第1話 白樺寮の木の匂い

合宿三日目の朝、白樺寮の廊下は、まだ眠っている木の芯のように湿っていた。夜のあいだに吸い込んだ雨気が板の隙間からじんわりとにじみ出し、歩くたびに靴底が小さく鳴る。その音を、俺はどうしても自分のものとして聞くことができなかった。誰か別の人間が、後ろから同じ速さでついてくるような気がして、何度も肩越しに振り返ってしまう。廊下の奥には誰もいない。当たり前だ。まだ朝の五時半で、部屋という部屋の襖は閉まりきっている。それでも俺の視線は、確かめないと落ち着かなかった。
コートに出ると、藤堂蓮先輩はすでに球出しの準備を終えていた。朝露の残るライン際に立ち、まだ薄い光の中でラケットを持つ右手だけが、妙に明るく見える。握り替えは速いのに、少しも乱れない。打点に入る一歩は短いのに、そこに迷いがない。俺はラリーのたびにその右手を見てしまい、見た分だけ自分の打ち方が鈍く、重たいものに思えてくる。
「悠真、球、見すぎ」
蓮先輩の声は強くなかった。強くない分だけ、逃げ場がなかった。俺は「はい」と返しながら、頷いたつもりの首がわずかに遅れて動いたのが、自分でも分かった。先輩はそれ以上何も言わず、コート脇に落ちた球を拾いながら、ベンチの位置をほんの数センチだけ整えた。何でもない所作だ。それだけで、俺の胸の奥は軽く押されたようになる。ああ、こういうところだ、と思う。指摘のあとに必ず何かを整える。責めるのではなく、次に誰かが困らないように場所を戻しておく。俺にはまだ、その順番の作り方が分からない。
昼前の練習では、蓮先輩が一年生のひとりにフォームの癖を指摘していた。
「肘が先に出てる。面を作るのは肩からだ、肘は最後」
言葉は短く、有無を言わせない硬さがある。だが最後には必ず、相手のラケット面を自分の手で軽く直して終わる。厳しさと世話焼きが、同じ温度で差し出される。俺はその手の動きまで覚えてしまい、休憩中にひとりでラケットを握って、同じ角度を真似てみた。だが真似た瞬間、手の中にあるはずの頼もしさは、ただの空の形に変わってしまう。似せようとするほど、似ていないことだけが際立っていく。中学のころ、強い先輩の動きをどれだけなぞっても勝てなかった記憶が、また同じ形でよみがえってくる。
夕方、コート脇では佐伯ひよりが、擦り切れたタオルを首に巻いたまま、いくつもの水筒を並べ直していた。
「誰の水筒か見なくても、置き方でだいたい分かるんだよ。蓮先輩のは絶対にキャップが右向き。神経質すぎ」
そう言って笑いながら、並べた水筒のひとつを、コート脇にちょうど戻ってきた蓮先輩の手元へ押しやる。何気ない仕草だったが、俺にはそれが妙に慎重な手つきに見えた。ひよりは笑うとき、たいてい何かを飲み込んでいる。

「三年がいなくなるの、変だよな」
ひよりはそう続けて、笑い終わる前にほんの少し目を伏せた。俺は返事を探したが、言葉が喉の奥で渋く止まった。引退が近いという話は、みんなで何度も口にしてきたはずだった。それでも今日、この場所でこの言葉を聞くと、なぜか初めて言われたときのように現実の重さが増す。談話室の方から洗濯機の回る音が響いてくる。濡れたユニフォームの塩っぽい匂い、夕方の風に混じる土の湿気。すべてが少しずつ、終わりというものをこちら側へ寄せてくるようだった。
「先輩がいなくなったら、誰が主将やるんだろうな」 「まだ決まってないだろ」 「そういう意味じゃなくて」
ひよりはタオルの端を握り直しながら、俺の顔をちらりと見た。
「悠真、お前がやればいいじ�ゃん」
冗談めかした声だったが、俺は答えられなかった。無理だ、と思う自分の声のほうが先に胸の中で響く。あの手の動き、あの間の置き方、あの整え方――どれも自分にはない。ひよりはそれ以上追及せず、また水筒を並べ直す作業に戻った。何かを聞き出そうとして、途中でやめる。それもひよりのいつもの手つきだった。
夜、部屋に戻る前に通りかかった談話室で、俺は忘れ物バッグを見つけた。蓮先輩のものだ。口が少し開いて、白い封筒が半分だけ覗いている。山の上では電波が弱い。本人にすぐ連絡するという当たり前の選択肢は、最初から手元になかった。俺は自分でも驚くほど静かに、その封筒を引き出してしまう。
中に入っていたのは、卒業式の答辞の下書きだった。整った冒頭の文面のあとに、赤ペンで何度も消した痕が続いている。「頼りなかった」「うまく言えない」「まだ終わりたくない」――その言葉たちは、書こうとしては消され、消してはまた戻ってきたように見えた。俺はそこに、校内で見る蓮先輩の姿とはまったく別の、切り取られた呼吸を見た気がした。強くて、迷いがなくて、引退を静かに受け入れている人間のはずだった。少なくとも、俺の中ではそういう人だった。
封筒を閉じる指先に、汗とは違う冷たさが残る。
俺が振り向くと、ひよりが背後で息を止めていた。
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