第8話 夢見のコンパス
乳白色の霧は、まるで生き物のように一行を飲み込んでいた。前後左右の感覚は奪われ、聞こえるのは自分たちの荒い息遣いと、湿った土を踏む心許ない音だけ。先ほどまでのメルヘンチックな風景は鳴りを潜め、ただただ出口のない不安が世界を支配していた。陽太が選んだ獣道は、彼らを完全に迷わせてしまったのだ。
「……なんか、やばいかも」
いつもは騒がしいほどの陽太が、すっかり元気をなくしてぽつりと呟く。その声さえも、分厚い霧に吸い込まれてすぐに消えた。彼の純粋な探究心は、先の見えない恐怖の前では脆かった。
「だから言ったんだ。地形図から判断すれば、最短ルートであることに間違いはなかった。だが、この異常な霧は想定外だ。気象条件が局地的に急変したとしか考えられない。あるいは何らかの未確認ガスによる…」
樹は圏外表示のスマホを苛立たしげに睨みつけながら、必死に理屈の鎧を固めていた。だが、その早口な分析は、己に言い聞かせるための虚しい呪文のようにも聞こえた。自分の判断ミスを認めたくないプライドと、未知の現象に対する本能的な恐怖が、彼の冷静さを少しずつ削り取っていく。
その中で、暦はただ固く唇を結んでいた。この冷たく湿った霧の感触は、彼女の心の奥深くに封印した記憶の扉を、容赦なくこじ開けようとしていた。弟の手を離してしまった、あの日の霧。後悔と罪悪感が、冷たい手となって彼女の心臓を掴む。一歩も動けなくなりそうな恐怖を、彼女は誰にも悟られぬよう、じっと耐えていた。
周りの空気に押しつぶされそうになりながら、湊はただ俯いていた。樹と暦が対立した時、何も言えなかった自分が情けない。陽太を止められなかった自分がふがいない。結局、自分はいつもこうだ。誰かの意見に流され、自分の意志を示すことができない。
その時だった。ズボンのポケットの中で、何かが確かな熱を帯びた。驚いて手を突っ込むと、それは祖父の形見である古い真鍮の「夢見のコンパス」だった。普段はただのガラクタにしか見えないそれが、心臓のように脈打ち、淡い、しかし確かな光を放ち始めている。
おそるおそる取り出して掌に乗せると、コンパスの針は狂ったように回転するのをやめ、特定の方角を指して微動だにしなくなった。その方角に、湊は見覚えがあった。何度も、何度も夢で見た光景。空に届くほど大きな一本杉がそびえ立つ、あの場所だ。
「……こっちだ」
か細い、自分でも驚くほど小さな声が出た。だが、それは紛れもなく湊自身の意志だった。彼はもう一度、今度は全員に聞こえるように、震えながらもはっきりと言った。
「こっちに、行きたい。こっちに行けば、きっと……」
「何の根拠があって言っているんだ!」
樹が弾かれたように食ってかかった。彼の目は恐怖と苛立ちで見開かれている。 「君のその『きっと』に僕たちの命を預けろって言うのか!今は非合理的な勘に頼る時じゃない!冷静に現状を分析して、最低限の体力消費でこの場に留まり、霧が晴れるのを待つのが最も合理的な判断だ。君のそのオカルトグッズが何を指し示そうと、それは地磁気の異常に反応しているだけのただの鉄クズだ!そんなものに…そんなものに縋るなんて、どうかしてる!」
樹の言葉は正論だった。だが、湊は引かなかった。彼はコンパスを握りしめ、樹の目をまっすぐに見つめ返した。 「理屈じゃないんだ!でも、これしかないってわかるんだよ!僕がずっと見てきた夢は、きっとこのためのものだったんだ。僕を…僕たちを導くために!」
二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。その静寂を破ったのは、暦の静かな声だった。
「……わかった。あなたの夢を、信じてみる」
彼女は湊の手の中にある、光るコンパスを見つめていた。その瞳には、絶望に抗うような強い光が宿っていた。 「私の知識も、樹の理屈も、この霧の前では役に立たなかった。なら、今はそれに賭けるしかないのかもしれない。あの時、私が信じきれずに失ってしまったものを……今度こそ、信じてみたいの」
暦の言葉が、凍りついた空気を溶かした。それが後押しとなり、一行は湊が、そして「夢見のコンパス」が指し示す方角へ、覚悟を決めて歩き出す。
すると、どうだろう。まるで彼らの進む道を祝福するかのように、纏わりついていた濃霧が、舞台の幕が上がるようにすうっと晴れていく。そして目の前に現れたのは、夢で見た光景そのものだった。夜の闇を突き、天上の星々に届かんばかりにそびえ立つ、巨大な一本杉の荘厳な姿が、そこにあった。
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