第9話 間合いのずれ

午前の練習は、蓮先輩の短い指示から始まった。
「基礎打ち。十五分。終わったら前衛に入る。声を出せ」
いつもと変わらない言葉だった。けれど、俺には昨晩より少し乾いて聞こえた。乾いているというより、湿った空気の中で音の輪郭だけが妙に際立っている。声の底にあった熱が、どこかへ引かれているようだった。
蓮先輩はコートの端に立ち、部員の動きを順番に見ていた。サーブを外した一年生が俯くと、いつもなら「腕だけで振るな」と言いながら、次の一球を出す位置まで自分で決める。今日は、少し間を置いてから言った。
「次は、足を先に入れろ」
それだけだった。
一年生は戸惑ったようにラケットを握り直した。何をどう直せばいいのか、まだ手探りなのだろう。俺も同じだった。蓮先輩は助けている。けれど、以前のように全部を引き取ってはいない。
その変化を、俺は見逃せなかった。
見逃せないことが、今は苦しかった。
先輩の右足が半歩遅れる。打球のあと、戻る位置がいつもより外側へずれる。ネット際で誰かのボールを拾い上げるとき、腰を屈めたまま一度だけ息を吐く。そのどれもが、ほんのわずかな違いでしかない。疲れているだけかもしれない。昨夜のことを気にしているだけかもしれない。あるいは、俺が原稿を読んだ事実を、先輩はすでに知っているのかもしれない。
考えれば考えるほど、どれも本当らしくなった。
俺はラリーの向こう側にいる蓮先輩を見た。
先輩は、俺の視線に気づいたようだった。
一球返すたびに、立つ位置を少し変える。俺が近づけば、先輩はネットから離れた。俺が視線を落とせば、先輩は別の部員へ声をかけた。まるで、俺と先輩の間にある見えない線を、足で測り直しているようだった。
避けられているのかもしれない。
そう思った瞬間、手のひらに力が入った。グリップテープの摩耗した部分が皮膚へ食い込み、白い繊維が指の腹に引っかかる。
俺は先輩の本音を見た。見てしまった。だから、先輩は俺を遠ざけようとしている。
その考えは、傲慢だった。
先輩の動きのすべてが自分に向けられていると思うほど、俺は特別ではない。それなのに、昨夜からの俺は、コートの隅に落ちたボールの一つまで、自分への返事のように受け取っていた。
「望月、ぼんやりするな」
蓮先輩の声が飛んできた。
俺は反応が遅れ、浅く浮いた球をラケットの先で拾った。返球はネットの白帯へ当たり、こちら側へ転がり落ちる。
「すみません」
「謝る前に、次を見る」
「はい」
「今のは俺の顔を見ていた」
胸が詰まった。
「……見ていません」
「見ていた」
先輩の声は厳しかったが、怒ってはいなかった。そのことが、かえって俺を追い詰めた。
「先輩の動きを見ていました」
「それは同じことだ」
「違います」
「違わない。俺がどう動くかを見て、自分の動きを決めようとしている。そうすると、俺がいなくなったあとに困る」
言葉の最後で、蓮先輩は一拍置いた。
その一拍が、昨日より長かった。
「先輩がいなくなったあと、ですか」
「そういう時期だろ」
「まだ引退は先です」
「先だから考えるんだ」
「でも、先輩は……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
封筒を見たこと。答辞の下書きを読んだこと。消された文字に気づいたこと。言えば、今すぐこのコートの真ん中へ原稿を広げることになる。
蓮先輩は俺を見たまま、何も促さなかった。
先輩は、言い淀む相手を急かさない。普段なら、それが優しさに見えた。今は、逃げ道を塞がれているように感じた。言わないなら言わないでいい。ただし、言わなかったことまで自分で引き受けろ。そんなふうに、沈黙の向こうから見られている気がした。
「練習に戻れ」
蓮先輩はそう言った。
俺はボールを拾い、定位置へ戻った。
ラリーが再開する。先輩の球は鋭い。けれど、いつもより少し浅く、俺の届く範囲へ出てくる。強く打ち込めば返せない球ではない。けれど、返しやすいと決めつければ、次の一球で崩される。
先輩は、俺に考えさせようとしている。
そう思った直後、別の考えが浮かんだ。
もしかすると、先輩は俺に近づかれたくないから、わざと届く球を打っているだけなのかもしれない。自分から距離を取るために、俺をコートの端へ追いやっているのかもしれない。
観察は、ときどき勝手な物語を作る。
俺は球を見た。見たつもりで、先輩の足元を見ていた。打つ前の肩の開き、ラケット面の角度、呼吸の長さ。拾った情報を組み立てようとしたとき、ボールはもう反対側へ落ちていた。
「望月!」
ひよりの声が飛んだ。
俺は走った。靴底が湿った土を噛み、右足が少し滑る。身体を伸ばして、ラケットの先で球を拾う。返球は高く浮き、相手コートの中央へ落ちた。
「今の、取っただけじゃん」
ひよりが言った。
「返した」
「返しただけ。次に何が来るか、全然見てなかった」
「見てたよ」
「どこを?」
俺は答えられなかった。
ひよりはラケットを肩に掛け、コート越しに俺を見た。いつもなら笑っている場面だった。けれど今日は笑わなかった。
「蓮先輩のことを見てるんじゃなくて、蓮先輩がどう見えるかを見てる」
その言葉が、身体の奥へ入った。
「どういう意味」
「先輩が遠くなったとか、避けてるとか、何か隠してるとか。そういうのを見つけようとしてる。球じゃなくて、先輩の中身を覗こうとしてる」
「そんなつもりはない」
「あるよ。だって、今の顔、蓮先輩に答えをもらおうとしてる顔だった」
「俺は……」
「先輩の弱さを見たからって、蓮先輩の気持ちを全部分かるわけじゃない。分かろうとするのはいい。でも、分からないままの相手を、勝手に近づけたり遠ざけたりするなよ」
ひよりの言葉は強かった。けれど、その強さの底に、彼女自身の怯えがあった。
俺はそれを見てしまった。
ひよりもまた、蓮先輩との間合いを測っている。近づきたいのに、近づけば傷つく。言いたいのに、言えば戻れない。その揺れを、ひよりはいつもの軽口で隠していた。
「佐伯、練習中に何をしている」
蓮先輩が言った。
「後輩を直してます」
「直されている顔には見えない」
「じゃあ、先輩も一緒に直されてください」
ひよりはラケットを構え直した。
蓮先輩は、すぐには返さなかった。
「何を直す」
「距離感」
「テニスの話か」
「どっちでもいいです」
「よくない」
「先輩が勝手に決めないでください」
ひよりの足先が小さく揺れた。蓮先輩はそれを見ていた。先輩の目が、ひよりの靴紐、ラケットの握り、肩の位置を順番に拾っていく。観察しているのは俺だけではない。蓮先輩も、人の変化を見逃さない。
「俺が何を決めた」
「自分がいなくなったあとのことを、先に全部片づけようとしてる」
「片づけてはいない」
「してます。練習メニューも、道具の置き場所も、声のかけ方も。全部、私たちが困らないようにって顔をして、実際には先輩が不安にならないようにしてる」
「それの何が悪い」
「悪いなんて言ってません。でも、私たちに任せるなら、任せる側も怖がってください。先輩だけが怖くない顔をしてると、こっちは自分の怖さを言えない」
蓮先輩のラケットが少し下がった。
コートの周囲から、打球音が途切れた。何人かの部員がこちらを見ている。誰も声を出さなかった。蝉の声だけが頭上から落ちてくる。暑いはずなのに、背中を薄い冷気が流れた。
「俺が怖がっているように見えたら、部はどうなる」
蓮先輩が言った。
「壊れませんよ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないです」
ひよりの声が震えた。
「でも、先輩が怖いって言ったら、私たちも怖いって言える。先輩が分からないって言ったら、私たちも分からないまま考えられる。先輩が全部知ってる顔をしてるから、私たちは何も知らないふりをしてるんです」
蓮先輩はしばらく黙っていた。
その沈黙は、答辞の下書きにあった赤い線よりも生々しかった。言葉になる前のものが、先輩の喉の奥で動いている。けれど、主将として立つ身体は、簡単には崩れない。
「怖いよ」
蓮先輩は言った。
声は低く、コートの隅まで届いた。
「部が俺なしで回るかどうかも、卒業してから自分が何をするかも、決まっていない。答辞を書いている間、感謝だけを並べれば終われると思っていた。でも、書けば書くほど、終わりたくないという言葉が出てくる。あれを消すたびに、余計に残る」
誰も動かなかった。

「それでも、俺は主将だ。俺が不安を全部出したら、みんなが俺を支えなきゃいけなくなる。そんなことをさせたくなかった。後輩に、俺の引退まで背負わせたくなかった」
「背負わせたくないって言いながら、勝手に置いていくんですね」
ひよりが言った。
「何も言わないで、きれいに去って、私たちだけに次をやらせる。先輩の不安は先輩のものだって顔をして」
「俺の不安まで、お前たちに渡していいのか」
「全部じゃなくていいです」
ひよりは一度、鼻から息を吐いた。
「でも、何も渡さないのは、信頼してないのと同じです」
蓮先輩は、ひよりの言葉を受け止めるように目を伏せた。
俺は、その横顔を見ていた。先輩の立ち位置が、昨日までより近い。いや、先輩が近づいたのではなく、俺が勝手に遠くへ置いていたのだ。
完璧な主将。迷いのない人。弱さを見せない人。
そう決めつけていたのは、先輩ではなく俺だった。
「俺は、先輩を見すぎていました」
気づけば、声が出ていた。
蓮先輩がこちらを見る。ひよりも黙った。
「先輩の動きを見て、先輩の言葉を覚えて、先輩がどう考えるかを当てようとしていました。そうすれば、俺も次に何をすればいいか分かると思ったからです。でも、先輩の答辞を見て、先輩にも分からないことがあると知って……それでも俺は、先輩なら答えを持っていると思っていました」
喉が乾いた。けれど、今度は水筒へ手を伸ばさなかった。
「俺は、先輩の弱さを見たんじゃなくて、先輩に自分の答えを求めていたんだと思います。先輩が残りたいと思っているなら、俺も残っていいのかもしれない。先輩が怖いなら、俺が怖いのも仕方ない。そうやって、先輩の気持ちを自分の言い訳にしようとしていた」
言葉を止めると、コートの上に自分の呼吸だけが残った。
「でも、先輩の本音は先輩のものです。俺が勝手に受け取って、勝手に意味をつけていいものじゃない。俺は俺で、怖いまま、次に何をするか決めます」
蓮先輩はすぐには返事をしなかった。
長い一拍だった。
やがて先輩は、ラケットのグリップを握り直した。
「今の言葉を、練習中に言えるなら、最初から言え」
「すみません」
「だから、謝るな」
ひよりが吹き出した。
「蓮先輩、それ、もう口癖ですよ」
「お前に言われたくない」
「私、最近は謝る前に一回考えてます」
「考えてから言いすぎるようになっただけだ」
「改善してるじゃないですか」
小さな笑いが起きた。さっきまで遠巻きにしていた部員たちも、ようやく息をついたようだった。
西園寺先生はコート脇のベンチに立っていた。
いつからいたのか分からない。黒いファイルを片手に、俺たちの会話を聞いていたらしい。先生はすぐにこちらへ来なかった。部員たちがラケットを持ち直し、散らばったボールを拾い始めるのを待ってから、ゆっくり歩いてきた。
「話は終わった?」
先生が訊いた。
「たぶん」
ひよりが答えた。
「たぶんで練習に戻れるなら、十分ね」
先生は俺のラケットへ目を落とした。グリップテープの端が少し浮いている。俺が不安になると指でいじってしまう部分だ。先生はそこへ手を伸ばさなかった。
「望月」
「はい」
「あなたは今、自分の立ち位置を決めたつもり?」
「……まだです」
「なら、決めたふりをしないこと」
先生の声は静かだった。
「蓮の真似をやめることと、蓮から何も受け取らないことは違う。ひよりの言葉を借りることと、ひよりの代わりに話すことも違う。人から受け取ったものは、手の中で一度、自分の重さに確かめ直しなさい」
先生はコートの白線へ視線を移した。
「真似るだけでは残らない」
聞き慣れた言葉だった。
それでも今度は、違う響きがあった。
「真似は、最初に立つためには必要よ。誰かの足取りを見て、同じ場所へ足を置く。それで助かる時期もある。でも、そこから先は、自分の足がどこにあるかを見なければならない。でなければ、誰かがいなくなったとき、自分まで消える」
先生は俺の目を見た。
「あなたは、今、消えずに立っている」
褒められたのだと思うまでに、少し時間がかかった。
俺はラケットを握り直した。浮いたテープの端が、手のひらに触れる。巻き直せばきれいになる。先輩のように隙間なく、乱れなく整えることもできる。
けれど、俺はその端をすぐには押さえなかった。
「次、どうしますか」
俺が訊くと、蓮先輩がボール籠を持ち上げた。
「決めろ」
「俺が?」
「お前が見ていたんだろ。部員の動きも、球の高さも」
「でも、間違えたら」
「間違えたら、次に直せ」
蓮先輩はボール籠を俺へ渡した。
金属の枠が手のひらへ食い込み、腕へ重さが伝わる。先輩がいつも持っていたものと同じ重さなのかもしれない。けれど、持ち方は同じでなくていい。
俺はコートを見渡した。
三浦はバック側へ入るときに肩が開く。ひよりは前へ出ると、足先が一瞬だけ止まる。蓮先輩は、誰かの動きを待てる場所に立っている。
俺はボールを一つ取り出した。
「次は、前衛から。三浦はバック側。ひよりは一球目、深く返してから入って」
声が少し震えた。
それでも、部員たちは動いた。
蓮先輩がネットの向こうへ立つ。俺は先輩の顔を見なかった。肩も、足元も、ラケット面も、必要な分だけ見る。見たものを自分の判断へ変えるために。
ボールを出す。
一球目はひよりの深いところへ落ちた。彼女が踏み込み、返球する。三浦がバックへ入り、身体を開かずに打った。球は低く伸び、ネットすれすれを越える。
蓮先輩がそれを返す。
今度は、俺の足元へ来た。
俺は一歩を出した。
返球は浅かった。けれど、コートの内側へ落ちた。
「今のはいい」
蓮先輩が言った。
その声は、昨日までと同じだった。
ただ、俺はもう、その言葉を先輩の正しさとして受け取らなかった。自分で見て、自分で動いた結果が、先輩のところまで届いた。その返事として聞いた。
練習が終わるころには、太陽がコートの中央まで上がっていた。土は熱を取り戻し、靴底から伝わる感触も朝の湿り気を失っている。汗が首筋を流れ、乾いた塩気が唇に残った。
蓮先輩はベンチへ戻り、半分巻かれたグリップテープを手に取った。
今度は、その場で巻き始めた。
隙間のない、整った巻き方だった。けれど、最後の端を留めるとき、ほんの少しだけ指が止まった。
俺はその手元を見た。
ひよりが隣で水筒を並べている。右向き、左向き、少し斜め。ばらばらなのに、誰のものか分かる。西園寺先生は何も直さず、その並びを一度だけ見ていた。
蓮先輩が顔を上げた。
「望月」
「はい」
「明日、練習メニューを一つ考えておけ」
「俺が?」
「お前が見たものを使え」
「分かりました」
「それと」
先輩は一拍置いた。
「考えすぎて、誰も動けなくするな」
「はい」
「返事だけは早いな」
ひよりが笑った。
俺も、少しだけ笑った。
先輩との間にあった距離は、なくなったわけではない。蓮先輩は三年生で、俺は二年生だ。先輩はもうすぐ去る側になり、俺たちは残る側になる。その違いは、どれだけ言葉を交わしても消えない。
けれど、距離があることと、離れていることは同じではなかった。
俺はボール籠を持ち上げた。まだ中に何球か残っている。使った球を戻す場所も、次の練習で誰が何をするかも、全部は決まっていない。
それでも、次の一球を出すことはできる。
湿った夏の空気の中で、蝉がいっせいに鳴き始めた。コートの熱が足元から上がり、汗の乾いた皮膚をもう一度湿らせていく。
俺は蓮先輩の立つ場所ではなく、自分が立つ場所を見た。
白線の内側に、足を置く。
次の球を、俺の判断で出すために。
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