第6話 整えられた机

館長室へ戻ると、藤堂亜紀は机上をすでに整えていた。
会議資料の角が揃い、ペンが三本、軸の向きを同じにして並べられている。金属製のペーパーウェイトは、薄い封筒の上に置かれていた。封筒の端だけが、机の木目からわずかに外れている。
私はそのずれを見た。
ほんの数ミリだった。けれど、亜紀さんが気づいていないはずはない。彼女は書類を重ねる前に、必ず角を揃える。揃えたものの位置が乱れていれば、内容を読むより先に直す。なのに、その封筒だけが机の線から外れていた。
「資料移送の順番を確認しておきます」
亜紀さんは私たちを振り向かずに言った。
「郷土資料の第一便は午後一時。市史資料館の車が来ます。廃棄対象は地下の仮置き場から先に出す。紙台帳と議事録の原本は館内に残します」
植松ふみさんが、私の隣で足を止めた。
「原本は、金庫へ入れるんですか」
「その予定です」
「予定ではなく、もう決まっているような言い方ですね」
亜紀さんの指が、資料の端で止まった。
彼女は返事の前に一拍置いた。その間に、机上のペンを一本だけ持ち上げ、向きを直してから置き直す。
「閉館準備の予定は、できるだけ変更しないほうがいいので」
「変更しないために、確認をするんでしょう」
私は手帳の切れ端を差し出した。
久世静江の筆跡で残された一行。
――十七時十四分以後は、記録を合わせること。
紙片は透明なファイルに入れてある。表面には地下の埃がまだ薄く残り、端には古い紙の毛羽立ちが見えていた。亜紀さんはそれを受け取らなかった。視線だけを落とし、一行を読み、またすぐに会議資料へ戻した。
そのわずかな動きの間に、顔の筋肉が硬くなった。
けれど、声は乱れなかった。
「閉館準備で、皆、少し神経質になっています。古い紙は、思いがけない誤読を招くことがあります」
「誤読ではありません。久世館長の手帳の断片です」
「筆跡が似ている、というだけでは」
「紙の継ぎ目も、押印も確認しています」
「確認したのは、植松さんと佐伯さんですね」
「三輪さんが写真を撮りました」
「写真は紙そのものではありません」
「だから、原本を見せてください」
亜紀さんは私を見た。
館長室の窓から差し込む白い光が、眼鏡の片側に細く反射している。瞳は見えにくかったが、机の端を押さえる指先は見えた。爪の脇がわずかに白くなっている。
「原本とは、どれのことですか」
「十年前の閉館準備会議議事録です」
「十年前に、この図書館の閉館準備会議はありません」
「では、地下書庫の事故処理に関する会議録」
「正式な名称を言ってください」
「その名前が記録から消えているから、確認したいんです」
ふみさんが静かに息を吐いた。
三輪さんは部屋の入口に立ったまま、腕時計を見ていた。彼は会話に割って入るのをためらっているようにも、話の形を記録しているようにも見えた。手には例の小さなメモ帳がある。ページの端を親指で押さえ、鉛筆を持ったまま書かない。
「藤堂さん」
三輪さんが言った。
「地下の端末については、現時点で不正操作と断定できません。ただ、使用者が記録されていない共通管理番号だった。外部侵入の痕跡はありません」
「内部の誰かが触った、と?」
「可能性はあります。可能性を潰すには、鍵の管理記録が必要です」
「鍵は私が管理しています」
「それなら、なおさら記録が要ります」
亜紀さんは三輪さんへ視線を移した。
「鍵の貸出簿は、閉館作業の資料に含まれています。確認には時間がかかります」
「時間がかかるから確認しない、という話ではないでしょう」
三輪さんの声は乾いていた。けれど、昨日のような軽さはなかった。
「私も図書館の仕事を詳しく知っているわけではありません。紙の厚みや押印の角度まで見分けろと言われても、正直、そこまではできない。ただ、使われていないはずの部屋の端末が操作されていて、その操作が未来日付のカードと同じ資料に関係している。そこまで重なると、勘違いとして処理するには材料が多い」
「それでも、事件だと決めるには足りません」
「決めていません。残しているんです」
三輪さんはメモ帳を開いた。
「記録を残さずに片づけると、あとから誰かが説明することになります。説明する人間がいない場合は、もっと面倒です」
亜紀さんの口元が、ごくわずかに引き結ばれた。
「警察の方は、事情を単純にしすぎる傾向があります」
「図書館の方は、複雑にしたものを手順と呼ぶ傾向がある」
言葉がぶつかった。
大きな声ではなかった。だからこそ、館長室の静けさが二人のあいだに張りつめた。廊下を台車が通り過ぎる。車輪が床の継ぎ目を越え、ひとつ、ふたつと小さく跳ねた。
亜紀さんは、封筒の上のペーパーウェイトへ手を伸ばした。
金属の底が机に触れ、乾いた音がする。
「この封筒には、閉館準備会議の修正前原稿が入っています」
彼女は言った。
「修正前、ということは、修正後もあるんですね」
「正式な議事録は別に保管されています」
「なぜ修正前のものを館長室に?」
「比較のためです。議事録は、決定事項だけが残ればいいわけではありません。どの段階で文言が変わったかを確認することもあります」
「それなら、見せてください」
「今ですか」
「今です」
亜紀さんは答えなかった。
私は机上の封筒を見た。ペーパーウェイトが置かれているのに、封筒の左端だけが浮いている。糊の部分が一度剥がされ、あとから押し戻されたような膨らみだった。
「その封筒、昨日はありませんでした」
「昨日もありました」
「金庫の上には、原本ファイルと赤鉛筆しかありませんでした」
「見落としたのでは」
「封筒の端が、金庫の取っ手に触れていました。位置まで覚えています」
亜紀さんの指が、ペーパーウェイトから離れた。
「佐伯さんは、ずいぶん細かいところを見ているんですね」
「見えるので」
「見えるものが、すべて重要とは限りません」
「重要かどうかを決める前に、見たことを残します」
「その姿勢が、誰かを追い詰めることもあります」
「分かっています」
自分の声が思ったより低く出た。
「それでも、見なかったことにはできません。学生の頃、記録の誤りを見つけて、確信がないから黙りました。その一行のせいで、別の人が不正を疑われた。あとから訂正できると思っていたんです。でも、訂正されるまでの時間に、その人は周囲から切り離された。記録は、間違ったままでも人を動かします」
亜紀さんは、私の手帳へ視線を落とした。
「あなたは、正しさが人を傷つけることを恐れている」
「恐れています」
「それでも続けるのですか」
「正しさが傷つけるのではなく、正しさを使う人間が傷つけるんです。だから、記録を整える人間だけに任せたくない」
ふみさんが、机の端を指先で撫でた。
「亜紀さん」
その呼び方には、職員と館長の距離より古いものがあった。
「静江さんも、同じことを言っていましたよ。正しい記録を残すことと、誰かを守ることは、同じではない。でも、どちらかを選んだふりをして、もう片方を消してはいけない、と」
亜紀さんはふみさんを見た。
「久世館長の言葉を、今になって都合よく使わないでください」
「都合よく使っているのは、私でしょうか」
「十年前、あなたは何も言わなかった」
「言えませんでした」
「言わなかったのと、言えなかったのは違います」
「ええ。違いますね」
ふみさんは少し笑った。笑みはすぐ消えた。
「だから、私は十年分を覚えています。覚えているだけでは足りないと知りながら、紙を捨てられずにいました。あの夜、地下の返本箱に残っていたものを拾って、家へ持ち帰った。返却票も、破れた付箋も、濡れた紙の端も。誰かに見つかれば、勝手に持ち出したと叱られると思った。でも、処分されたら二度と戻せない」
「それは保存ではありません」
亜紀さんの声が、初めて少し揺れた。
「個人が記録を抱え込めば、別の改竄になります。図書館の外へ持ち出した時点で、正式な記録ではなくなる」
「では、正式な記録から外したのは誰ですか」
ふみさんは尋ねた。
亜紀さんは答えなかった。
「誰かが紙を拾わなければ、正式な記録から外されたものは、そのまま消える。私は正しい方法を選べなかった。でも、正しい方法を選べる人たちが、あの夜、何を選んだのかも見ています」
館長室の空気が重くなった。
私は机上の赤鉛筆へ目を向けた。芯は短く、木部には指で何度も擦った跡がある。議事録の修正に使われたものだろう。けれど、それだけではない気がした。何かを書き直すたび、書き直した人間の指先に赤い粉が移り、その粉が別の紙へも残っていく。
亜紀さんは封筒を手に取った。
「修正前原稿を見せます」
封筒の口は、封を切ったあと再び閉じられていた。糊の面に薄い紙粉が付着し、何度か開け閉めされたことが分かる。亜紀さんは中から数枚の原稿を取り出し、机へ置いた。
紙束の一番上には、現在の閉館準備会議の日付がある。
その下に、十年前の資料移送に関する議事録が混じっていた。
「これは、閉館準備の資料ではないですよね」
私は言った。
「関連資料です」
「十年前の廃棄判断が、今の移送順に関係している」
「郷土資料の保存区分は、過去の判断を引き継いでいます」
原稿の一ページ目には、赤鉛筆の修正線が何本も引かれていた。文言を削り、別の言葉へ置き換えている。そこには「地下書庫」「返却期限超過資料」「館長立会い」といった文字が残っていた。
私は赤線の下を目で追った。
修正前の文は、かろうじて読める。
――十七時十四分、久世館長、地下閉架側へ移動。
その後ろに、赤鉛筆で別の時刻が書かれていた。
――十七時二十分、館長室にて作業継続。
私は原稿から顔を上げた。
「この二つの時刻は、どちらが正しいんですか」
「議事録の修正前原稿です。最終版が正しい記録です」
「最終版では、十七時二十分に館長室で作業継続となっている」
「はい」
「でも、手帳には十七時十四分以後、記録を合わせるとある」
「その一行が、久世館長のものだと確定していません」
「筆跡は同じです」
「筆跡鑑定をしたわけではありません」
「では、なぜ修正前原稿に十七時十四分があるんですか」
亜紀さんの手が紙束の端へ伸びた。彼女は原稿を取り上げようとしたが、私は先にそのページの角を押さえた。
「まだ見せてください」
「原本を乱雑に扱わないでください」
「扱っていません」
「あなたは、紙を押さえつけている」
「飛ばないようにしているだけです」
「紙は押さえつければ、指の跡が残ります」
「では、館長が端を揃え直すたびに残る跡も確認しますか」
亜紀さんが私を見た。
言い過ぎた。だが、彼女の目にも怒りはなかった。怒りより深いところで、何かを手放しかけているように見えた。
三輪さんが、原稿の時刻を覗き込んだ。
「十七時十四分に地下閉架側。十七時二十分に館長室。移動時間は?」
「階段を使えば、二分から三分です」
私は答えた。
「では、矛盾はない」
三輪さんは言った。
「十七時十四分に地下へ行き、十七時二十分に館長室へ戻ることは可能です」
「ただし、時計が十七時十四分で止まっている」
「それは時計の故障です」
「故障した時刻が、移動の起点と一致している」
「一致しているだけです」
「では、なぜリブラXの操作時刻も十七時十四分なんですか」
三輪さんは口を閉じた。
現場を現実へ戻そうとしていた男が、初めて言葉を失った。彼は腕時計へ目を落としたが、針は動いている。動いているからこそ、止まった時刻を説明できないことが際立った。
亜紀さんが原稿を一枚引き抜いた。
「十年前の端末記録は残っていません」
「残っていないのではなく、見せていないのでは?」
「佐伯さん」
「すみません。でも、地下端末が昨夜も使われていた。十年前も、同じ端末が使われた可能性があります」
「可能性です」
「その可能性を確認するための原稿です」
「あなたは、確認という言葉で、過去の人間を何度も現在へ呼び戻している」
その言葉に、私は答えられなかった。
亜紀さんは続けた。
「久世館長は、亡くなったと記録されています。木村さんは退職しました。私は今、閉館を終えようとしている。過去を開けば、そこにいた人間だけでなく、残った人間まで説明を求められる。説明できないことがあるのではなく、説明すれば誰かが別の形で傷つくことがあるんです」
「それでも、記録は残ります」
「残るから困るのです」
「残らなければ、もっと困ります」
「誰が困るんですか。死んだ人ですか。もういない館長ですか。あなたのように、何も知らずに紙を見つけた人ですか」
声は大きくなかった。けれど、亜紀さんの言葉には初めて、押し込めていた感情の輪郭が出ていた。
「困るのは、残された人です。過去を訂正できないまま、毎日その続きをしている人間です。記録の一行を直せば済むと思っても、その一行を信じて生きた人がいる。真実を出せば救われる人もいるでしょう。でも、救われない人もいる。私はその両方を知っています」
私は机の上の紙を見た。
赤鉛筆の線は、文章を消しているようで、完全には消していない。線の下から元の文字が浮かぶ。消すことと、見えなくすることは違う。見えなくしただけのものは、紙の厚みやインクの沈みとして残る。
「だから、整えるんですか」
私が尋ねた。
「誰かが壊れないように」
「壊れないように、記録のほうを壊す」
亜紀さんの手が止まった。
「それが正しいとは言っていません」
「でも、続けている」
「続けなければ、もっと多くのものが崩れる」
「崩れたものを隠しても、崩れた事実は消えません」
「あなたは若い」
「はい」
「だから、まだ事実を一つに戻せると思っている。けれど、時間が経つほど、事実は人間の数だけ分かれていく。誰かにとっては事故で、誰かにとっては過失で、誰かにとっては黙っているしかなかった夜になる。そのすべてを一つの記録に入れようとすれば、今度は記録が嘘をつく」
長い沈黙が落ちた。
私は原稿の端へ触れた。赤鉛筆の線の下に、別の文が残っている。
――久世館長、地下閉架側にて資料束を確認。
その次の行は、赤く塗りつぶされていた。だが、紙の凹凸を斜めから見ると、消された文字の筆圧が読める。
――木村事務主任、貸出カードを回収。
私は息を止めた。
「ここに、木村さんの名前があります」
亜紀さんは原稿を取り戻そうとした。
「見せてください」
「館長」
三輪さんの声が止めた。
「その行、写真を撮ります」
「正式な許可が必要です」
「今、目の前にある資料です。隠す理由もありません」
「隠しているわけでは」
「では、撮らせてください」
亜紀さんは答えなかった。
ふみさんが、原稿の赤線を指先でなぞった。線の端には、赤鉛筆の芯が一度強く押し込まれた跡がある。
「この削り方、木村さんですね」
「断定しないでください」
「断定ではありません。手の癖を見ています。木村さんは、文章を消すとき、最後の一文字だけ線を弱くする。全部を潰すと、あとで読めなくなるから。戻す可能性を残すんです」
「戻すつもりがあったなら、なぜ十年もそのままなんですか」
私が聞くと、ふみさんは答えなかった。
亜紀さんが、机上の資料を一枚ずつ重ね始めた。ペーパーウェイトを外し、封筒へ原稿を戻し、端を揃える。手順は正確だった。正確すぎて、指先の震えだけがかえって目立った。
「今日はここまでです」
亜紀さんは言った。
「原稿は金庫へ入れます。地下端末の記録は、正式な照会を通して確認します。佐伯さん、これ以上、勝手に資料を探さないでください」
「勝手にではありません。館長の許可を取っています」
「地下資料室の閲覧許可です。館長室の文書を持ち出す許可ではありません」
「私は持ち出していません」
「持ち出す前に、止めています」
亜紀さんは原稿を封筒へ入れ、封筒の口を二度折った。折り目を爪でなぞり、その上にペーパーウェイトを戻す。
封筒の左端が、また机の木目から外れた。
私はそのずれを見つめた。
「封筒の中に、まだ何かありますか」
「修正前原稿だけです」
「全部見せてもらいましたか」
「あなたが見た範囲では」
「見ていないページがある」
亜紀さんの手が止まった。
私は机の端を指した。封筒の底から、薄い紙の角が覗いている。原稿を戻したとき、亜紀さんが最後に一枚だけ、他の紙より奥へ差し込んだものだった。
「それを、見せてください」
「関係ありません」
「関係がないなら、なぜ隠すんですか」
「隠していません」
「では、出してください」
亜紀さんは私を見た。
赤鉛筆が、ペーパーウェイトの脇で静かに光っている。館内のどこかで、運搬用の箱が擦れた。窓の外の霧が薄れ、旧市街の屋根が少しずつ現れている。
彼女は封筒へ手を伸ばした。
その瞬間、館長室の外で、鍵が回る音がした。
誰かが入ってくる。
亜紀さんは反射的に封筒を机の中央へ移した。今度は、寸分のずれもなく木目に合わせた。
扉の向こうから、低い男の声が聞こえた。
「藤堂さん。まだ、原本はありますか」
三輪さんが入口へ振り向く。
ふみさんは、紙端から手を離した。
私は封筒の底から覗く一枚の角を見た。そこには赤鉛筆で、数字がひとつだけ書かれている。
4186。
扉が開く前に、亜紀さんはペーパーウェイトを封筒の上へ置いた。
金属の重みが、紙を机へ押しつける。
そして、その重みの下で、何かがかすかに擦れた。
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