第8話 帳尻を合わせる手

紙を揃える気配は、思っていたより静かだった。
扉の隙間から、まず革靴の爪先が見えた。踵を高く上げず、床を撫でるように運ぶ歩き方。次に、灰色の作業用ジャンパーの袖口が視界へ入る。そこに包まれた手の甲は、年齢の割に染みが少なく、指の関節だけが太かった。長年、紙を数え続けた指の形だった。
木村修一は、館長室の入口で一度立ち止まった。
部屋の中を見渡す視線は、人の顔を追わなかった。私の顔でも、亜紀さんの顔でも、三輪さんの顔でもない。まず机の上を見た。紙の並び、角の揃い方、置かれた順番。そこに乱れがないかを確認する目だった。
「失礼します」
声は低く、湿度を感じさせなかった。挨拶の言葉は形式的だったが、彼はそのまま部屋の中へ入ってきた。誰の許可も待たなかった。長年この館で働いた者だけが持つ、断りなく踏み込める距離感だった。
手には、茶色い封筒があった。膨らみは薄い。だが、封筒の口を留めるゴムの輪が、何度も掛け外しされたように伸びきっていた。
「木村さん」
亜紀さんが立ち上がった。声には驚きよりも、覚悟に近いものがあった。
「退職された方が、閉館作業日に立ち入ることは、正式な手続きが必要です」
「手続きは、今からします」
木村さんは静かに答えた。
「返却棚の裏に、欠番のカードが数枚残っていると聞きました。搬出前に回収しておきたい。ただそれだけです」
「誰から聞いたんですか」
私が聞くと、木村さんは初めて私を見た。
視線は長くなかった。人物を見るというより、机の上に置かれた紙の一枚として、私を数えたような視線だった。
「佐伯さんですね」
「はい」
「几帳面な方だと、植松さんから伺っています」
それは褒め言葉の形をしていたが、褒めているようには聞こえなかった。むしろ、几帳面であることの危うさを、あらかじめ確認しているような口調だった。
木村さんは机の前まで歩み寄り、並べられた紙片を見た。
カード、返却票、台帳の控え、リブラXの印刷記録、久世静江さんの手帳の断片、閉館準備会議の修正前原稿。
私が並べた五つの記録を、彼の目はゆっくりと右から左へなぞった。読んでいるのではなく、数えているのだと分かった。何枚あるか、どの順番で置かれているか、そこに欠けているものはないか。
「揃っていますね」
木村さんが呟いた。
「ただし、順番が違います」
「順番、ですか」
「時刻の古い順に並べるなら、これはこの位置ではありません」
彼の指が、久世静江さんの手帳の断片を指した。
「これは、閉館準備会議の原稿より先に書かれたものです。あなたは、発見した順に並べている。事実の起きた順ではありません」
その指摘は、正しかった。
私は紙を見比べる自分のやり方が、発見の順番に引きずられていたことに、初めて気づかされた。木村さんは、紙の内容を読むより先に、並べ方の乱れを直そうとしている。彼にとって、記録の順番を整えることは、真実を確認することより優先される作業のようだった。
「木村さん」
私は言った。
「順番を直す前に、教えてください。この手帳の一行を書いたのは、久世館長ですか」
木村さんは答えなかった。
答えない代わりに、封筒のゴム輪へ指をかけた。外そうとしたが、すぐに止め、またゴム輪を元の位置へ戻した。何かを出すつもりだったのが、思い直したように見えた。
「答えられませんか」
「答える必要が、まだあるとは思っていません」
「必要がないと、誰が決めたんですか」
「私です」
木村さんの声は変わらなかった。感情の起伏がなく、まるで数字を読み上げるような平坦さだった。
「十年前、地下書庫で資料の搬出中に事故がありました。棚が倒れ、久世館長が下敷きになりかけた。怪我はしませんでしたが、無理な体勢のまま作業を続けたことで、心臓に負担がかかりました。その夜のうちに、館長は倒れられました」
「それは、事故と急死の話です」
私は言った。
「私が聞きたいのは、記録がなぜ改竄されたのか、です」
「改竄という言葉は、正確ではありません」
木村さんは初めて、わずかに語気を強めた。
「私は、記録を整えただけです」
「整えると改竄は、どう違うんですか」
「整えるとは、乱れた紙を元の形に戻すことです。改竄とは、なかったことをあったことにする行為です。私は、あったことをなかったことにしようとしたわけではありません。ただ、順番を変えただけです」
「順番を変えることが、なぜ必要だったんですか」
木村さんは、しばらく黙った。
その沈黙のあいだ、館長室の空気は、地下書庫の冷たさに似た重さを持ち始めた。窓の外では、搬出用のトラックのエンジン音が低く響いている。作業員の声が、遠くでくぐもって聞こえた。館の外側では、閉館という現実が着々と進んでいる。だが、この部屋の中だけは、十年前のどこかで時間が止まったままだった。
「久世館長は、事故の責任を、すべて自分ひとりで引き受けるつもりでした」
木村さんは、ようやく口を開いた。
「地下書庫の整理計画を立てたのは館長です。廃棄予定の郷土資料を、期限を過ぎてまで別置していたのも館長の判断でした。もし棚が倒れた原因が調べられれば、その判断の甘さが問われる。館長は、それを恐れていたわけではありません。ただ、若い職員たちが余計な処分を受けることを、何より恐れていました」
「若い職員というのは」
「当時、地下書庫での作業を担当していたのは、二十代の職員が二人でした。棚を運ぶ手順を誤ったのは、その職員たちです。館長の指示ではなく、現場の判断ミスでした」
「その職員は、今どうしているんですか」
「一人は、他の自治体の図書館へ移りました。もう一人は、この仕事を辞めました」
「藤堂さんは」
私は亜紀さんを見た。
亜紀さんは動かなかった。ただ、机の端を握る指の関節が、白くなっていた。
「藤堂さんは、当時の職員ではありません」
木村さんが答えた。
「藤堂さんは、その翌年に配属されました。事故の直接の当事者ではない」
「では、なぜあなたは、その事故を隠す必要があったんですか。当事者ではない職員を守るためではないなら」
木村さんの視線が、久世静江さんの手帳の断片へ落ちた。
「久世館長を、守るためです」
その言葉には、初めて僅かな湿度があった。
「館長は、事故の夜、すべての責任を自分に負わせるよう、私に指示しました。若い職員の名前を記録から消し、代わりに自分の名前だけを残すように、と。ですが、その指示通りに記録を作れば、館長が過労を押して作業を続けたこと自体が、正式な記録として残ります。館長はそれを恐れていたのではありません。むしろ、望んでいました。自分の責任として、はっきり記録されることを」
「望んでいたなら、なぜ隠したんですか」
「私が、拒んだからです」
木村さんは、初めて視線を上げ、私を正面から見た。
その目には、感情の乱れはなかった。だが、長い年月をかけて固められた、重い決意の色があった。
「館長が、自分の名誉を代償にして若い職員を守ろうとするなら、私はそれを黙って見過ごすことができませんでした。館長は、この図書館に、地域の記憶を残すために、生涯をかけていた人です。その人が、事故の記録一枚のために、名誉を失うのを見ていられなかった」
「だから、記録そのものを消したんですか」
「消したのではありません。空白にしました」
「同じことです」
「違います」
木村さんの声が、初めてわずかに大きくなった。
「消すとは、そこに何もなかったように見せることです。空白にするとは、そこに何かがあったが、書けなかったということを、残す行為です。台帳の欠番、電子履歴の時刻のずれ、返却棚の奥に隠されたカード。それらは全部、誰かが後から気づけるように、わざと残した歪みです」
私は、机の上のカードを見た。
未来日付、4187。
「では、このカードは」
「私が、閉館の前に置きました」
木村さんは、ようやく言った。
「十年前の欠番、4186を、正しい記録として台帳へ戻すつもりでした。しかし、正しい番号でそのまま戻せば、久世館長の判断ミスと、若い職員の過失が、そのまま浮かび上がる。私はそれを、まだ許せませんでした」
「許せない、というのは」
「久世館長の死が、無駄になることが、です」
木村さんの指が、封筒のゴム輪を、また掛け外しした。
「館長は、若い職員を守るために、自分の名誉を差し出そうとしました。私がその指示を拒んだことで、記録は宙に浮いたままになりました。館長を守ったのか、若い職員を守ったのか、私自身にも、もう分からなくなっています。ただ、十年経って、この館が閉じることになった。すべての記録が移送される前に、私はもう一度、帳尻を合わせようとしました」
「帳尻を合わせるとは、何をすることですか」
「欠番のカードを、未来の日付で復元し、それを見つける人間に委ねることです」
その答えは、静かだったが、確かな重みを持っていた。
「私は、もう十年もこの矛盾を抱え続けてきました。誰かに終わらせてほしかった。しかし、自分の手で終わらせる勇気は、最後までありませんでした。だから、見つける人間を、待ちました」
「私を、待っていたんですか」
「あなたが見つけるとは、思っていませんでした」
木村さんは、初めてわずかに目を伏せた。
「ただ、誰かが返却棚の奥まで確認する日が来ることを、待っていました。閉館前の点検は、普段より丁寧に行われます。誰かが、あの隙間に気づく可能性が、最後の夜だけは高くなる」
「それでも、あなたはさっき、カードを回収しに来ました」
「回収するつもりでした」
木村さんは、答えた。
「でも、あなたがすでに気づいていた。だから、回収する意味は、もうありません」
その言葉には、安堵とも諦めとも取れる響きがあった。
私は、机の上に並べた紙片を、もう一度見た。
台帳の欠番。手帳の一行。修正前原稿の赤い線。返却票の押印。カードの未来日付。
どれも、木村さんの手が、十年かけて整え続けた歪みだった。整えることは、隠すことでもあり、同時に、いつか見つかる形で残すことでもあった。彼は、記録を守ろうとしたのではない。記録の中に、消せなかった真実の輪郭を、かろうじて留めようとしていた。
「木村さん」
亜紀さんが、初めて口を開いた。
「あなたは、久世館長の指示に、最後まで従わなかった」
「従いませんでした」
「それは、館長を裏切ったということですか」
「そうかもしれません」
木村さんは、静かに答えた。
「ですが、館長の名前だけを記録に残し、若い職員の名前を消すことは、私にはできませんでした。館長を守るために、若い職員の未来を潰すことになる。それは、館長が本当に望んでいたこととは、違うと思いました」
「では、あなたは、誰を守ったんですか」
亜紀さんの声には、初めて震えがあった。
「誰も、守れませんでした」
木村さんは、答えた。
「久世館長は、名誉を守れないまま、記録の外側で亡くなったことにされました。若い職員は、真実を知らないまま、この館を去りました。私は、両方を宙に浮かせたまま、十年間、帳尻だけを合わせ続けました。守ったのではありません。ただ、崩れないように、支え続けただけです」
三輪さんが、メモ帳を閉じた。
「木村さん」
彼の声には、これまでのような乾いた響きがなかった。
「あなたのしたことは、記録の改竄です。事情はどうあれ、その事実は変わりません」
「分かっています」
「では、なぜ十年前に、正しく報告しなかったんですか」
木村さんは、しばらく答えなかった。
窓の外で、トラックのエンジンが低く唸り、やがて遠ざかっていった。搬出の第一便が、館を離れていく音だった。郷土資料の一部が、この瞬間、館の外へ運び出されている。
「怖かったからです」
木村さんは、ようやく言った。
「館長の死が、事故として正式に扱われれば、この館の管理体制そのものが問われます。閉館が早まったかもしれない。若い職員の名前が公になれば、その人生も別の形で壊れたかもしれない。私は、そのどちらも見たくなかった。だから、記録を宙に浮かせることを選びました。それが、最も傷が少ない道だと、信じていました」
「信じていた、と過去形で言うんですね」
私は言った。
木村さんは、私を見た。
「今は、違うと思っているんですか」
「分かりません」
木村さんの声が、初めて、僅かに揺れた。
「ただ、あなたがこの一枚のカードを見つけたとき、私は安堵しました。十年間、誰にも見つからないことを恐れながら、同時に、誰かに見つけてほしいと願っていた。矛盾しているのは分かっています。ですが、その両方が、ずっと私の中にありました」
私は、机の上の紙を、もう一度、順番通りに並べ直した。
久世静江さんの手帳の一行が、いちばん古い時刻を示している。
――十七時十四分以後は、記録を合わせること。
「木村さん」
私は言った。
「最後にひとつだけ、教えてください。十七時十四分に、何があったんですか」
木村さんは、封筒のゴム輪から、ようやく手を離した。
封筒の口が、静かに開かれた。
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