第5話 漆黒の亡霊、ファントム
スターゲイザーの艦橋は、以前の静寂が嘘のように、生命感に満ち溢れていた。オイルと安酒の匂いに、新たに加わったのは、リナが隠し持ち、いつの間にかそこかしこに置かれている甘い菓子の匂いと、コンソールから絶え間なく流れ出る電子の音だった。
「んー、ここの暗号化(エンクリプト)、マジでエグい。クロノス社のセキュリティ開発部、あたしがいたら絶対採用なのに、もったいないよねー!」
天才ハッカー、リナ・ハインラインは、指先が踊るようにコンソールを叩きながら、マシンガンのように喋り続ける。その傍らでは、戦闘用アンドロイドのゼノが、ヘッドホンを装着して微動だにせず佇んでいた。リナが「カルチャーデータ学習用」と称してインストールした、数万曲に及ぶ音楽ライブラリの中から、彼は今、22世紀のクラシック――電子楽器と生楽器が融合した壮大な交響曲を「鑑賞」しているらしかった。時折、その無表情な顔の青いレンズアイが、微かに光量を増減させる。それが彼の「感動」の表現だとリナは言うが、カイにはさっぱり分からなかった。
「なぁ、ゼノ。それ、楽しいのか?」 カイが声をかけると、ゼノはゆっくりと首をこちらに向け、感情のない合成音声で答えた。 「"楽しい"という感情プログラムは未実装。だが、論理回路に観測されたことのないパターンの電気信号が発生している。リナはこれを"エモい"と定義した。故に、これは"エモい"」 「そ、そうか…」
カイは肩をすくめ、皮肉っぽい笑みを浮かべた。ネオ・アルカディアでこの凸凹コンビを拾ってから数週間。賑やかになったのはいいが、時々この調子で置いてけぼりを食らう。それでも、テラ・ノヴァで一人、ガラクタと空を見上げていた頃の、胸に穴が空いたような孤独感は薄れていた。ここが、仮初めだとしても「家」になりつつある。その事実が、カイを少しだけ感傷的にさせた。
「おい、坊主!感傷に浸ってる暇があったら身体を動かせ!」
背後から、レックスの野太い声が飛ぶ。彼が放り投げてきたシミュレーター用のヘルメットを、カイは悪態をつきながら受け取った。 「はいはい、わーってますよ、教官殿。どうせ今日もコテンパンにされるんでしょ」 「口だけは達者だな。だがなカイ、お前さんのその腐った根性を叩き直しておかねえと、本番で仲間を死なせることになる。それだけは、俺が絶対にさせねえ」
レックスの言葉には、いつもの軽薄さの奥に、ずしりとした重みがあった。シミュレーション・ポッドに入り、戦闘機の操縦桿を握る。初めて触ったはずのそれが、今ではすっかり手に馴染んでいた。
『シミュレーション開始。敵機、三。難易度、ベテラン』
無機質な音声と共に、眼前に仮想の宇宙空間と敵影が広がる。カイはスロットルを押し込み、機体を急加速させた。敵機の動きを読む。右か、左か。思考するより早く、指が動いていた。機体が自然に敵の射線を回避し、カウンターのビームを放つ。 「――見えてる!」 敵機の一機が火を噴いた。だが、背後から別の敵機が迫る。警告音が鳴り響く中、カイは操縦桿を無理やり引き倒した。機体が悲鳴を上げるほどの急旋回。常識外れの機動。だが、身体の奥底から「こうすればいい」という声が聞こえる。 『シミュレーション終了。被弾多数。敵機、二機撃墜。評価、Cプラス』 「くそっ…!」 カイは汗まみれでヘルメットを外した。レックスがポッドの脇に立ち、腕を組んで彼を見下ろしている。 「動きは悪くねえ。むしろ良すぎるくらいだ。だがな、お前の動きにはセオリーってもんがねえ。全部、勘だ。それは強みでもあり、最大の弱点にもなる」 「勘、ね…。自分でもよくわかんねえんだ。ただ、こうすれば避けられる、こうすれば当てられるって、頭の中に映像が浮かぶっつーか…」 「…そうか」レックスは何かを言いかけて口をつぐみ、懐から取り出した禁煙パイポをふかしながら、遠い目をした。「お前の親父も、そういう勘で飛ぶやつだった。理屈じゃなく、星の流れを読むように飛ぶ。だから誰よりも速く、誰よりも美しかった。…だが、そのせいで、奴は…」 レックスはそれ以上語らなかった。だが、その瞳に宿る深い悔恨の色が、カイの胸に小さな棘のように突き刺さる。自分の知らない過去。レックスが隠す何か。そして、この説明のつかない操縦技術。失われた記憶のパズルは、ピースが足りないまま、カイの中で不穏な形を描き始めていた。
その時だった。
『警報!警報!未確認艦隊、急速接近!距離、3000!クロノス・インダストリー所属艦と識別!』
艦橋の空気が一瞬で凍り付く。リナの指がコンソール上を嵐のように駆け巡り、ゼノはヘッドホンを投げ捨てて戦闘準備に入った。 「ちっ、嗅ぎつけやがったか!総員、対ショック、対閃光防御!」 レックスが操縦席に飛び込み、スターゲイザーのエンジンが唸りを上げる。窓の外、漆黒の宇宙空間に、無数の光点が生まれ、それは瞬く間にクロノス社の新型戦闘機の姿へと変わった。統率の取れた、冷徹な動き。だが、その先頭にいる一機だけは、明らかに異質だった。
機体は闇よりも深い漆黒に塗装され、あらゆるレーダー波を吸収するかのように不気味な静けさを湛えている。その動きは、他の僚機のようなAI制御の精密さとは違う。予測不能な、まるで飢えた獣のような獰猛さと、研ぎ澄まされた刃のような洗練が同居していた。 「なんだ、あの一機は…!?データにない!」リナが叫ぶ。 「カイ!銃座へ行け!あいつは俺が引き受ける!」 レックスの怒声に背中を押され、カイは第二銃座へと滑り込んだ。操縦桿を握りしめ、モニターに敵影を捉える。だが、その漆黒の機体と視線が合った――そう感じた瞬間、カイの脳髄を、鋭い痛みとノイズが貫いた。
――燃え盛る炎。人々の絶叫。砕け散るガラス。そして、誰かの泣き声。
「う、ぁっ…!」 こめかみを押さえ、うずくまるカイ。目の前のモニターがぐにゃりと歪む。 「どうした、カイ!しっかりしろ!」 リナの悲鳴のような声が遠くに聞こえる。漆黒の機体――ファントムは、他の僚機には目もくれなかった。スターゲイザーに群がる他の戦闘機を無視し、ただ一点、カイがいる第二銃座だけを執拗に、殺意を込めて狙い撃ってくる。 放たれるビームは、スターゲイザーの装甲を削り、火花を散らす。カイは痛みに耐えながら、必死で応戦した。引き金を引く。だが、指が震える。なぜだ。こいつと戦いたくない。そんな馬鹿げた感情が、心の底から湧き上がってくる。
『――見つけた』
ノイズ混じりの通信回線から、か細く、それでいて憎悪に満ちた声が漏れ聞こえた。
『お前は、俺の全てを奪った…。だから今度は、俺がお前の全てを奪う…!』
その声は、カイの封印された記憶の扉を、無理やりこじ開けようとするかのように響いた。 「誰だ…お前は…!?」 カイの問いかけに、答えはない。ただ、ファントムの攻撃はさらに激しさを増す。スターゲイザーが大きく揺れ、船内の照明が明滅した。 「クソッタレが!ゼノ、船外に出て左舷シールドを補強しろ!リナ、デブリ宙域への最短ルートを割り出せ!逃げ込むぞ!」 レックスの的確な指示が飛ぶ。ゼノは「了解」と短く応えると、エアロックへと向かった。リナは涙目になりながらも、凄まじい速度で航路計算を完了させる。 「ルート出た!三〇秒後にデブリ密集帯に突入する!」 「よし!カイ、持ちこたえろ!」
カイは歯を食いしばり、ファントムに向けて最後のビームを放った。それは狙いを外れ、ファントムの機体のすぐ脇を通り過ぎていく。だが、その瞬間、ファントムの動きが一瞬だけ、ほんの僅かに乱れた。まるで、何かをためらうかのように。その隙を突き、スターゲイザーはデブリの嵐の中へと身を滑り込ませた。
追撃を振り切り、静寂が戻った宇宙船。だが、そこに安堵の空気はなかった。カイは銃座でぐったりと意識を失いかけていた。レックスは黙り込み、その顔にはカイの父を失ったあの日の苦渋が再び浮かんでいた。
一方、クロノス社の追撃部隊から離れた宙域で、ファントムは自機のコックピットに一人、佇んでいた。彼はゆっくりと手を伸ばし、自らの仮面を握りしめる。任務は失敗した。だが、彼の心を占めているのは、それに対する悔しさではなかった。
「なぜだ…」
仮面の下から、苦しげな吐息が漏れる。
「あの機体を見ると…あの声を聞くと…胸が、締め付けられる…。俺は、あいつを殺さなければならない。それが俺の使命だ。なのに…なぜ…?」
理由の分からぬ感情の奔流が、彼の作り上げられた人格を蝕んでいく。その手の中には、彼自身も気づかぬうちに、首にかけていたはずの、古びた銀色のペンダントの感触が、幻のように残っていた。
同じ頃、クロノス・インダストリーの中枢。玉座の間で、アレクサンダー・クロノスは、静かにチェスの駒を進めていた。盤上には、彼の部下との対局の棋譜がホログラムで再現されている。
「チェックメイトだ」
彼は独りごちると、部下からの報告に静かに耳を傾けた。 「ファントムと対象が接触。対象の精神に、予測通りの不安定な兆候を確認しました」 「結構」 アレクサンダーは口元に微かな笑みを浮かべた。彼の部屋には、バッハのフーガが静かに、そして完璧な秩序をもって流れている。 「すべては私の描いた譜面の通りだ。さあ、ラプソディの第二楽章を始めよう。二つの魂が奏でる、悲劇という名の美しい不協和音を」
彼の瞳には、銀河の未来も、カイの苦悩も、ファントムの葛藤も、すべてが美しい芸術品のように映っていた。
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