第2話 消えた言葉

ひよりは、俺の背後で息を止めたまま、しばらく動かなかった。
談話室の窓は半分だけ開いていて、夕立のあとの湿った風が、網戸の隙間から入り込んでいた。濡れた土と白樺の葉の匂いが、洗濯物の生乾きの臭いに混じっている。テーブルの上には、仕分けの途中で放り出されたタオルと、誰かが飲みかけたスポーツドリンクの缶があった。缶の表面には水滴が浮き、木の天板に小さな輪を作っている。
「それ、蓮先輩の?」
ひよりの声は低かった。
俺は答えず、封筒を両手で持ったまま立っていた。白い紙の角が、さっきから指の腹に食い込んでいる。戻さなければならない。そう思っているのに、身体は封筒を手放すことを拒んでいた。
洗面所から戻ってきた一年の三浦が、タオルを抱えたまま戸口で立ち止まった。俺とひよりの間にあるものを見て、顔から血の気が引いていく。
「……何、それ」
「知らない」
ひよりが先に言った。
「今、知らないって言った?」
「言った。だから、あんたも知らない」
三浦は困ったように目を泳がせた。いつもなら、ひよりはそこで冗談を入れる。先輩の秘密を見つけた、なんて大げさに言って笑わせるか、逆に何でもないふりをしてタオルを奪い取る。けれど今日は、口元さえ動かなかった。
俺は封筒をバッグの中へ戻そうとした。開いた口に差し入れ、紙を押し込む。そのとき、原稿の一枚がわずかにずれて、赤い文字の一部が見えた。
――まだ、終わりたくない。
その下に、何度も線を引かれた跡があった。赤ペンで消された線は、文字を隠すというより、そこに書かれた気持ちそのものを押し潰そうとしているようだった。
「戻しとけば済む」
ひよりが言った。
「見なかったことにして、バッグを元の場所に置く。それでいい。蓮先輩が何を書いてたかなんて、私たちが知る必要ない」
「でも……」
「でも、何」
「これ、答辞だろ。卒業式の」
「だから何。本人が書いて、本人が消した。そこまでで終わってる」
ひよりの言葉は速かった。速すぎる。何かを考える前に口から出してしまうときの話し方だった。足先が床を細かく叩いている。ひよりは自分でもそれに気づいていないらしい。
俺は原稿の端から目を離せなかった。
「消したからって、なくなったわけじゃない」
言うと、ひよりの足先が止まった。
「……悠真、そういうこと言うときだけ、急に重いんだよ」
「見えたものを、なかったことにはできないだろ」
「見えたもの全部に責任持つつもり?」
「そうじゃない」
「じゃあ何。蓮先輩の本音を見つけたから、俺たちが拾ってあげなきゃいけないって? その人が自分で隠したものまで、勝手に日の当たるところへ出してあげるの?」
ひよりの声が少しずつ尖っていった。三浦が抱えているタオルの山を、腕の中で抱え直す。濡れた布から、汗の乾いた塩気が漂ってきた。
「違う。そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どんなつもり?」
返せなかった。
俺自身、何をしたいのか分かっていなかった。ただ、赤ペンの線の下にある言葉を見てしまってから、封筒を閉じるだけでは足りないように感じていた。蓮先輩が何度も書き直した時間を、俺たちが知らないふりをして元のバッグに戻す。それは、先輩の迷いをもう一度バッグの底へ押し込むことのように思えた。
「俺は……」
声が喉に引っかかった。
「蓮先輩が、こんなふうに書くと思ってなかった」
「私だって思ってなかったよ」
ひよりは笑おうとした。けれど、口角だけが引きつって、音にならなかった。
「もっとさ、最初から最後まできれいな文章を書いてると思ってた。『仲間に恵まれました』とか、『後輩たちのさらなる活躍を願います』とか。そういうのを、迷わず書いて、迷わず読める人だと思ってた」
「……俺も」
「でも、違った。あの人も、行きたくないんだね」
ひよりの言葉が、濡れた床に落ちた水滴のように、静かに広がった。
三浦が小さく息を呑む。
「蓮先輩、卒業したら部活来なくなるんですか」
ひよりは三浦を見た。その顔には、怒りと困惑と、急に年下を守らなければならなくなったような疲れが浮かんでいた。
「来るかもしれないし、来ないかもしれない。大学もあるし、そんな毎日ここにいられるわけじゃないでしょ」
「でも、主将がいなくなったら……」
「主将がいなくても部は続くよ」
「誰が決めるんですか」
三浦の声が震えた。
ひよりはすぐに答えなかった。普段なら、そんなの次の主将が決めるに決まってる、と言うはずだった。自分がそう言われたら腹を立てるくらい、簡単な答えを返すはずだった。
けれど、ひよりは視線を落とした。
「……誰かが決めるんじゃない。残った人間が、毎日少しずつ決めるんだと思う」
その言葉は、俺に向けられているようにも聞こえた。
談話室の外で、階段が軋んだ。
一段、また一段と、ゆっくり上ってくる音だった。三人とも黙った。木造の寮は、誰かが歩くだけでその人間の重さを伝えてくる。軋みの間隔で、急いでいるのか、疲れているのか、俺にはなんとなく分かった。
やがて戸口に、西園寺先生が現れた。
濡れた髪を後ろでひとつに束ね、片手に古い鍵束を持っている。先生は俺の手元の封筒を見た。次に、ひより、三浦の顔を見る。問いただすことも、驚くこともなかった。ただ、机の端に寄せられた水筒をひとつずつ拾い、並べ直した。蓋の向きまで揃えていく。
「何をしているの」
先生が訊いた。
「洗濯物の仕分けです」
ひよりが答えた。
「それは見れば分かる」
「じゃあ、分かってるなら聞かないでください」
ひよりの語尾は、明らかに強かった。
先生はひよりの顔ではなく、彼女の指先を見た。荒れて赤くなった爪の脇。濡れたタオルを握りすぎて白くなった指。ひよりはその視線に気づくと、タオルを机へ置いた。
「蓮のバッグ?」
先生が言った。
俺の手の中で、封筒がわずかに鳴った。
「……はい」
「中身を見たのね」
俺は頷いた。
「すみません」
謝った瞬間、ひよりがこちらを振り向いた。
「悠真、謝るの早すぎ」
「でも、勝手に見たから」
「そうやってすぐ自分だけ悪いことにして、話を終わらせようとするなよ」
「終わらせようとしてない」
「してる。謝ったら、もう誰も何も言えなくなるから」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
思ったより大きな声が出た。胸の内側に溜まっていたものが、言葉の形を借りて飛び出した。
「見たことを言えばいいのか。蓮先輩に、答辞を読みましたって言えばいいのか。そこに『まだ終わりたくない』って書いてありましたって、俺たちが伝えるのか。それが先輩のためになるのかよ」
「知らないよ」
ひよりはすぐに返した。
「そんなの、私だって知らない。でも、知らないからって黙ってればいいの? 蓮先輩は、あんなに全部分かってる顔をしてるのに、本当は分かってないことがあるんだって、私たちは見たんだよ。だったら、見た側がどうするかくらい、自分で考えろよ」
「考えてる」
「考えてるだけで、もう夜になる」
「ひよりだって、戻しとけば済むって言っただろ」
「言ったよ。言ったけど、それで済むと思ってないから言ったんだよ」

ひよりの声が、そこで初めて崩れた。
「私、こういうの、前にもやったことあるから。何も言わないで、相手が平気そうにしてるから、平気なんだと思って、そのままにした。そしたら、次に会ったときにはもう話せなくなってた。言えばよかったって思った。ずっと思った。でも、後から言っても、もう遅いことってあるんだよ」
談話室の中に、洗濯機の回る音だけが残った。低い振動が床から伝わり、足の裏を細かく揺らしている。
先生は封筒へ手を伸ばさなかった。
「読んだのなら、読んだ事実は消えない」
先生は静かに言った。
「でも、読んだことを理由に、相手の言葉を奪ってはいけない。あなたたちが先に意味を決めて、本人に返すのも違う」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
俺が訊くと、先生は少しだけ目を細めた。
「それを、あなたたちが決めるの」
「先生は……蓮先輩が書いていたこと、知ってたんですか」
ひよりが訊いた。
先生はすぐには答えなかった。鍵束の金属が、指の間で小さく触れ合う。
「答辞を書いていることは知っていた。何度も書き直していることも」
「じゃあ、何で何も言わなかったんですか」
「本人が話していないから」
「でも、先生なら分かってたんでしょう。蓮先輩が、行きたくないって思ってること」
「分かったつもりになるのと、本人の言葉を聞くのは別よ」
ひよりは唇を噛んだ。
「大人って、そうやって待ってればいいから楽ですよね。こっちは、明日も同じ顔で練習しなきゃいけないのに」
「楽ではないわ」
先生の声は低かった。叱っているわけではないのに、談話室の空気が一段冷えた。
「待つことは、何もしないことではない。言葉を急いで与えないために、何度も自分の手を止めることよ。あなたたちが今、蓮に何を言うべきか決められないように、私もあなたたちに正解を渡せない」
ひよりは顔を上げた。
「正解なんて、欲しくないです」
「そう」
「ただ、何もなかったみたいに笑うのは嫌です」
「なら、笑わなければいい」
「そんな簡単に……」
「簡単ではないでしょうね。でも、笑わないことと、蓮を責めることは同じではない」
先生の視線が、俺に移った。
「望月。あなたは、今、何を見たと思っているの」
急に名前を呼ばれて、喉が狭くなった。
蓮先輩の赤い文字。消された線。整えられたバッグ。いつもより長い沈黙。俺の頭の中に、見たものが一度に押し寄せた。
「……蓮先輩が、弱いところを書いたんだと思います」
「弱い?」
「はい」
「それだけ?」
俺は封筒を見下ろした。
「部を離れたくないって。まだ、ここにいたいって。……残りたいって」
口にした瞬間、その言葉が紙の上にあったときより生々しくなった。ひよりが目を伏せ、三浦がタオルの端を握りしめる。
先生は頷かなかった。否定もしなかった。
「それは、あなたの言葉ね」
「でも、原稿に……」
「原稿にあった言葉を、あなたがどう受け取ったかは、あなたのものよ。蓮のものではない」
その違いが、すぐには理解できなかった。
先生は談話室の窓を少し閉めた。外から入っていた風が細くなり、代わりに木と洗剤と汗の匂いが濃くなる。閉じ込められたような息苦しさが、胸の奥に溜まった。
「封筒は、今夜はあなたたちが持っていなさい」
「え?」
ひよりが声を上げた。
「明日の朝、本人に返す。見たことを隠すか、伝えるかも、そのときに決めればいい。ただし、決める前に、蓮の言葉をあなたたちの都合のいい物語にしないこと」
「都合のいい物語って……」
「完璧な主将が実は弱かった。だから私たちは分かってあげられる。そういう話にするのは簡単よ」
先生は水筒のひとつを持ち上げた。蓮先輩のものだった。キャップが右を向いている。
「でも、人は誰かに理解されるために弱るわけではない。残りたいと思ったままでも、去る準備をする人はいる。行きたくないと言えないまま、行く人もいる。その矛盾を、きれいにまとめないこと」
先生は水筒を元の場所へ戻した。
「真似るだけでは残らない」
その言葉は、昨日と同じだった。けれど今度は、俺の中で違う場所に落ちた。蓮先輩の動きも、声も、立ち方も、何ひとつ借りたままではいられない。先輩の弱さを見つけたからといって、それを理解したつもりになることも、また別の模倣なのかもしれなかった。
先生が談話室を出ていくと、ひよりは長く息を吐いた。
「先生って、ほんと意地悪」
「でも、正しいと思う」
「正しいから嫌なんだよ」
ひよりは封筒を俺の手から取った。さっきまで乱れていた髪を耳にかけ、紙をバッグの中へ戻す。封筒の角を丁寧に揃え、蓮先輩のバッグの口を閉じた。
「今夜は、誰にも言わない」
「うん」
「でも、明日、返す」
「うん」
「そのとき、私が先に喋ったら止めて」
「ひよりが?」
「私、黙ってると余計なこと考えるから。たぶん最初に怒る。『なんでこんなの書いたんですか』とか言うかもしれない」
「怒るのか」
「怒るよ。だって、行きたくないなら行きたくないって、こっちにも言えばいいじゃん。先輩なんだから、最後まで一人で格好つけないでほしい」
言葉の終わりで、ひよりは鼻から小さく息を吐いた。
「……でも、言えないよね。言ったら、本当に行かないといけなくなるから」
俺は返事をしなかった。
その夜、部屋に戻ってからも、眠りは浅かった。薄い寝具のざらつきが背中に当たり、隣の布団から誰かの寝返りの音がする。窓の外では、遠くの蝉が一匹だけ鳴いていた。鳴き始めて、途切れ、また鳴く。その間隔が、蓮先輩の返事の前に置く一拍と重なった。
枕元のスマートフォンが震えた。
母からだった。
『模試の予定、確認しておいて。夏休み、そろそろ終わるよ』
短い文面の下に、学校から届いた予定表の写真が添付されている。模試の日、課題の提出日、二学期の始業日。数字が並び、俺たちの合宿とは関係なく、時間はきちんと先へ進んでいた。
俺は画面を見つめたまま、返信欄を開いた。
『分かった』
そこまで打って、指が止まる。
部活の時間だけが、いつまでも続けばいいと思っていた。蓮先輩がいて、ひよりがいて、誰かが水筒を並べ、誰かが濡れたユニフォームを畳み、俺はその後ろで先輩の背中を見ていればいい。そうしていれば、自分が何者になるのかを決めなくても済む。
けれど、蓮先輩自身が、ここに残りたいと思いながら、去るための答辞を書いている。
俺はそのことを、今まで自分が見ていた先輩の姿と重ねようとした。だが、きれいには重ならなかった。むしろ、ずれた部分から、先輩の人間らしい輪郭が浮かび上がってくる。
憧れと焦りは、別々のものだと思っていた。
先輩のようになりたいから焦るのだと、ずっと考えていた。でも違う。先輩の背中を追っていれば、いつか自分も何かを決めなくてはいけない時期が来る。そのことが怖くて、俺は先輩を見上げ続けていたのだ。
画面に戻り、母への返信を打ち込む。
『明日帰ったら確認する。部活のことも、自分で決める』
送信すると、電波を示す表示が一度消え、しばらくしてから戻った。
部屋の暗がりの中で、バッグの中の封筒が、木の床を挟んだ向こうにあるように感じられた。消された言葉は、もう消えていない。けれど、それを誰の言葉として受け取るのかは、まだ決まっていなかった。
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