第7話 紙片を広げる

その音のあと、誰もすぐには動かなかった。

館長室の扉の外で、鍵が回る。金属が錠の内部を探り、戻り、もう一度だけ静かに押し込まれる。音は小さいのに、部屋の中にいる全員の呼吸を止めるには十分だった。

藤堂亜紀さんは、封筒の上へ置いたペーパーウェイトから手を離していた。金属の重みだけが、紙を机へ押さえつけている。封筒の底から覗いていた一枚の角は、もう見えない。

三輪さんが入口へ向かって一歩進んだ。

「誰ですか」

扉の向こうから返事はなかった。

代わりに、廊下の床を何かが擦る音がした。靴底ではない。紙束の端を、指でそろえるような音だった。ふみさんが、私の袖をつまんだ。

「この音……」

「知っているんですか」

「音ではなく、手つきですよ」

ふみさんは低く言った。

「紙を持って歩く人は、歩く前に必ず角を揃える。揃えた紙は、胸の高さで抱えない。腰の横へ下げる。そうすると、紙の端が服に触れて音を立てるんです」

三輪さんが扉の前で立ち止まった。彼は腕時計を見た。秒針が進む音はしない。館長室では、壁掛け時計の針も、止まったままだった。

「誰が来るか、分かっているんですか」

私は尋ねた。

ふみさんは答えなかった。代わりに机の上の紙へ視線を落とした。カード、返却票のコピー、紙台帳の控え、リブラXの印刷記録、久世静江の手帳の断片、閉館準備会議の修正前原稿。どれも、別々の場所から拾ってきた薄い紙だった。

私はそれらを机の中央へ並べ直した。

まず、未来日付の貸出カード。

2027年11月3日。

その下へ、十年前の返却票を置く。

2017年11月3日。

同じ日付の数字が、十年の隔たりを挟んで向かい合った。紙の厚みも、インクの色も違う。けれど、「3」の右端だけが深く沈んでいる。ふみさんが言ったように、同じ旧式貸出機を使った可能性がある。

ただし、押し方は同じではない。

十年前の返却票は、レバーを最後まで押し切っている。数字の輪郭が紙の奥まで沈み、印影の周囲に濃いにじみが出ている。未来日付のカードは、途中で力を抜いたように端だけが深い。印影は新しいのに、押印そのものを目立たせないようにされている。

私はカードを裏返した。

利用者番号の欄には、4187。

その下に、消し跡ではない薄い境目がある。別の紙を重ね、上から鉛筆で写したような線だった。元の番号を消したのではない。元の番号の上へ、別の紙をかぶせ、その上から新しい番号を与えた。

紙台帳には4186がある。

カードには4187がある。

リブラXには4186が、十七時十四分の操作として残っている。

私は印刷記録をカードの横へ置いた。

地下端末。

共通管理番号。

『霧丘の水脈』。

17時14分。

その時刻を、今度は久世静江さんの手帳の断片の横へ置く。

――十七時十四分以後は、記録を合わせること。

さらに、閉館準備会議の修正前原稿を開く。赤鉛筆の下から浮かんだ文字。

――十七時十四分、久世館長、地下閉架側へ移動。

――木村事務主任、貸出カードを回収。

私はそこまで読んでから、紙束から手を離した。

数字の列が、ようやくひとつの方向を向いた。

未来日付のカードは、未来の貸出を示しているのではない。

十年前に欠けた番号を、現在の記録へ戻そうとしている。けれど、正しい番号をそのまま戻せば、紙台帳の欠番とリブラXの操作履歴がつながる。だから、番号は4187へずらされた。日付は現在の日付ではなく、来月の三日へ押された。十年前の十一月三日を、未来の記録に見せかけるために。

過去を隠すために、未来を作った。

私はその考えを、声に出さずに何度も組み直した。

カードは、十年前の欠番4186の代わりに、4187という数字を与えられている。けれど、その下地には4186の跡が残っている。押印された日付は未来なのに、紙の折れ方は古い。棚の奥へ押し込まれた折れ目も、昨夜の誰かが置いたものではなく、十年前に同じような場所へ隠された返却票の折れ方と似ている。

新しく作られたものではない。

古い空白を、現在の手で包み直したものだ。

「佐伯さん」

三輪さんが、私の肩越しに机を見た。

「何か分かったんですか」

「まだ仮説です」

「聞かせてください。仮説なら、仮説として記録します」

彼はメモ帳を開いた。鉛筆の先が紙の上へ触れる。私の言葉を急かすように、机を指で小さく叩いた。

「カードの日付は、未来のものではありません。十年前の十一月三日に起きたことを、現在の記録へ入れるために、別の日付へずらしたものだと思います」

「なぜ、未来へずらす必要があるんです」

「過去の日付で押せば、十年前の欠番と直接つながります。けれど、未来の日付なら、現在の閉館作業に紛れ込ませられる。誰かが今日、悪戯で押したようにも見える」

「つまり、偽装ですか」

「はい。ただ、隠すためだけではありません」

私はカードを指で押さえた。

「見つけられるようにも置かれています。台帳へ正しく戻すつもりなら、4186と書けばいい。でも、4187にして返却棚の奥へ入れた。これは、完全に消すための処理ではありません。欠番の存在を知らせる人間が、わざと誤った形で残したように見えます」

「誰が?」

「分かりません」

「分からないのに、そこまで言えるんですか」

「紙がそう言っています」

三輪さんが顔をしかめた。

「紙は証言しません」

「証言はしなくても、矛盾は残します。日付、番号、紙質、押印、操作端末。全部を同じ説明に入れようとすると、誰かが後から記録を足したことになる」

「その誰かが、十年前から同じ人間だと?」

「木村さんの可能性があります」

三輪さんは何も書かず、メモ帳の端を押さえた。

「可能性だけで名前を書くのは、報告書では危ない」

「分かっています」

「あなたは、正しさを求めるわりに、ずいぶん危ういところへ踏み込みますね」

「踏み込まなければ、誰かが紙を回収して終わります」

そのとき、亜紀さんが口を開いた。

「回収されるべき紙もあります」

「どの紙ですか」

「すべての紙が、誰かを救うわけではありません」

「救う必要がない、ということですか」

「そういう意味ではありません」

「では、何を守るために回収するんですか」

亜紀さんは答えず、机の上の原稿を見た。赤鉛筆で削られた文字が、紙の下から薄く浮かんでいる。

彼女の手が、ゆっくりとその上へ伸びた。

「久世館長は、事故の責任を自分が引き受けるつもりでした」

「自分が?」

「当時、地下書庫の整理を進めたのは館長です。廃棄予定の資料を残す判断も、返却期限を過ぎた郷土資料を一時的に別置した判断も、すべて館長の指示でした。もし資料が紛失したなら、責任は館長にある。そういう形にすれば、若い職員へ責任が及ばずに済むと、館長は考えたのでしょう」

「でも、記録を消したのは久世館長ではない」

私は言った。

「少なくとも、押印の癖は違います」

「誰が消したかを、あなたは知りたい」

「はい」

「知れば、何かが戻ると思いますか」

「戻らないものがあることは分かっています」

言葉を選ぶ前に、胸の奥にあったものが出てきた。

「それでも、戻らないから記録するんです。戻せるものなら、記録に頼らなくてもいい。死んだ人を生き返らせられない。失われた時間も取り戻せない。だから、あとから触れられる形で残すしかない。誰かを守るために空白にしたなら、その空白が誰を傷つけたのかまで残さなければ、守ったことにはならないと思います」

亜紀さんは私を見た。

彼女の瞳には、怒りより疲労があった。疲労の底に、十年間しまわれていた後悔が沈んでいるように見えた。

「あなたは、何も知らないから言えるのです」

「知りたいから言っています」

「知ったあとでも同じことを言えるとは限りません」

「それでも、知らないままでは決められません」

ふみさんが、カードの端を見た。

「このカードは、誰かが戻したかったものですね」

「戻したかった?」

「ええ。完全に隠したい人なら、こんな置き方はしません。番号を正しく書き、日付を合わせ、台帳の中へ入れる。そうすれば誰も見つけられない。けれど、このカードは違う。未来の日付を押し、番号を一つずらし、返却棚の奥へ置いている」

「わざと不自然にした」

「見つける人を選んだのかもしれません」

その言葉が、胸に引っかかった。

「選んだ?」

「紙に気づく人を、です。返却棚の奥を覗く人。番号の一桁を放っておかない人。日付の二分差を、誤差で済ませない人」

ふみさんは私を見た。

「見つけられる人が見つけるまで、誰にも見つからないように置いた」

私はカードを見つめた。

誰かが私を知っていたとは思えない。けれど、図書館には、私がどういう場所を確認する人間かという記録がある。作業手帳に付けたメモ。返却棚の点検順。紙の角を揃える癖。閉館前に、誰も見ない棚の奥まで確認すること。

もし木村さんが長くこの館を見ていたなら、私がカードを見つける可能性を予測できたのかもしれない。

その考えに、背中が冷えた。

調査しているのは自分だと思っていた。だが、誰かが私の目の届く場所へ、調べるための紙を置いたのだとしたら、私は見つけさせられている。

扉の外で、また紙が擦れた。

今度は近い。

誰かが、机の上の紙を一枚ずつ数えているような音だった。

ふみさんが振り向いた。

「来ますよ」

「木村さんですか」

「たぶんね」

三輪さんが扉の脇へ立った。手は腰へ伸びていない。だが、姿勢が変わった。軽い確認のために来た警察官ではなく、現場を保存する側の人間の立ち方になっている。

「藤堂さん」

扉の向こうから、男の声がした。

低く、平らだった。

「原本は、まだありますか」

亜紀さんの顔が固まった。

返事をする前に、彼女は机の上のカードを見た。未来の日付、4187の番号、まだ乾いた痕跡を残すインク。次に、手帳の断片と修正前原稿へ目を移した。

「ここにはありません」

亜紀さんが言った。

声は落ち着いていたが、語尾がわずかに遅れた。

「そうですか」

男は扉の外で答えた。

「では、こちらで確認します」

ドアノブが下がる。

私は反射的に、机の紙片へ手を伸ばした。カードを透明ファイルへ戻し、台帳の控えを重ね、手帳の破片をその上へ置く。紙を隠すためではない。順番を崩さないためだった。

紙台帳。

リブラX。

手帳。

議事録。

返却票。

五つの記録を、私は一枚ずつ並べた。

数字の違いを、時刻の違いを、紙の厚みを、誰かの沈黙を、同じ机の上へ置く。

私はまだ、真相を知らない。

ただ、未来日付のカードが未来から来たのではないことだけは、もう疑えなかった。誰かが過去を現在へ運び込んだ。その手は、運び込んだ証拠を隠しきれず、しかし完全には消さずに残した。

そのために、未来という日付を使った。

扉が開いた。

廊下の白い光が館長室へ細く差し込み、紙の端を照らした。乾いたインクの艶が、机上で一瞬だけ強く光る。

私は顔を上げた。

紙を揃える気配が、こちらへ入ってきた。

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紙片を広げる - 欠番の夜 - 誰でも作家life