第4話 乾いた朝、湿った沈黙

翌朝の白樺寮は、昨夜の夕立をまだ床板の奥に抱え込んでいた。

窓の外はよく晴れている。山の端から差し込む光は白く、濡れた葉の一枚一枚を過剰なほど明るくしていた。それなのに、廊下を歩くと足裏から冷えが上がってくる。木の表面は乾いて見えるのに、靴底を置くたび、板の隙間から湿気が押し返してくるようだった。

俺は洗面所の鏡の前に立ち、目の下にできた薄い影を見た。

眠れなかった。正確には、眠りかけるたびに目が覚めた。隣の布団が擦れる音、窓の外で葉から水が落ちる音、遠くで一匹だけ鳴く蝉。そのたびに、昨夜見た紙の赤い跡が浮かんだ。

頼りなかった。

本当は不安だった。

まだ終わりたくない。

何度も消された文字は、消えたふりをして、俺の頭の中に居座っていた。指先で封筒の角を押さえた感触まで残っている。紙は乾いていたのに、そこへ触れた自分の手だけが冷たかった。

蛇口をひねる。山の水は冷たく、手のひらに当たった瞬間、眠気より先に身体を縮ませた。顔を洗い、タオルで拭く。鏡を見ると、少し赤くなった頬の奥に、昨夜とは別の自分がいるように感じた。

何が変わったわけでもない。

蓮先輩は今朝も主将で、俺は二年生のままだ。部の引退日が近づいたことも、合宿が今日で終わることも、昨日から決まっていた。

それなのに、先輩を見るための目だけが、もう昨日までのものではなかった。

食堂へ向かう途中、談話室の前で足が止まった。

壁際に、藤堂蓮先輩の忘れ物バッグが置かれている。いつもなら、持ち手まできちんと揃えて、壁と平行に置かれているはずだった。けれど今朝は、片方の持ち手がねじれ、バッグの底も壁から少し離れている。

ほんのわずかな乱れだった。

誰かが蹴ったわけでも、倒したわけでもない。ただ、置いた人間がいつもの最後の確認をしなかっただけだ。

俺はそのことに気づいてしまった。

蓮先輩が、バッグを整えずに置いた。

それだけで、胃の奥が小さく縮んだ。

昨夜の俺なら、すぐに持ち手を直していたかもしれない。蓮先輩が見たら気にするだろうと思い、何も言わず、何も残さず、元の形へ戻していたはずだ。

けれど、今は手を伸ばせなかった。

整えることは、乱れをなかったことにすることではない。昨夜、蓮先輩はそう言ったわけではないのに、俺にはそんなふうに思えた。乱れたものを見つけたとき、すぐに正しい形へ戻してしまう。それが先輩の優しさであり、同時に、先輩自身を隠すやり方でもあったのかもしれない。

談話室の奥で、誰かが椅子を引いた。

俺は反射的に壁際へ寄った。

藤堂先輩が出てくるのかと思ったが、現れたのは一年生の三浦だった。髪を片側だけ寝かせたまま、眠そうに目をこすっている。俺を見ると、少し驚いた顔をした。

「望月先輩、朝から何してるんですか」

「いや……バッグが」

「蓮先輩の?」

三浦はバッグに目をやった。俺の視線の先を追い、持ち手のねじれに気づいたらしい。

「直さないんですか」

「……今、直そうと思ってた」

嘘ではない。思っていた。ただ、直さなかった。

三浦は不思議そうに俺を見たが、それ以上は何も言わなかった。談話室の端に置かれた洗濯籠を持ち上げる。中から、まだ湿り気を含んだユニフォームの匂いが流れた。汗の塩気と洗剤の甘さが混じり、鼻の奥に残る。

「今日、帰るんですよね」

「うん」

「三年生も、もう来週で終わりですか」

「たぶん」

「たぶんって、先輩なのに分からないんですか」

三浦は冗談のつもりだったのだろう。けれど、俺にはその言葉が軽く刺さった。

来週で終わり。

その言い方なら、何度も聞いたことがある。大会の日程も、引退の手順も、次の役職を決める時期も、部内ではすでに話題になっている。だが、終わる日を知っていることと、終わりを受け入れることは違う。

「三浦」

俺が呼ぶと、彼は振り向いた。

「蓮先輩がいなくなったら、どうなると思う」

「どうって……練習は続くんじゃないですか」

「そうだな」

「主将も、誰かがやるでしょうし」

「誰かって、誰だと思う」

三浦は洗濯籠の縁を握ったまま、言葉を止めた。

「望月先輩じゃないんですか」

胸の中で、昨夜の赤ペンがまた走った。

俺は咄嗟にバッグの持ち手へ手を伸ばした。ねじれをほどき、壁と平行になるように置き直す。やってしまってから、自分の指が先輩の代わりをしたように思えて、手を引いた。

「まだ決まってない」

「でも、望月先輩が一番蓮先輩を見てるじゃないですか」

「見てるだけだよ」

「見てるって、そんなに駄目なことですか」

三浦の声に、少しだけ反発が混じった。普段は先輩の前でよく黙る彼が、珍しくこちらをまっすぐ見ていた。

「俺、蓮先輩が見てるところを見てる望月先輩を、何度も見ました。相手の動きとか、球の高さとか。望月先輩が言ったこと、あとで蓮先輩が同じように直してることもあります」

「それは……」

「だから、見てるだけじゃないと思います」

返事ができなかった。

三浦はそれ以上言わず、洗濯籠を抱えたまま食堂へ向かった。廊下の先で、彼の靴底が湿った床を叩く。遠ざかる音を聞きながら、俺は自分の手を見た。

先輩のバッグの持ち手を直した指。

昨夜、封筒の角を押さえた指。

どちらも俺のものなのに、どちらにも自分の意思が薄かった。

食堂では、すでに何人かの部員が朝食を始めていた。味噌汁の湯気が天井近くに溜まり、木の柱に薄い水滴を作っている。窓は開け放たれていたが、山の湿気は抜けきらず、濡れたユニフォームの匂いが食事の匂いに混ざっていた。

ひよりは俺の向かいに座っていた。

箸を持つ手が妙に速い。ご飯を口へ運び、味噌汁を飲み、漬物をつまむ。その合間に、隣の女子部員へどうでもいい話を振っている。

「売店のスポドリ、昨日のより今日の方が薄くない?」

「同じメーカーでしょ」

「じゃあ私の舌が合宿四日目仕様になったんだよ。ほら、疲れると味覚も雑になるから」

「何それ」

「蓮先輩、聞いた? 私、今日から味に厳しい女になる」

蓮先輩は、少し離れた席で味噌汁を飲んでいた。

「まずは箸の持ち方から直せ」

「朝一番にそこ来る?」

「食事の姿勢は大事だ」

「主将が食堂まで支配してくるんだけど」

ひよりは笑った。周囲からも小さな笑いが起きる。けれど、蓮先輩へ視線を向けた瞬間、ひよりの声はわずかに尖った。

「先輩、今日はバッグ、曲がってましたよ」

蓮先輩の箸が止まった。

ほんの一瞬だった。味噌汁の椀を置く動作も、顔を上げるまでの間も、昨日までと同じように見えた。けれど俺には、その一瞬が長かった。

「そうか」

「そうか、じゃないですよ。あれ、蓮先輩が一番嫌がる置き方でしょ」

「よく見てるな」

「見てますよ。何年、先輩の水筒並べてると思ってるんですか」

「水筒を並べることを自慢するな」

「自慢じゃなくて、観察です。悠真と一緒」

ひよりがこちらを見た。

箸の先が、俺の方を向く。

食堂の音が一段遠くなった気がした。隣の席で茶碗を置く音、窓の外の蝉の声、食器を洗う水の音。それらが薄い膜の向こうに移り、俺とひよりと蓮先輩の間だけ、別の空気になった。

「俺を巻き込むなよ」

やっとそう言うと、ひよりは鼻から小さく息を吐いた。

「巻き込んでない。最初から一緒に見てたじゃん」

蓮先輩がこちらを見る。

その目に、問いはなかった。けれど、何かを確認するような静かな重さがあった。

俺は味噌汁の椀へ視線を落とした。表面に浮いた油が、窓から入る光を細く反射している。

「何を?」

蓮先輩が訊いた。

ひよりはすぐに答えなかった。いつもの彼女なら、冗談で逃げ道を作る。けれど今日は、箸を置いた。

「バッグが曲がってたこと」

「それだけか」

低い声だった。

蓮先輩は、味噌汁を飲むタイミングまで崩さない。椀を持つ指も、背筋も、視線の置き方も、すべて普段のままだった。だが、その整った所作が今は痛かった。きれいに保たれた表面の下に、赤い線で何度も消された言葉がある。

ひよりが口を開きかけ、閉じた。

俺には、蓮先輩の喉が動くのが見えた。言葉を飲み込んだのか、味噌汁を飲んだだけなのか、判断できなかった。俺は人の沈黙を見すぎる。声の高さ、呼吸の長さ、視線が床へ落ちる角度。細部を拾えば拾うほど、肝心のことは分からなくなる。

「蓮先輩」

俺は呼んだ。

先輩がこちらを見た。

「何だ」

「昨日の……」

言いかけて、喉が閉じた。

封筒。答辞。赤ペン。まだ終わりたくない。

どの言葉から出しても、取り返しがつかない気がした。食堂という人の多い場所では、先輩の本音を置くには明るすぎる。けれど、何も言わないままでは、昨夜から続いている沈黙の中に、自分まで加わることになる。

「昨日の、練習メニューのことです」

咄嗟に別の言葉へ逃げた。

「今日、変更ありますか」

ひよりがこちらを見た。蓮先輩は一拍置いてから答えた。

「基礎打ちを少し短くする。午後に荷物整理がある」

「分かりました」

「それだけか」

「はい」

先輩の目が、わずかに細くなった。

「そうか」

それ以上は何も言わなかった。

ひよりは再び箸を持ったが、さっきまでの速さには戻らなかった。口数も減った。食堂の空気は元に戻ったように見えて、実際にはどこにも戻っていなかった。

食事を終えると、俺は空になった水筒を持って外へ出た。

水筒の中身は、夜のあいだに冷えていた。蓋を開けて一気に飲むと、喉の奥が冷たくなり、汗の残る身体へ水が落ちていく。冷たさに少し救われた気がしたが、それもすぐに消えた。

コートへ続く坂道には、昨夜の雨で剥がれた葉が張りついていた。靴底が踏むたび、薄い音を立てる。朝の光は強いのに、山道の片側にはまだ影が残っている。明るい場所と暗い場所が、曲がり角ごとに交互に現れた。

俺は何度も前を歩く蓮先輩の背中を探した。

先輩はもうコートにいるはずだった。誰より早く出て、ネットの高さを確認し、ライン際の泥を払っている。いつもなら、その姿を見つければ安心した。自分も同じ場所へ立てば、何をすればいいのか分かるからだ。

けれど今日は、安心より先に、怖さが来た。

先輩が何も変わらずに動けてしまうことが怖い。昨夜の言葉が、まるでなかったように、今日も主将の声を出せてしまうことが怖い。そして、俺がその姿にまた惹かれ、また真似をし、何も分からないまま背中だけを追ってしまうことが、一番怖かった。

坂を下りきると、コートが見えた。

蓮先輩は、ネット脇の白線にしゃがみ込んでいた。指先で土を払い、浮いたラインを押さえている。背筋は伸びていた。顔を上げたとき、先輩の視線がこちらへ向いた。

「遅い」

「すみません」

「謝る前に、球を出せ」

「はい」

ラケットを握る。

グリップテープが手のひらへ食い込んだ。摩耗した部分が指に引っかかり、先輩からもらった白いテープの端が、また少しだけほどけている。

俺はそれを巻き直そうとした。

だが、今日は先輩と同じ巻き方にしなかった。何度も見て覚えた、隙間のない整った巻き方ではなく、少しだけ幅を変えた。握ったときに、自分の指がいちばん落ち着く位置へ合わせた。

巻き終えたグリップは、蓮先輩のものより不格好だった。

それでも、手の中には俺のラケットの重さがあった。

「何してる」

先輩が訊いた。

「巻き直してます」

「見れば分かる」

「少し、巻き方を変えました」

蓮先輩は俺の手元を見た。いつものようにすぐ直すのかと思った。けれど、先輩は何も言わなかった。

「打ってみろ」

「はい」

球出しが始まった。

朝のコートはまだ完全には乾いていなかった。踏み込むたび、靴底から湿った土の感触が伝わってくる。ラケットに当たった球は、乾いた音ではなく、少し鈍い音を返した。

俺は先輩の右手を見ないようにした。

見たくなる。握り替えの速さを確かめたい。打点に入る一歩を盗みたい。けれど今日は、先輩の手ではなく、飛んでくる球を見た。

一球目はネットにかかった。

二球目は浅く浮いた。

三球目、俺は少し遅れて踏み込み、身体の正面で受けた。球は相手コートの深いところへ返った。

蓮先輩が短く頷いた。

「今のはいい」

たったそれだけの言葉だった。

それでも、胸の奥へまっすぐ入ってきた。先輩に褒められた記憶は、今まで何度も思い返してきた。けれど今日は、その声を蓮先輩のものとして受け取るだけではなく、自分の返球が確かにそこへ届いた音として聞けた。

コートの向こうで、ひよりが後輩に声をかけている。

「今の、腕だけで打ったでしょ。足を先に入れて。蓮先輩ならたぶん、もっと怖い言い方するけど、私は今日は優しいから」

「ひより先輩、それ優しいですか」

「声を荒げてないから優しい」

笑いが起きた。

その笑いは、食堂でのものより少しだけ自然だった。蓮先輩も一瞬だけ口元を緩めたが、すぐに視線をコートへ戻した。

俺は先輩の横顔を見た。

赤いペンで消された文字は、そこにはない。見えるはずがない。それでも、先輩の輪郭の内側に、あの言葉がまだ息をしているように思えた。

残りたい。

その気持ちを抱えたままでも、先輩は球を出し、ラインを直し、後輩のフォームを見ている。何も迷わない人間だからではない。迷いを持ったまま、今日の一球を次へ渡している。

そのことが、今の俺には少しだけ分かり始めていた。

練習の合間、西園寺先生がコート脇の水筒を見回った。置き場所の乱れに気づいても、すぐには直さなかった。俺の水筒は、蓋が左を向いている。昨日までなら、蓮先輩の右向きに合わせていたはずだった。

先生は水筒を見て、次に俺を見た。

何か言われると思った。

けれど先生は、ただ一度だけ頷き、コートの反対側へ歩いていった。

その背中を見送りながら、俺はラケットを握り直した。

まだ、何も決められていない。主将になるのかも、進路をどうするのかも、蓮先輩の背中から何を受け取るのかも。

ただ、昨夜までの俺は、決められない自分を隠すために先輩を見ていた。

今は、決められないままでも、自分の手元を見られる気がした。

朝の光がコートを乾かしていく。白線の上に残っていた水が、細い光を返しながら少しずつ消えていった。空気はまだ湿っている。夏の終わりは、いつまでも身体から汗を奪っていかない。

それでも、俺は次の球へ足を入れた。

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