7話 覚悟のトリガー

スターゲイザーの艦橋は、ファントムとの戦闘で受けたダメージの応急修理を終え、束の間の静寂に包まれていた。だがその空気は、リナ・ハインラインの一言でガラスのように砕け散った。

「解析、終わったよ。データチップが指し示す最終座標……それは、銀河公的星図から完全に抹消された宙域。通称――『ロスト・セクター』」

リナがホログラムに投影した星図には、ぽっかりと穴が空いたような漆黒の領域が不気味に浮かび上がっている。その単語が響いた瞬間、艦橋の温度が数度下がったように感じられた。カイは、ポケットの中の古びた写真を無意識に握りしめる。まただ。理由の分からない喪失感が、冷たい手で心臓を掴むような感覚。脳裏のノイズが、ファントムと対峙した時と同じように疼き始める。

沈黙を破ったのは、レックス・ヴォルフェンだった。いつもの飄々とした態度は見る影もなく、その声は鋼のように硬く、低かった。

「……ロスト・セクター、だと?」

彼は操縦桿を握りしめ、吐き捨てるように言った。その横顔には、カイが今まで見たことのない険しさが刻まれている。

「やめとけ、カイ。冗談でも行こうなんて考えるな。あそこはただの危険宙域じゃねえ。墓場だ。星々の墓場であり、俺たちみたいなゴロツキどもの最終処分場だ。時空が歪み、コンパスは狂い、二度と帰ってこれなくなる。銀河の誰もが近づかねえ禁断の場所なんだよ」

レックスの言葉には、経験した者だけが持つ、ずしりとした重みがあった。カイはそれでも、ホログラムの暗黒領域から目を離さずに答えた。

「でも、チップがそこを指してる。ファントムも、クロノスも、俺のこのワケのわからない記憶の断片も、全部の答えがそこにある気がするんだ」

「気がする、だと?そんな博打みたいな理由で命を張れるか!いいか坊主、俺はな、昔……軍にいた頃にな、あの宙域で仲間を大勢失った。優秀なパイロットも、腕のいいメカニックも、くだらねえジョークばっかり言ってた通信士も……みんな、あの黒い闇に呑まれて、二度と帰ってこなかった。お前の親父も……お前の親父も、あそこで……!」

レックスはそこまで言って、ぐっと言葉を詰まらせた。焼け焦げた跡のあるパイロットグローブを、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。彼の脳裏には、炎と絶叫に包まれたあの日の惨状が、今も鮮明に焼き付いているのだろう。それはカイを守るという固い誓いの源であり、同時に、決して癒えることのない深い傷だった。

「お前まで、同じ轍を踏ませるわけにはいかねえんだよ。分かるか?これは命令だ。運び屋の船長としての、そして……お前の親父のダチとしての、最後の命令だ」

静まり返った艦橋で、二人の視線が火花を散らす。一方は過去の痛みから未来を守ろうとし、もう一方は、未来のために過去と向き合おうとしていた。カイはゆっくりと息を吐き、レックスを真っ直ぐに見据えた。その瞳には、テラ・ノヴァで退屈な日常を呪っていた頃の諦念は、もう微塵もなかった。

「あんたの気持ちは、分かるよ。俺を心配してくれてるのも、痛いほど伝わってくる。でもな、レックス。俺はもう、逃げているだけの自分じゃいられないんだ」

カイは一歩前に出た。

「俺は一体、誰なんだ?この手は、ジャンク屋の仕事でオイルに汚れるためのものなのか?それとも、銃座のトリガーを引くためにあるのか?時々、頭の中に響く女の人の声も、このポケットの中でクシャクシャになった写真も、胸を締め付ける理由のわからない喪失感も……全部、あそこにある気がするんだよ!知らないふりをして、見ないふりをして、このまま旅を続けて、それで何になる?またどこかのコロニーで、退屈な日常に逆戻りするだけだ。そんなのはもう、ごめんなんだよ!俺は知らなきゃならない。俺が誰で、どこから来て、どこへ向かうべきなのかを。たとえその先に、あんたが言うような墓場が待っていたとしても……俺は、俺自身の物語の引き金を、この手で引くって決めたんだ!」

それは、未熟な青年が初めて心の底から絞り出した、魂の叫びだった。彼の理想主義はまだ青臭く、危ういかもしれない。だが、そこには確かな覚悟と、仲間への信頼に裏打ちされた強い光が宿っていた。

重苦しい沈黙を切り裂いたのは、リナの明るい声だった。彼女はコンソールをパンと叩き、わざとらしく両手を広げてみせる。

「まーまーまー!待った待った!オッサンと若者のクソ真面目なタイマンはそこまで!なんかもう、空気が重すぎてゲロ吐きそう!」

リナはカイとレックスの間に割って入ると、腰に手を当ててニッと笑った。

「つーかさ、『ロスト・セクター』?銀河の公的星図から抹消された禁断の場所?最高のハッキング対象じゃん!クロノスの鉄壁セキュリティよりよっぽどそそるって!そんなお宝が眠ってるかもしれない場所に、行かない手はないでしょ!それに、カイが決めたんなら、アタシは付き合うよ。アンタのそのワケわかんない勘、結構当たるしね!この凸凹コンビで、銀河の謎くらいちょちょいと解き明かしちゃろーじゃん!」

彼女の天真爛漫な言葉は、張り詰めた艦橋の空気をほんの少しだけ和らげる。その隣で、壁際に静かに佇んでいたゼノが、カシャリと首の関節を鳴らした。

「リナが行くなら、私も行く。リナの安全確保は、私の存在意義における最優先事項。しかし、対象カイ・アストレイアの自己探求への意志と、それに伴う危険領域への侵入は、我々が追う『ヒュプノス計画』の核心に迫る上で、極めて合理的と判断。同行を推奨する」

無表情なアンドロイドの口から放たれた、どこかズレた論理的な肯定。だがその言葉は、彼が単なる機械ではなく、自らの意志で仲間と共に在ることを選んだ、確かな証明だった。

カイはリナとゼノに視線を送り、小さく頷いた。絆。テラ・ノヴァでは決して手に入らなかった、かけがえのない宝物だ。

三人の揺るぎない視線を受け、レックスは大きく、そして深く息を吐いた。まるで、胸の奥に長年溜め込んでいた澱を全て吐き出すかのように。彼はゆっくりと操縦席から立ち上がると、カイの前に立ち、その肩にゴツゴツした手を置いた。

「……ったく、揃いも揃ってイカれたガキどもだ。どこまで行っても、親父さんにそっくりだよ、お前は。あの人も、いつだって正しいことより、自分が信じる道を選んで、無茶ばっかりしてた……」

レックスは空になった酒瓶が転がる床に目を落とし、それから自嘲気味に笑った。

「いいか、カイ。俺はな、あの日、お前の親父を見殺しにした。上官の命令に逆らえず、目の前で親友が闇に消えていくのを見ていることしかできなかった。それがずっと、この胸に冷たい鉛みてえにへばりついてる。お前を守るって約束も、結局は俺自身の罪滅ぼしのためだったのかもしれねえ。俺の自己満足だ。だがな……」

レックスは顔を上げ、カイの瞳を真っ直ぐに見返した。その目には、後悔と共に、確かな愛情が滲んでいた。

「もうお前は、俺が守ってやるだけの坊主じゃねえ。自分で自分の道を選んで、そのトリガーに指をかけようとしてる。……なら、俺も腹を括るしかねえか。過去の亡霊に怯えて、未来から目を逸らすのはもう終いだ。これは、俺の罪滅ぼしじゃねえ。同じ星を見る仲間としての、『俺たちの』戦いだ」

彼はニヤリと不敵に笑うと、いつもの豪快な声で宣言した。

「よし決まりだ!進路、ロスト・セクター!冒険にハズレ馬券はつきものだからな!だがな坊主!絶対に死ぬんじゃねえぞ。これは約束だ!」

「……ああ、約束する」

カイもまた、強く頷き返した。

スターゲイザーは、ゆっくりとその機首を転回させる。目指すは、星図にない暗黒の宙域。窓の外の宇宙は、それまでの穏やかな輝きを失い、まるで巨大な獣が口を開けて待ち構えているかのように、不気味なほどの静寂と闇をたたえていた。

誰もが、これから始まる本当の戦いの重さを感じていた。だが、そこには恐怖だけではない、確かな高揚感があった。冒険こそ人生だ――その言葉の意味を、彼らは今、まさに体現しようとしていた。錆びついた宇宙船は、銀河の禁断の扉を叩くべく、静かに加速を開始した。

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