第3話 夜の廊下に残るもの

夜が更けると、白樺寮は音の少ない建物になった。
壁が薄いせいで、窓の外ではまだ蝉が鳴いているのに、その声は遠くから届くというより、耳の内側をこすっているように聞こえる。誰かの寝返りで畳がきしみ、廊下の向こうで水道の蛇口が一度だけ鳴った。それきり、寮全体が息を止めたように静まった。
俺は眠れなかった。
布団に横になっていると、昼間の光景が何度も戻ってくる。蓮先輩の右手。ラケット面を直す指先。水筒のキャップを右へ向ける癖。ひよりが笑いながら、笑い終わる前に目を伏せたこと。
どれも見慣れたものなのに、今日はひとつひとつが、手の届かない場所にあるように感じられた。
俺は枕元のグリップテープを取り上げた。先輩からもらった、少し擦れた白いテープだ。何度も巻き直して使っているうちに端が毛羽立ち、指先でいじると細い繊維が引っかかる。俺はその端を爪で押さえながら、そっと廊下へ出た。
木床は昼間より冷えていた。裸足ではないのに、足裏から湿った冷気が上がってくる。廊下の端に置かれた非常灯が、床板の節を薄く照らしていた。窓の外は暗く、山の斜面には夕立の名残が残っている。葉の上で溜まった水が、思い出したように一滴ずつ落ちていた。
ぽつ、ぽつ、と間を空けて続く音が、誰かの返事を待っているように聞こえた。
その先に、蓮先輩がいた。
談話室の脇にしゃがみ込み、忘れ物バッグの口を結び直している。昼間、ひよりが水筒を並べていた場所だった。バッグはもう空ではないらしく、持ち手のあたりが少し膨らんでいる。先輩は中身を確かめ、タオルの端を折り、ラケットのグリップが他のものに当たらないよう位置を直していた。
動きはいつも通り丁寧だった。
けれど、結び目を作る指先だけが、ほんの少し硬い。
俺は廊下の角で立ち止まった。声をかけるべきか迷った。蓮先輩が何をしているのかは分かっている。忘れ物を整理しているだけだ。いつもなら、俺が手伝います、と言えばいい。先輩はたぶん断るか、短く礼を言う。そのあと、明日の練習の話をする。
それだけのことなのに、口が動かなかった。
先輩がバッグの中から白い封筒を取り出した。
心臓が一度、大きく跳ねた。
封筒は先ほど俺が見つけたものと同じだった。角が少しつぶれている。蓮先輩はそれを指先でなぞり、開けることなく、バッグのいちばん底へしまった。何かを片づけるというより、見えないところへ押し込むような仕草だった。
俺は足元を見た。
見てはいけない。声をかけてはいけない。そう思いながら、視線だけが先輩の手元へ戻ってしまう。
蓮先輩が顔を上げた。
視線が、一瞬だけこちらに触れた気がした。
俺は反射的に柱の陰へ身を引いた。背中が冷たい木の壁に当たる。息を止めたまま、先輩の足音を待った。だが、足音は近づいてこなかった。
「そこにいるなら、隠れなくていい」
声がした。
俺はゆっくり柱の陰から出た。蓮先輩は立ち上がっていた。背筋は伸びている。けれど、顎がいつもより少しだけ引かれていた。
「すみません」
「何が」
「……見てました」
「何を」
「先輩が、バッグを整理してるところを」
蓮先輩はすぐには答えなかった。廊下の窓から、雨の滴が落ちる音がする。先輩はバッグの口を結び、結び目を一度強く引いた。
「忘れ物を片づけてただけだ」
「はい」
「なら、謝る必要はない」
「でも、こんな時間に……」
「お前も寝られないのか」
「はい」
返事をしてから、俺は自分の声が妙に幼く響いたことに気づいた。蓮先輩はそれを笑わなかった。バッグを床へ置き、廊下の窓の外へ視線を向ける。
「合宿の最後は、眠れないやつが増える」
「先輩もですか」
「俺は、眠れる」
答えるまでに、いつもより長い間があった。
俺はその間を聞き逃さなかった。聞き逃せない自分が嫌だった。何でもない沈黙まで意味のあるものに変えてしまう。先輩が一度息を吸い、何かを言おうとして、別の言葉に置き換える。その癖まで見えてしまう。
「……本当に、眠れるんですか」
先輩は俺を見た。
「何が言いたい」
「いえ」
「言いかけたなら、最後まで言え」
普段の練習中なら、そこで背筋を正して言葉を探す。でも今は、言えば戻れない気がした。答辞のことを知っていると伝えれば、先輩の顔から何かが落ちる。俺が見てはいけなかったものを、先輩の目の前へ置くことになる。
「先輩は、卒業したら……」
声がそこで途切れた。
蓮先輩は目を逸らさなかった。ただ、バッグの持ち手を握る手に力が入った。革の表面がわずかにへこむ。
「卒業したら、部には毎日来られない」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
先輩の返事は静かだった。
「行きたくないのかって聞きたいんだろ」
胸の奥が急に冷えた。
俺は何も言えなかった。蓮先輩は窓の外を見たまま、続けた。
「行きたくないよ」
その言葉は、廊下の暗がりに落ちても消えなかった。
「ここを離れたくない。朝、誰より先にコートへ行って、ラインの浮きを直して、みんなが来る前に球を出して、練習が終わったあとに忘れ物を拾う。そういうことを、まだ続けたいと思ってる。卒業しても、時間があれば来ればいい。そう言われるかもしれない。でも、同じ立場ではいられない。俺がここに立っていた時間は、俺がいなくなった瞬間に終わる」
先輩の声は乱れていなかった。乱れていないからこそ、その一つひとつが重かった。
「主将として、終わったと言わなきゃいけない。後輩には前を向けと言わなきゃいけない。俺が残りたい顔をしていたら、次のやつが立てない。だから、ちゃんと去るふりをしてる」
「ふり、なんですか」
「ふりだよ。少なくとも、最初から平気だったわけじゃない」
俺はグリップテープの端を指でつまんだ。毛羽立った繊維が皮膚に食い込む。
「答辞に書いていたんですか」
言ってしまった。
蓮先輩の目が、初めてはっきり揺れた。
「見たのか」
問い詰める声ではなかった。怒鳴られた方が、まだ楽だったかもしれない。先輩の声には、怒りより先に、何かを見つけられてしまった人間の疲れがあった。
俺は頷いた。
「勝手に見ました。すみません」
「ひとりで?」
「ひよりもいました。一年の三浦も……」
蓮先輩は目を閉じた。長い一呼吸のあと、バッグの口へ手を置く。
「そうか」
「本当に、すみません」
「だから謝るな」
「でも」
「謝られると、俺が許す側になる。そうすると、話がそこで終わる」
その言い方が、昼間のひよりと重なった。
蓮先輩は続けた。
「見られたことは、正直に言えば嫌だ。あれは誰かに読ませるために書いたものじゃない。感謝だけで終われない自分を、どうにか紙の中に押し込めようとしていた。書いて、消して、また書いて。何度もやっているうちに、赤ペンの跡まで残った。自分で読んでも、情けないと思う」
「情けなくないです」
言葉が思ったより早く出た。
蓮先輩がこちらを見る。
「何が分かる」
「分かりません。でも、情けなくないです」
「同じことだ」
「違います」
自分でも驚くほど強く言っていた。喉が震えていたが、言葉は止まらなかった。
「先輩は、ずっとちゃんとしてました。練習でも、片づけでも、誰かが困る前に気づいて、何でも先に整えていた。俺はそれを見て、先輩は迷わない人なんだと思ってました。でも、迷わないんじゃなくて、迷っているところを見せないようにしていただけなら……それでも、俺は先輩を尊敬します。むしろ、何も怖くない人より、怖いまま主将をやっていた人の方が、俺には信じられます」
蓮先輩は黙っていた。
俺は言い過ぎたと思った。口の中が乾き、舌に汗の塩気が残る。撤回したくなったが、今さらできなかった。
「俺は先輩みたいになりたかったんです」
「知ってる」

「でも、なれません」
「それも知ってる」
胸を刺されたような気がした。先輩は視線を落とし、少しだけ口元を緩めた。
「お前は、俺の足音まで真似ようとする。廊下を歩くとき、俺がどこを踏むか見てるだろ」
俺は答えられなかった。
「でも、真似しなくていい。俺だって、前の主将の真似をして始めた。声の出し方も、練習の組み方も、最初は借り物だった。借り物のままでは続かなかった。自分が失敗したとき、前の主将の言葉では誰も納得しない。結局、自分が何を怖がっていて、何を残したいのかを言うしかなかった」
「先輩にも、そういう時期があったんですか」
「俺を何だと思ってる」
「……完成された人だと」
蓮先輩は短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。けれど、笑い声にはならなかった。
「それが一番困る。完璧だと思われると、失敗したときに部まで揺れる。だから、崩れないようにしていた。けど、崩れない人間なんていない」
廊下の外で、葉から水が落ちた。
「お前たちが読んだ原稿に、『まだ終わりたくない』と書いてあっただろ」
俺は頷いた。
「あれは消すつもりだった。あんなものを答辞で読むわけにはいかない。けど、消しても消しても、また書いてしまう。残りたいと思う気持ちは、主将失格の証拠じゃない。ここにいた時間が本物だった証拠だと思いたかった。でも、そう思うまでに時間がかかった」
蓮先輩の指が、バッグの持ち手から離れた。
「行きたくないと言えないまま行く人間もいる。俺も、たぶんその一人だ」
その言葉を聞いたとき、俺の中で何かがずれた。
先輩が弱くなったのではなかった。弱さを抱えたまま、先輩の役目を続けていた。そのことを、俺は今まで「迷いがない」と勘違いしていたのだ。
「明日、みんなに言うんですか」
「答辞のことを?」
「はい」
「言わない。言う必要もない」
「でも、見たことを隠したままでは……」
「隠すことと、すべてをさらすことは違う」
蓮先輩は一度、白い封筒の入ったバッグへ目を落とした。
「ただ、お前たちが見たことを、なかったことにするつもりもない。明日、俺に言いたいことがあるなら言えばいい。俺も、聞く。主将としてじゃなく、蓮として」
「蓮先輩として?」
「そう呼ぶのは、まだ難しいだろうけどな」
「はい」
答えると、先輩は今度こそ少し笑った。
「お前は、明日何を言う」
俺は床の節目を見た。白い線のような木目が、廊下の先へ伸びている。
「分かりません」
「なら、分からないまま来い」
「それでいいんですか」
「いい。決まった言葉を持ってくるな。俺が書いた答辞みたいに、きれいに整えなくていい」
先輩はバッグを持ち上げた。けれど、いつものように軽々とは扱わなかった。肩に掛ける前に、一度だけ重さを確かめるように両手で持つ。
「受け取るっていうのは、俺の真似をすることじゃない。俺が置いていくものを、全部そのまま抱えることでもない。必要なものだけ選んで、自分の手で持ち直すことだ」
俺はその言葉を、すぐには理解できなかった。
ただ、先輩のバッグの中には、使い古したタオルも、ラケットも、水筒も、そして何度も書き直された答辞も入っている。先輩はそれらを捨てずに、けれど永遠に抱えていくわけでもない。明日には誰かへ渡すものと、自分の手元に残すものを決めるのだろう。
蓮先輩が歩き出した。
二歩目で、俺は声をかけた。
「先輩」
蓮先輩が振り返る。
「俺、先輩みたいにはなれないです」
「知ってる」
「でも、先輩が怖かったことを、なかったことにはしたくないです」
先輩は返事の前に一拍置いた。
「それなら、十分だ」
その声は、練習中の主将の声より少し低く、疲れていた。けれど、今まで聞いたどの声よりも近かった。
先輩が階段を下りていく。軋みが一段ずつ遠ざかる。俺はその音を、もう別の誰かの足音だとは思わなかった。先輩が歩いた場所を、自分の耳で聞いていた。
しばらくして、背後から足音がした。
「やっぱりいた」
ひよりだった。お気に入りのヘアゴムで髪を束ね、擦り切れたタオルを肩に掛けている。俺の手元を見るなり、指でグリップテープの端を示した。
「そんなに巻いて、手汗でも止まると思ってる?」
「止まらないと思う」
「珍しく素直じゃん」
ひよりは俺の隣に立った。先輩が消えた階段を見下ろし、すぐには何も言わなかった。いつもなら、何か軽口を挟むはずだった。けれど今夜は、彼女も沈黙をそのまま置いていた。
「話した?」
「少し」
「蓮先輩と?」
「うん」
「何て言ってた」
俺は答えようとして、言葉を選んだ。
「行きたくないって」
ひよりの足先が止まる。
「……そっか」
それだけ言って、彼女は窓の外へ顔を向けた。雨上がりの山は暗く、葉の先だけが街灯の光を拾っている。
「私も、行きたくないって言えばよかったのかな」
「ひよりが?」
「私だって、三年生になったらここを出るじゃん。今は残る側だけど、ずっと残れるわけじゃない。なのに、先輩のことばかり考えて、自分はまだ大丈夫みたいな顔してた」
「大丈夫じゃないのか」
「大丈夫じゃないよ」
ひよりは笑った。今度の笑いは、少しだけ音になった。
「でも、悠真がいるから、たぶん何とかなる」
「俺は何ともできない」
「そういうところ。すぐ逃げる」
「逃げてない」
「逃げてる。自分にできないって言えば、やらなくていいから」
ひよりの声は強かった。でも、言い終わったあと、彼女は自分のタオルの端を握った。
「ごめん。言いすぎた」
「ひよりが謝るの、珍しい」
「うるさい」
「でも、たぶん……少しだけ、やってみる」
「何を」
「先輩の真似じゃなくて。俺ができることを」
ひよりは俺を見た。暗い廊下で、その目だけがはっきりしていた。
「なら、明日、水筒の向きから変えてみれば」
「そこから?」
「そこから。蓮先輩が右向きにしてたからって、悠真まで右向きにする必要はない。左がいいなら左でいい。ただし、自分で決めたなら、誰かに直されても怒らないこと」
「難しいな」
「主将って、そういう地味に面倒なことの連続でしょ」
ひよりはそう言って、談話室へ戻っていった。散らかった水筒を一つずつ拾い、蓋の向きを揃え始める。右を向けるもの、左を向けるもの。彼女は今夜、それをわざと混ぜて置いた。
俺は廊下の窓を開けた。
雨上がりの土の匂いが、冷えた空気と一緒に流れ込んでくる。遠くで蝉が一匹鳴き、その声はすぐに山の暗がりへ吸い込まれた。
白樺寮の床はまだ湿っている。足音は相変わらず、自分のものとは思えないほど小さい。
それでも今度は、振り返らなかった。
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