9話 触れられた傷、閉ざされた心

夢見のコンパスが指し示した先にあったのは、おとぎ話の挿絵から抜け出したような、荘厳な一本杉だった。天を衝くというより、この幻想的な世界そのものを支えているかのように、その枝葉は夜空の星屑を吸い込んで淡く光っている。誰もがその神々しいまでの光景に息を呑む中、一行はまるで祭壇に導かれる巡礼者のように、その根元へと歩み寄った。

そこで彼らが見たのは、誰が手向けたのか、まだ朝露に濡れたように瑞々しい、小さな白い花束だった。ひっそりと、しかし確かな存在感を放って、それはそこに置かれていた。

「わあ、きれいな花…」 純粋な感嘆の声を上げた陽太の隣で、樹は眉をひそめていた。 「不自然だ。この世界の植物相は我々の知るものとは異なるはず。こんな典型的な花束が自然発生するとは考えにくい。誰かが意図的に…」

樹の分析的な呟きも、今の湊の耳には遠く響くだけだった。彼は目の前の光景に釘付けになっていた。既視感。いや、そんな生易しい言葉では言い表せない、魂の芯を揺さぶられるような感覚。これは、知っている。何度も、何度も夢の中で繰り返し見た、あの場所だ。

いつも周りの空気を読んで、波風を立てないように言葉を飲み込んできた湊が、この時ばかりは抗いがたい衝動に突き動かされていた。

「この場所、知ってる…」

ぽつりと漏れた呟きに、暦がびくりと肩を震わせた。

「僕の夢の中で、女の子がずっとここで誰かを待ってたんだ。赤いリボンの…」

その言葉は、静寂に満ちた空気を切り裂く刃となった。暦の表情からすっと血の気が引いていくのを、湊は見た。これまで彼女が纏っていた冷静沈着なリーダーの仮面が、音を立てて砕け散る。

「……その子、どんな顔を、してた?」

絞り出すような、か細い声だった。湊は、それが聞いてはいけない問いだと本能で感じながらも、正直に答えるしかなかった。夢の記憶は、あまりに鮮明だったから。

「泣きそうなのを、必死でこらえてるみたいな顔。でも、誰かを待ってるんだって、すぐにわかった。寂しそうで、でも、諦めてなくて…。風で揺れる赤いリボンだけが、やけに綺麗で…」

「やめて」

暦の低い声が、湊の言葉を遮った。

「もう、言わないで」

彼女は唇をきつく噛みしめ、わなわなと震えていた。その瞳には、これまで見たこともないほどの深い絶望と、後悔の色が浮かんでいる。

「私には…弟がいたの。アキラっていう…。数年前、この星祭りの夜に…いなくなった」

それは告白というより、心の傷口から溢れ出た膿のような、痛々しい吐露だった。

「神隠しなんかじゃない…。私が、私がこの近くに連れてきたの。あの日も、今日みたいに霧が深くて…私が、あいつの手を…!私がちゃんと掴んでいれば…!」

嗚咽が、言葉にならない叫びとなって漏れる。

「あんたの見てる暢気な夢はね、私の地獄そのものなのよ! あの赤いリボンは、私がアキラにあげたものなの! 『お姉ちゃんとお揃いがいい』って、あの子が笑うから…! 私が、あの子をここに引きずり込んで、見殺しにしたも同然なのよッ!」

暦の絶叫に呼応するように、世界が軋んだ。荘厳に輝いていた一本杉の葉が、まるで燃え尽きた炭のように色を失い、数枚、はらりと寂しく舞い落ちる。ファンタジーの魔法が解け、郷愁を誘っていたメルヘンチックな風景が、ただ冷たく陰鬱なだけの森へとその姿を変えていく。

誰も、何も言えなかった。元気な陽太でさえ、ただならぬ雰囲気に青ざめている。現実主義者の樹は、スマホを握りしめたまま呆然と立ち尽くす。彼の知識では到底説明できない「想い」という名の質量が、彼の理性の砦を根こそぎに破壊していた。

そして湊は、自分の無邪気な言葉が、暦の心の最も柔らかな部分をどれほど深く抉ってしまったかを悟り、愕然としていた。

ただ流されるままだった旅は、今、終わりを告げた。暦は罪悪感という名の深い森に迷い込み、固く心を閉ざしてしまった。彼女の絶望が、この世界の光を奪っていく。一行の間に、出口の見えない重い沈黙が落ちた。

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