10話 沈黙の宇宙と魂の叫び

宇宙は沈黙している。だが、スターゲイザーの中は絶叫に満ちていた。ロスト・セクターの歪んだ時空から脱出した古ぼけた貨物船を、クロノス・インダストリーの追撃艦隊がハイエナの群れのように取り囲んでいた。レーザーの豪雨が船体を叩き、装甲が軋み、火花が艦橋のコンソールから噴き上がる。

「右舷シールド、30%切った!このままじゃ船体がもたねえぞ!」

レックス・ヴォルフェンが怒声と共に操縦桿をこじった。ロスト・セクターでの戦闘で負った左腕の傷口から血が滲み、パイロットスーツを赤黒く染めている。それでも彼の瞳は死んでいない。ダッシュボードに並べたラッキーコインが激しい揺れで床に散らばるのを一瞥し、彼は忌々しげに舌打ちした。

「ゼノ!船外の修理はまだか!?」 『…第3装甲ブロック、溶接完了。しかし、エネルギー伝達ラインの損傷が激しく、船体後部へのパワー供給が不安定。タレットは使用不能』

通信機から聞こえるゼノの声は、いつも通り無機質だった。だが、モニターに映し出された船外カメラの映像には、半壊したボディで船体に張り付き、火花を散らしながら必死に修理を続けるアンドロイドの姿があった。その背後を、敵機のビームが掠めていく。

「くそっ、キリがねえ!リナ、次のワープポイントまでどれくらいだ!?」 「そんなもん、計算できるわけないでしょ!ナビゲーションAIはとっくにイカれてるし、敵の妨害電波で星図データもまともに開けないんだから!」

リナ・ハインラインは涙声で叫んだ。指先がコンソールの上を嵐のように叩いているが、表示されるのはエラーコードの羅列ばかりだ。いつもは隠し持っているお菓子で膨らんでいるはずのポケットは、今は空っぽだった。彼女の瞳に映るのは、絶望的な戦力差を示す戦術マップ。スターゲイザーを示す一点の灯火は、無数の赤い光点に完全に飲み込まれようとしていた。

絶望的な喧騒が支配する艦橋。しかし、船の一室だけは、まるで墓場のように静まり返っていた。

カイ・アストレイアの自室。彼はベッドの隅にうずくまり、両手で頭を抱えていた。暗闇の中で、彼の唇からか細い呻きが漏れる。

「俺が…殺したんだ…」

その手の中には、くしゃくしゃになった一枚の写真。テラ・ノヴァのジャンク屋で見つけた時から、なぜかずっと手放せなかったもの。そこに写っていた親友の顔。ファントムの仮面の下にあった、レオの顔。

炎。叫び声。崩れ落ちる瓦礫。そして、自分を庇って動かなくなった親友の姿。取り戻した記憶は、祝福ではなく呪いとなってカイの心を蝕んでいた。親友を救えなかった無力感。そして、ロスト・セクターで、二度目の別離の引き金を引いてしまった罪悪感。

「ごめん…レオ…星を、見る約束…守れなかった…!」

親友の最期の言葉が、脳内で木霊する。

「俺が…俺のせいで…」

ポケットを探り、父の形見の多機能ナイフを握りしめる。冷たい感触が、彼の罪の重さを突きつけてくるようだった。もう何も考えたくなかった。戦う意味も、生きる意味も見失ってしまった。仲間たちの声も、船を叩く衝撃音も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。

その時、艦橋で絶望的な報告が上がった。 「メインエンジンに被弾!出力低下、35%…40%…!ダメだ、このままじゃ…!」

レックスが歯を食いしばる。万事休すか。そう思った瞬間、リナがコンソールから顔を上げた。その頬を涙が伝っている。彼女は席を立つと、カイの部屋に繋がる艦内通信機のスイッチに、叩きつけるように手を伸ばした。

「リナ、よせ!あいつは今…!」 レックスの制止を振り切り、リナはマイクに食らいつくように叫んだ。その声は、絶望と怒りと、そして悲痛な願いに震えていた。

「カイ!聞こえてんでしょ、カイ・アストレイア!いつまでそうやって体育座りしてんのよ!あんたがウジウジしてる間に、レックスもゼノも、あたしも、みんな死んじまうんだよ!」

その叫びは、硬い隔壁を突き抜け、カイの鼓膜を直接揺さぶった。

「…うるさい…」

「うるさいって何よ!レオが死んだのはあんたのせいじゃない!あいつはあんたに生きてほしかったから、自分の命を盾にしたんじゃない!なのに、あんたはここで死ぬ気!?レオの想いも、レックスの覚悟も、ゼノの忠誠も、全部踏みにじって、自分だけ悲劇のヒーロー気取ってんじゃねえよ!」

リナの言葉は、ナイフのように鋭く、カイの心の殻をこじ開けていく。

「…黙れ…」

「黙らない!あんた、昔言ってたんでしょ、レオと!『誰かの犠牲の上に成り立つ平和なんて、偽物だ』って!だったら、今ここでレオの犠牲を無駄にして、クロノスに殺されるのはどうなのよ!?それこそ、あんたが一番嫌いな、偽物の結末じゃないの!?レオが守ろうとした未来を、あんたがここで終わらせるの!?それでいいわけ!?」

リナの魂の叫びが、船内に響き渡る。その言葉は、カイの脳裏に眠っていた、もう一つの記憶を呼び覚ました。

――幼い日。テラ・ノヴァの空ではなく、本物の星空が見えるコロニーで、二人の少年が寝転がっていた。 『なあカイ。俺、いつかクロノスみたいなでっかい会社に入って、戦争をなくすシステムを作るんだ』 『へえ、すごいじゃん。でもさ、レオ。もしそのシステムを作るために、誰かが死ななきゃいけないとしたら?』 『…それは、ダメだ。誰かの犠牲の上に成り立つ平和なんて、偽物だ。そんなの、平和じゃない』 『だよな!じゃあ、俺たちが作ろうぜ。誰も泣かないで済む、本当の平和ってやつを!』

そうだ。それが、俺とレオの、最初の約束だった。

カイはゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた瞳の奥で、小さな、しかし確かな光が灯る。罪悪感の闇の底から、守るべき理想が顔を覗かせる。

彼は立ち上がった。よろめきながら壁に手をつき、ドアに向かって歩き出す。一歩、また一歩。その足取りは、絶望の淵から這い上がる人間の、力強い意志そのものだった。

艦橋のドアが開いた。そこに立っていたのは、抜け殻のような青年ではなかった。その瞳には、絶望の色はなく、揺るぎない決意の光が宿っていた。

「…リナ」 カイは静かに言った。 「悪かった。…聞こえてたぜ、全部」

彼はそのまま空いている副操縦席に滑り込むと、何も言わずに操縦桿を握った。初めて触った時のように、不思議なほど手に馴染む。だが、今度は既視感ではない。確信があった。

取り戻した記憶。 レオとの約束。 レックスの教え。 リナの叫び。 ゼノの献身。 仲間たちとの、短いけれど濃密な旅路。 そのすべてが、彼の頭脳と肉体の中で一つの奔流となって駆け巡る。

「システム・オーバーライド。認証コード、アストレイア。…ラプソディ・プロトコル、起動」

カイが呟くと、スターゲイザーの古びたコンソールが一斉に輝きを取り戻した。メインモニターに、誰も見たことのない幾何学模様と、無数の文字列が流れ始める。

「なっ…なんだこりゃあ!?」レックスが目を見開く。 「これって…父さんが言ってた、スターゲイザーの本当の力…」

次の瞬間、カイの脳内に、未来の光景が流れ込んできた。右から来るビーム。左から回り込むミサイル。艦隊の陣形変化。そのすべてが、数秒先の出来事として「見える」。

父が遺した限定的な未来予測演算システム。それが、スターゲイザーに隠された真の姿だった。

「レックス、舵を俺に!リナ、エネルギーをすべてスラスターに回せ!ゼノ、船内に戻れ!ショータイムだ!」

カイの号令と共に、スターゲイザーは信じられない機動を開始した。まるで宇宙を舞うバレリーナのように、死の弾幕の中をすり抜けていく。敵機のAIが予測した回避パターンの、さらにその裏をかく神がかり的な動き。ビームは虚空を焼き、ミサイルは同士討ちを起こす。それはもはや操縦ではなく、未来と対話する狂詩曲(ラプソディ)だった。

圧倒的な集中砲火を、ただの一発も食らうことなく掻い潜るスターゲイザーの姿に、クロノスの艦隊は混乱に陥った。

追撃を振り切り、ワープゲートに飛び込む直前、レックスは信じられないものを見る目で、隣のカイを見つめた。そして、口の端を吊り上げ、いつもの豪快な笑みを浮かべた。

「…ハッ!やるじゃねえか、親父さんの息子!」

その声は、新たな英雄の誕生を祝福する、銀河からの喝采のように響き渡った。

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