10話 インターミッション:母の勘

【同時刻・現実世界:相葉家】

遠雷のように聞こえていた祭りの喧騒は、いつしか不安の鳴動へと変わっていた。相葉家の広い居間は、大人たちの焦燥と苛立ちが渦を巻き、沸騰した鍋のように落ち着きをなくしている。受話器を握りしめたまま怒鳴り声に近い声で誰かと話す親戚の男。泣き出しそうな顔で部屋を行ったり来たりする女。警察への通報、考え得る限りの捜索場所の洗い出し、そのどれもが空振りに終わって数時間が経過していた。

その喧騒の中心から少し離れた食卓で、相葉美咲は一人、じっと手元のメモ帳を見つめていた。彼女の周りだけ、時間が緩やかに流れているかのように静かだった。けれど、その指先は心配事がある時の癖で、使い慣れたエプロンの裾を固く、固く握りしめている。 メモ帳には、彼女の落ち着いた筆跡で子供たちの名前が並んでいた。湊、暦、陽太、樹。それぞれの最後の目撃情報、服装。情報を整理し、思考を整える。それは、計り知れない不安の奔流に飲み込まれないための、彼女なりの必死の抵抗だった。

「美咲さん、ぼーっとしてないで何か心当たりは!?」

感情的になった声が飛ぶが、美咲は顔を上げなかった。心当たりなどない。だからこそ、思考の海にもっと深く潜る必要があった。なぜ、このタイミングで? なぜ、あの子たちが? パズルのピースを一つずつ、指先で確かめるように、書き出した文字をなぞっていく。

その時、雷が落ちたような閃きが彼女の全身を貫いた。 今日の日付。――星迎えの祭り。 この言葉が、心の奥底で錆びついていた記憶の扉をこじ開けた。数年前、同じ祭りの夜、忽然と姿を消した暦の幼い弟、アキラの小さな後ろ姿。あの日の絶望と混乱が、鮮明な色彩を伴って蘇る。

「……神隠し」

誰にも聞こえないほどの声で呟いた。幼い頃、祖母が寝物語に語ってくれた、この土地の不吉な伝承。星祭りの夜には、現世と常世の境が曖昧になり、神様が気に入った子を連れて行ってしまうのだと。それはただの昔話のはずだった。しかし、アキラの事件以来、その言葉は美咲の中で現実的な恐怖の棘として突き刺さっていたのだ。

居ても立ってもいられなくなった。美咲はすっと立ち上がると、騒がしい居間を抜け出し、静まり返った廊下の先にある仏間へと向かった。ひんやりとした空気の中、線香の香りが微かに漂う。朝夕に手を合わせるのが習慣の仏壇の前に正座し、静かに目を閉じた。祈る相手は先祖か、神か、あるいはこの土地そのものか。ただ、息子を守りたいという一心だけが、彼女の中で燃え盛っていた。

目を開けた時、彼女はまるで何かに呼ばれたかのように客間へと足を向けた。彼女の特技である「失せ物を見つける勘」。それは理屈ではない。見えない糸に手繰り寄せられるような、確かな感覚だった。その勘が、客間の隅にある古い戸棚を指し示していた。 ぎしり、と音を立てて戸棚を開ける。中には、家族の思い出が詰まった古いアルバムが何冊も眠っていた。その中の一冊に、彼女の手は吸い寄せられるように伸びる。ページをめくると、色褪せた写真たちが、過ぎ去った日々の郷愁を語りかけてきた。

そして、一枚の写真の前で、彼女の指が止まった。 そこに写っていたのは、日焼けした腕で肩を組む、幼い二人の少年だった。一人は、まだあどけなさが残る息子、湊。そしてもう一人、はにかむような笑顔を浮かべているのは、間違いなく、暦の弟・アキラだった。

「……あぁ」

声にならない声が漏れた。忘れていた。湊とアキラが、こんなにも仲良く遊んでいた時期があったことを。この繋がりは、偶然では断じてない。美咲の中に、稲妻のような強い確信が芽生えた。

「あの子たちは、普通の場所にいるんじゃない。ただの迷子なんかじゃないわ」

居間に戻った彼女の鬼気迫る表情に、夫が息を呑んだ。 「美咲、どこへ行く気だ! もう夜も深い。警察に任せるんだ!」 夫の制止を、美咲は強い眼差しで振り払った。彼女の瞳には、もはや迷いも揺らぎもない。深い母性愛に裏打ちされた、揺るぎない覚悟が宿っていた。

「あなた、聞いて。理屈で話せることじゃないの。でも、私にはわかる。あの子たちは、私たちと同じ世界にいないのかもしれない。この土地が、この星祭りの夜が、本当に子供たちをどこかへ誘ってしまうというのなら……親が行かなくてどうするの。母親の私が、行かなくてどうするのよ!」 その声は、感情が昂って普段より大きくなっていたが、不思議なほどの冷静さと説得力を帯びていた。 「湊が、あの子たちが、きっと待っている。私を、呼んでいる気がするの。だから……行かなければ」

美咲は玄関で懐中電灯を一つ掴むと、振り返らずに夜の闇へと飛び出した。彼女が向かう先は一つ。この土地で禁足地とされ、神隠しの言い伝えが最も色濃く残る、あの神社の裏手の森だった。彼女の存在こそが、息子にとっての「帰るべき場所」、現実世界を繋ぎとめる唯一の錨なのだと、信じて。

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