6話 星図にない航路

宇宙は沈黙している。ファントムの漆黒の機影が消え去った宙域は、まるで何事もなかったかのように、ただ静まり返っていた。しかし、星々の無慈悲な輝きを映すスターゲイザーの船体には、その死闘の痕跡が生々しく刻み込まれていた。装甲は抉られ、エネルギー管が火花を散らし、旧式の船は満身創痍の獣のように喘いでいた。

レックスの神業的な操縦で、かろうじてクロノスの追撃を振り切った一行は、公的航路から大きく外れた小惑星帯の影にその身を潜めていた。無数の岩塊が、墓標のように静止する宇宙空間。ここは、追手から身を隠すには絶好の、そして永遠に迷い込む可能性もある危険な隠れ家だった。

「っと…これでよし。あとは冷却剤が回るのを待つだけだ」

船体外壁にマグネットワイヤーで身体を固定したカイは、スパークを散らす動力ケーブルの応急処置を終え、額の汗を汚れたグローブの甲で拭った。ジャンク屋で培った技術が、今この宇宙で命綱になっているという事実は、彼にとって皮肉な実感があった。見渡す星々の海は、テラ・ノヴァの隔壁から見上げた偽物の空とは比較にならないほど広大で、そして孤独だった。

「カイってさー、見かけによらずマメだよねー。そういうギャップ、女子は嫌いじゃないかもよ?」

ヘルメットの通信機から、リナの軽快な声が飛び込んでくる。船内に残った彼女は、コンソールと格闘しながら、カイが持ってきた非正規パーツの適合データを割り出している最中だった。

「うるさい。口動かす暇があったら指を動かせ。そっちの非正規コンデンサ、適合率何パーだ?爆発四散するのはごめんだぞ」

カイの皮肉混じりの返答に、リナは「んふふ」と笑う。

「あたしを誰だと思ってんの?98.7%!クロノス社のファイアウォールなんて、ザルもいいとこ!あ、ついでに奴らのサーバーから最新の音楽データも何曲か抜いといた。ゼノ、あとで聴こうぜ!」

リナの隣で補助作業をしていたゼノが、無表情のまま応じる。 「了解。カルチャーデータの拡充は、自己の存在意義の模索に繋がる可能性がある。リナの選曲には、論理的整合性を超えた価値が認められる」

「だろー!」

そんなコミカルなやり取りが、張り詰めた空気をわずかに和ませる。カイは思わず口元を緩めた。つい先日まで、退屈な日常に溜息をついていただけの自分が、今や天才ハッカーと元戦闘アンドロイドを仲間に、銀河を駆けている。人生とは、まったくもって予測不能なガラクタの寄せ集めだ。

その様子を、艦橋の隅からレックスが静かに見守っていた。彼は操縦席に深く身を沈め、片手に持った空の酒瓶を弄んでいる。そのラベルの剥がれかけた瓶には、色褪せた一枚の写真が丁寧に貼り付けられていた。写真の中で、若い頃のレックスと、見知らぬ女性、そして幼い子供が幸せそうに笑っている。彼はその写真を親指でそっと撫でると、焼け焦げた跡が残るパイロットグローブを強く握りしめた。

「……アストレイア、お前の息子は、お前より無鉄砲かもしれねえな」

誰にともなく呟かれた声は、計器類の低い作動音に溶けて消える。

「だが、あいつの目には、お前と同じ星が映ってやがる……」

それは、かつて守れなかった友への懺悔であり、その息子に未来を託す男の、静かな誓いだった。

その時、艦橋の空気が一変した。 「みんな、来て! ヤバいのが出た! マジで銀河ひっくり返るレベル!」

リナの切羽詰まった声に、カイも船内に戻り、クルー全員が彼女の囲むコンソールを覗き込む。画面には、幾何学的な紋様と、おびただしい数の数式が滝のように流れ落ちていた。

リナは息を呑み、震える指でディスプレイを指し示した。

「このチップ…ただのデータじゃなかった。クロノス・インダストリーが銀河全体に張り巡らせてる情報ネットワーク…その中枢システム『ヒュプノス』を強制的に起動させるための、たった一つの暗号鍵だよ! 奴らが『ヒュプノス計画』って呼んでる、とんでもない計画のね。これは…これは、全人類の記憶と思考を、クロノスの量子サーバーにダイレクト接続して、完全な管理下に置くっていう計画なんだ。紛争も、憎しみも、悲しみも、ぜんぶ消し去る。その代償として…個人の『自由意志』そのものを奪い去ってね。まるで家畜みたいに、プログラムされた平和の中で生きるだけの存在にするってわけ。最悪のディストピアじゃん…!」

言葉を失うカイとレックス。ゼノもまた、その計画の非人間性に、わずかに光学センサーを揺らめかせた。

リナは唾を飲み込み、最後の情報を表示させる。それは、銀河座標だった。 「そして、これが鍵の指し示す場所…『ヒュプノス計画』の根幹に関わる研究施設がある座標。でも、こんな宙域、どの公式星図にも載ってない。意図的に…抹消されてるんだ。記録に残された最後の名称は…『ロスト・セクター』」

その単語が鼓膜を揺らした瞬間、カイの頭蓋の内側で何かが断線した。 キィィン、という激しいノイズ。視界が白く染まり、イメージの奔流が彼を襲う。 燃え盛る巨大な施設。響き渡る警報と人々の絶叫。ガラスの破片が舞う中で、「カイ、逃げて!」と叫ぶ女性の声。そして、瓦礫の山の下敷きになり、動かなくなった誰かの小さな手。

「う、ぁ……っ!」

強烈な頭痛に襲われ、カイはその場に膝をついた。無意識に手が伸び、ズボンのポケットを探る。指先に触れたのは、いつもそこにある、くしゃくしゃになった一枚の写真。自分によく似た少年と、もう一人、どうしても顔を思い出せない親友らしき少年が笑っている。

「ロスト…セクター…?」

うめくように、忘れていたはずの言葉が唇からこぼれ落ちた。なぜだ。なぜ、その名を聞くと、胸が張り裂けそうになるんだ。写真の中の、名も知らぬ親友の笑顔が、胸の奥に突き刺さった鋭い棘のように、激しく痛んだ。

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その頃、銀河の中心に位置するクロノス・インダストリー本社。その最上階にあるCEO、アレクサンダー・クロノスの執務室は、完璧な静寂と秩序に支配されていた。床から天井まで続く書架には膨大なデータクリスタルが整然と並び、部屋の中央にはホログラムのチェス盤が静かに浮かんでいる。

アレクサンダーは、指先でビショップの駒を優雅に進めると、背後に控える部下へと視線を移した。

「ファントムより報告。対象カイ・アストレイアとの接触により、対象の精神に著しい動揺を確認。計画は次の段階へ移行可能かと」

「結構」

アレクサンダーは満足げに頷くと、チェス盤を見下ろしたまま、静かに語り始めた。その声は冷たく、しかし奇妙な熱を帯びていた。

「すべては私の描いた譜面の通りだ。…見なさい。この盤上の駒を。一つ一つは名もなき兵士で、感情に駆られ、予測不能な過ちを犯す。混沌そのものだ。だが、絶対的な意志の下で統率された時、それは完璧な調和を奏でる、美しいフーガとなる。人類も同じだよ。自由という名の耳障りな不協和音を放置すれば、いずれ互いを食い潰し、宇宙のノイズとなって消えるだけだ。戦争、貧困、憎悪…それらすべては、制御されない自由意志が生み出したバグにすぎない」

彼は立ち上がり、巨大な窓の外に広がる星々の海に目を向けた。

「ヒュプノス計画は、支配ではない。救済なのだよ。彼らが失うのは、苦悩と悲劇を生み出すだけの、無価値な混沌だ。そして、手に入れるのは永遠の平和と秩序。私の創る、静謐で完璧な世界だ。カイ・アストレイア…君という、過去の残響が生んだ特異点が、この世界のフーガを完成させる最後の、そして最も美しい和音となるのだ。ファントムには伝えなさい。次の舞台の幕は、もうすぐ上がると」

彼の執務室には、バッハのフーガが荘厳に、そして冷ややかに響き渡っていた。まるで、銀河の運命そのものを奏でているかのように。

スターゲイザーの艦橋は、重い沈黙に包まれていた。誰もが、星図から消された航路の先に待つものを予感し、それぞれの覚悟を胸に刻んでいた。カイはまだ、床に膝をついたまま、ポケットの中の写真を握りしめていた。

冒険は、もう引き返せない領域へと、彼らを導こうとしていた。

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