という言葉をあまり使わない。終わりを直接言わず、次の練習や大会の話へすぐに移る。だが今日は、自分からその先を口にした。
「先輩」
三浦が手を挙げた。
蓮先輩が見る。
「覚えるべきことって、具体的には何ですか」
「自分で考えろ」
「いや、それだと……」
「今まで何を見てきた」
三浦は口を閉じた。
蓮先輩の言い方は厳しかった。けれど、不公平ではない。ただ、いつもなら最後に道筋を残す。何を見ればいいのか、どこから直せばいいのか、必ず一つは示してくれる。
今日は、その一つがなかった。
三浦は困ったようにラケットのグリップを握り直した。俺は彼の指が白くなるのを見た。迷っている。だが、俺も同じだった。
蓮先輩は、俺たちを置いていこうとしているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の内側に焦りが走った。
置いていかれる。先輩がいなくなる。だから、先輩の見てきたものを急いで盗まなければならない。声の出し方も、球の散らし方も、誰をいつ叱るかも。そうしなければ、先輩が去ったあとに残されるのは、空白だけになる。
「望月」
名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
「お前、俺の顔じゃなくて球を見ろ」
「はい」
「返事だけは早いな」
その声に、ひよりが一瞬こちらを見た。けれど何も言わなかった。
ラリーが始まる。
俺の向かいに蓮先輩が立った。先輩が打つ球は、いつもより少しだけ浅い。鋭さはあるのに、最後まで追い込んでこない。俺が一歩遅れれば届かない場所ではなく、届くかどうかぎりぎりの場所へ落としてくる。
一球目を返した。
二球目はネットにかかった。
「足」
蓮先輩が言った。
「見てから動くな。打点へ入る前に、次を決めろ」
俺は頷いた。
次の球へ踏み込む。先輩のラケット面が開く。クロスへ来る。そう思って一歩を出したが、球はストレートへ流れた。身体をひねり、かろうじて返す。返球は浅く浮いた。
蓮先輩の球が、俺の足元へ沈んだ。
ラケットを下げてしまい、ボールが靴先へ当たった。
「今の、わざとですか」
思わず訊いた。
「何が」
「取りやすい場所へ打っていたので」
蓮先輩の目が、わずかに細くなった。
「取りやすいなら取れ」
「でも、先輩ならもっと厳しく打てるはずです」
言ってしまってから、コートの空気が変わった。
先輩はラケットを握ったまま、すぐには返さなかった。遠くで誰かのサーブがネットを叩く音がする。乾いた音が一度、二度と響き、山の斜面へ吸われていった。
「俺がどう打つかは、俺が決める」
「はい」
「お前が考えるのは、自分がどう返すかだ」
「でも、昨日までと違います」
蓮先輩の顎が、ほんの少し引かれた。
「何が」
「球が。いつもより……」
「余裕があるように見えるか」
言葉が詰まった。
先輩はラケットの面を見下ろした。白いグリップは汗を吸い、巻き替えたばかりのときより黄ばんでいる。使い慣れた手の形に沿って、表面には細かな皺が寄っていた。
「余裕じゃない」
先輩が言った。
「相手が取れる球を打つのは、余裕があるからじゃない。取らせるために打つこともある。相手が届くところへ出して、次にどう動くかを見る。全部を潰せば、相手の癖は分からない」
「先輩は、前からそうしていたんですか」
「前からしていた」
「俺には、余裕に見えていました」
「お前は、俺の結果だけ見ていたからだ」
胸の奥へ、硬いものが落ちた。
「結果だけ?」
「俺がどこへ打ったか、どう立ったか、誰に何を言ったか。そういう形だけ見て、自分も同じ形になろうとしていた。でも、同じ形にしたから同じ意味になるわけじゃない」
蓮先輩の声には、苛立ちが混じっていた。俺へ向けたものなのか、自分自身へ向けたものなのか分からない。ただ、昨夜の廊下で聞いた疲れた声に近かった。
「主将は、厳しい球を打ち続ける人じゃない。部員が自分で考える場所を残す人だ。けど、場所を残すと、こっちの不安も増える。何もかも指示した方が楽だ。誰かが失敗しても、俺の指示どおりにやっただけだと言えるからな」
「先輩が、楽をしたいと思うこともあるんですか」
「ある」
答えが早かった。
蓮先輩は少し驚いたように自分の口元を見せた。笑ったわけではない。ただ、今の答えが自分の予定していたものではなかったようだった。
「ずっと、ある。みんなが俺の言う通りに動いて、俺が正しい顔をしていれば、部は崩れない。少なくとも、崩れたようには見えない。でも、そんなやり方は長く続かない。俺がいなくなったら、誰も次の球を決められなくなる」
その言葉に、昨夜の封筒が重なった。
赤ペンで消された文字。頼りなかった。本当は不安だった。まだ終わりたくない。
「だから、俺たちに決めさせようとしているんですか」
「そうしないと、お前たちが困る」
「先輩がいなくなるから?」
「そうだ」
先輩はまっすぐ俺を見た。
「いなくなる人間が、残る人間の全部を決めることはできない。できないのに、最後まで口を出したくなる。自分がいなくなったあとも、部が自分の思い通りに動いてほしいと思う。そんなのは継承じゃない。ただの支配だ」
コートの外から、ひよりの声が飛んだ。
「蓮先輩、いいこと言ってるけど、今の悠真にだけ聞かせるのずるくないですか」
振り向くと、ひよりが後輩のラケットを片手で押し下げていた。後輩は構えを崩したまま、二人の方を見ている。
「練習中に説教するなら、全員に聞こえる声でお願いします。私たちも、そろそろ自分で決めなきゃいけないんでしょ」
蓮先輩は一拍置いた。
「練習に戻れ」
「逃げた」
「戻れ」

「ほら、そういうところ。最後の一言で全部片づけようとする」
ひよりは笑っていた。だが、足先が小さく揺れている。怒っているときの癖だった。
「先輩が何を考えてるか、私たちは全部分からないです。でも、分からないままでも、見たものは残るんですよ。球の打ち方も、声のかけ方も、水筒の置き方も。だから、先輩がいなくなったら、みんな勝手に真似します。真似したくなくても、最初はそうなる。だったら、真似される側が『自分の真似をしろ』みたいな顔をしないでください」
「そんな顔はしていない」
「してます」
「していない」
「してるって。完璧な主将の顔」
ひよりの声が、そこで少しだけ震えた。
「私たちがその顔を見て安心すると思ってるなら、もう十分です。安心するけど、同時に置いていかれるんです。先輩だけが先に終わりへ行って、こっちはまだ、どこへ行くかも決まってないのに」
蓮先輩のラケットが、わずかに下がった。
俺はひよりの顔を見た。彼女は泣いていなかった。泣かない代わりに、言葉を鋭くしている。先輩を責めているようで、その実、自分が置いていかれる怖さを隠せなくなっていた。
「佐伯」
「はい」
「俺だって、どこへ行くか決まっているわけじゃない」
先輩はコートの端へ視線を向けた。
「卒業したら進学する。進学先ではテニスを続けるかもしれない。続けないかもしれない。家では、部活より勉強を優先しろと言われている。俺も、次に何を選ぶのかはまだ決めきれていない」
その話を、俺は初めて聞いた。
蓮先輩にも、部活の外に時間があり、家族がいて、進路を迫る人がいる。完成された背中の向こう側にも、決められないものがある。
「でも、部の前では迷っていないようにしなきゃいけないと思っていた。迷っている主将を見たら、みんなが不安になる。だから、答辞にも感謝だけを書こうとした。ここで得たもの、支えてくれた人、これからの決意。そういう言葉なら、誰も困らない。でも、書いていると、どうしても別の言葉が出てくる」
蓮先輩の視線が、俺へ向いた。
「まだ終わりたくない。ここに残りたい。行かないでくれと思う。そんな言葉を、主将が書いていいのか分からなかった」
ひよりは黙っていた。
俺はラケットを握り直した。摩耗したグリップテープが、手のひらへ食い込む。
「書いていいと思います」
自分の声が、コートの上で思ったより遠くまで届いた。
「答辞で読むかどうかは別として、書いていいと思います。そう思わないと、先輩がここにいた時間まで、きれいな言葉だけにされる気がするから」
蓮先輩は答えなかった。
ひよりが、俺の横から言った。
「でも、読まれたら困りますよね」
「困る」
「じゃあ、私たちは見なかったことにした方がいいですか」
「それも困る」
「わがまま」
「そうだな」
蓮先輩が認めた。
その瞬間、コートの空気が少しだけ緩んだ。笑いが起きたわけではない。ただ、張りつめていた糸が、切れずにわずかなたるみを持った。
西園寺先生が、コート脇からこちらを見ていた。
先生はすぐには近づいてこなかった。水筒の並ぶベンチを見て、次に俺たちの足元を見る。俺の右足が半歩前へ出ている。ひよりはラケットを抱え、蓮先輩はネットの中央から少し外れて立っていた。
「話は終わった?」
先生が訊いた。
「たぶん」
ひよりが答えた。
「たぶんで練習に戻れるなら、十分」
先生はボール籠を持ち上げた。
「望月。お前が次の球出しをして」
「俺が?」
「聞こえなかった?」
「いえ」
俺はボール籠を受け取った。予想より重かった。ボールの数だけではない。先輩がいつも持っていた重さが、そのまま腕に移ってきたようだった。
蓮先輩がコートの反対側へ歩く。
「どこへ出せばいいですか」
俺が訊くと、先輩は振り向いた。
「決めろ」
「……はい」
「ただし、相手が取れない場所へ出せばいいわけじゃない」
その言葉を聞いて、俺はボール籠の中を見た。
一球目を、ひよりの前衛側へ出す。彼女が踏み込み、少し遅れて返す。二球目は三浦のバック側。三浦は身体を開きすぎて、ボールが浮いた。三球目は蓮先輩の足元へ出した。
先輩は一歩だけ入り、深く返した。
球は俺の右肩の少し外へ飛んだ。
俺は追った。
今までなら、先輩の打点を見てから動いていた。けれど今は、打たれる前の足の向きを見た。身体の正面ではなく、わずかに外へ開いている。そこから、次の球筋を読む。
俺は半歩早く踏み出した。
ラケットの先に、ボールが触れた。
返球は浅かったが、ネットを越えた。
「今のはいい」
蓮先輩が言った。
その声には、昨日までと同じ響きがあった。けれど、俺には以前とは違って聞こえた。褒められたから安心するのではなく、自分で見て、自分で動いた結果が、先輩のところまで届いた音だった。
蓮先輩はボールを拾い、俺へ返した。
「今の判断は、俺の真似じゃない」
「そうですか」
「たぶん、お前の方がよく見ていた」
「たぶん、ですか」
「断言すると調子に乗るだろ」
ひよりが横から口を挟んだ。
「もうちょっと乗らせてあげればいいのに。蓮先輩、後輩を褒めるの下手すぎ」
「お前は褒められたいのか」
「別に。でも、褒められたら覚えておきます。言われた方は、ずっと残るから」
その言葉に、ひよりは一瞬だけ口を閉じた。
俺も覚えている。入部したばかりのころ、蓮先輩が一度だけ俺の返球を褒めた日のこと。何でもない一言だったのに、俺はそれを何度も反芻し、部活ノートの端へ書き残していた。あの言葉があったから、俺は今日までラケットを握ってこられた。
受け取ったものは、必ずしも大きな教訓ではない。短い声や、直されたラケット面や、置き直されたベンチの位置。そういう小さなものが、時間の中で重さを持つ。
西園寺先生がホイッスルを鳴らした。
音が山へ抜け、濡れた葉の上で跳ね返った。
「次、前衛。望月は最初に入って」
「俺がですか」
「今日は質問が多いわね」
「すみません」
「謝らなくていい。聞いたなら、入って確かめなさい」
俺はネットの前へ歩いた。
コートの土はまだ湿っている。靴底がわずかに沈み、踏み出すたびに足の裏へ不確かな感触が返ってくる。ネットの向こうでは、蓮先輩がラケットを構えている。ひよりは後衛の位置につき、こちらへ親指を立てた。
「悠真、今度は先輩の顔じゃなくて、肩を見て」
「分かってる」
「ほんとに?」
「たぶん」
ひよりが笑った。
俺も、少しだけ笑った。
蓮先輩がサーブの構えに入る。ボールを二度、地面へつく。いつもなら、その回数まで真似したくなった。けれど今日は、回数ではなく、肩の開きと足の向きを見た。
ボールが上がる。
俺は一歩を出した。
まだ遅い。ラケットの面も安定しない。返球はネットの白帯へ当たり、こちら側へ落ちた。
「もう一度」
蓮先輩が言った。
責める声ではなかった。やり直せという命令でもない。ただ、次があると告げる声だった。
俺は落ちたボールを拾った。濡れた土が指先につき、汗で湿った手のひらへ黒く残る。ボール籠の中には、まだ何球も残っていた。
蓮先輩の動きは、以前より遠く見える。けれど、その遠さは、俺を置き去りにする距離ではなかった。自分で近づかなければ届かない場所として、初めて見えている。
朝の光が、少しずつコートの奥へ進んでいく。
俺はもう一度、ネットの前に立った。先輩の足元ではなく、飛んでくる球を見た。答えを待つのではなく、次に自分が何をするかを決めるために。
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