第5話 霧丘郷土資料室

三輪俊介が地下事務室の鍵を受け取ったのは、事務室の壁時計が九時を回った頃だった。
「地下、久しぶりに入りますね」
彼はそう言いながら、点検表の余白に「地下立入・立会人四名」と書き込んだ。字は乱雑だったが、時刻の欄だけは几帳面に、分単位まで記されていた。腕時計を見る癖が、こんなところにも表れている。
藤堂亜紀は鍵束から地下用の一本を外すと、それを手のひらの上で軽く弾ませた。金属の重みを確かめるような仕草だった。
「端末には触れないでください。写真と記録だけです」
「わかっています」
私は手帳を胸ポケットに戻し、階段の方へ向かった。植松ふみさんは、返本用のトレーを事務机に置いてから、私の後ろについてきた。トレーの中身を持ち込まない。それが、彼女なりの地下への礼儀のように見えた。
階段は、思っていたより急だった。
一段ごとに温度が下がっていく。コンクリートの壁は湿った冷たさを帯び、照明のうなりが耳の奥にまとわりついた。踊り場の電球が一つ、点滅している。誰も直そうとしなかったのか、それとも直す必要がないほど、長く使われていない場所なのか。
「この匂い、変わりませんね」
ふみさんが呟いた。
「昔からですか」
「ええ。紙の匂いと、木の匂い。それに、ずっと湿った匂い。乾かない場所は、乾かないままなんです」
階段を降りきると、扉が二つ並んでいた。左が地下事務室、右が霧丘郷土資料室。三輪さんが先に事務室の扉を開け、灯りを点けた。埃を含んだ光が、古い机とブラウン管に近い形の端末を照らし出す。
「これが、地下端末ですか」
私は入口から中を覗き込んだ。触れることは許されていない。ただ、画面の電源ランプが、赤く小さく灯っているのが見えた。使われていないはずの端末が、今も通電している。
「電源、落としていないんですね」
「システムの都合で、常時通電にしています」
藤堂館長の声は平坦だった。
「常時通電なら、誰でも操作できます」
「鍵のかかった部屋です」
「鍵は、誰が持っているんですか」
亜紀さんは、答えの代わりに鍵束を握り直した。指の関節が、白くなるほどではないが、確かに強く力を込めていた。
三輪さんが端末の写真を撮った。シャッター音が、狭い部屋の中で不自然に大きく響く。
「よし、事務室はこれで。次、資料室ですね」
右の扉を開けると、空気が一段冷たくなった。古い紙の乾ききった匂いに、湿った木の匂いがかすかに混じっている。天井の低い部屋には、スチール棚が隙間なく並び、廃棄予定と書かれた段ボール箱が、床の半分近くを埋めていた。
「ここが、霧丘郷土資料室」
ふみさんが、懐かしむような、それでいて緊張した声で言った。
「昔はもっと広く感じたんですけどねえ」
「狭くなったんですか」
「いいえ。物が増えて、通れるところが減っただけです」
ふみさんは棚の間を、迷わずに進んでいった。身体が道を覚えているのだと分かる。私はその後ろから、埃の積もった段ボールの側面を読んだ。
――霧丘の水脈(複本)。旧水路図(劣化)。井戸調査報告書。
どれも、紙台帳で見た資料名だった。
「これ、開けていいですか」
「写真を撮ってからにしてください」
三輪さんが応じた。彼は退屈そうな顔をしていたが、目だけは棚の隅々を確認していた。侵入者の痕跡を探しているのか、それとも別の何かを探しているのか、私には判断できなかった。
段ボールの蓋を開けると、湿った紙の匂いが強くなった。積み重なった郷土資料の背表紙は、どれも摩耗している。押印の凹み、返却票の折れ跡。どれも人の手が触れた痕だった。
一冊ずつ持ち上げていく。ふみさんの指先は、表紙を撫でるように動き、時々止まった。止まるたびに、彼女は小さく息を吸い、また次の一冊へ移った。
その手が、束の底で止まった。
「これは」
ふみさんの声が、いつもよりわずかに低かった。
資料束の底から、薄い紙の切れ端が滑り出た。表紙はなく、綴じ糸の跡だけが残っている。角は擦り切れ、白く毛羽立っていた。だが、書かれている文字は、乱れのない丁寧な筆致だった。私はその字に、見覚えがある気がした。台帳の欄外にあった修正の筆跡や、金庫の上に置かれた議事録の隅で見た文字と、どこか似ている。
「久世館長の字だと思います」
ふみさんが言った。
「間違いありませんか」
「間違えません。この人の字は、句読点の打ち方が独特でした。急いでいるときほど、丁寧になる人でしたから」
私は紙片を受け取った。掌の上で、紙は思ったより軽かった。だが、書かれている内容の重さは、軽さとは釣り合わなかった。
廃棄判断の順番。搬出先。棚番号。細かく記された事務的な文字列の中に、一行だけ、書き方の違う箇所があった。筆圧が強く、文字の間隔が詰まっている。急いで書かれたか、あるいは、書きながら何かをこらえていたか。
「十七時十四分以後は、記録を合わせること」
声に出して読んだ瞬間、地下の冷たさが一段深くなった気がした。
「十七時十四分」
私はその数字を繰り返した。
「二階の、止まった時計と同じです」
ふみさんは答えなかった。彼女は紙の端を、親指の腹でゆっくりと撫でていた。何かを確かめるような、それでいて、確かめたくないような手つきだった。
「押印を見てください」
ふみさんが言った。
紙片の隅、日付の欄に、小さな印影があった。旧式貸出機特有の、角のわずかに丸い印字。だが、印の沈み方が、私が知っている打ち痕とは違っていた。
「レバーを最後まで落としていません」
私は言った。
「途中で力を抜いています。それに、少し傾いている」
「そうです」
ふみさんは顔を上げた。老眼鏡の奥の目が、いつもより硬く見えた。
「これは、あとから押したものです。急いでいたわけじゃない。むしろ、慎重に、痕跡を薄くしようとした押し方です」
「誰の癖ですか」
「分かりません。でも、久世さんの押し方ではありません。あの人は、いつも最後までレバーを落としました。躊躇なく、正確に」
「では」
言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。
木村さんの名前が、喉元まで出かかっていた。だが、それを口にする前に、後ろで藤堂館長の呼吸が変わったことに気づいた。
振り返ると、亜紀さんは紙片を見つめたまま、動かなくなっていた。表情は変わっていない。だが、彼女の指先が、鍵束の輪を強く握りしめている。金属が皮膚に食い込むほどの強さだった。
「館長」
「……続けてください」
亜紀さんは短く答えた。声には、いつもの平静さがあった。だが、その平静さの下に、何か堰き止めているものの気配があった。
三輪さんが、紙片の写真を撮った。シャッター音が響き、地下の静けさをわずかに切り裂く。彼はカメラを構えたまま、私とふみさんを交互に見た。
「これ、何の記録ですか」
「まだ分かりません」
私は答えた。
「でも、この一行が書かれた時刻と、二階の時計が止まった時刻が、同じです」
「偶然かもしれない」
「偶然にしては、この館の記録には、同じ数字が多すぎます」
三輪さんは、それ以上何も言わなかった。ただ、腕時計を一度だけ見た。彼の手首の上では、時間は止まらずに進んでいる。だが、この部屋の空気だけは、十年前のどこかで止まったまま、動いていないように感じられた。
私は紙片を透明ファイルへ入れた。角を揃え、日付の押印が擦れないよう、そっと挟み込む。
十七時十四分。
その数字は、まだ何も語り終えていなかった。だが、地下の冷たさの中で、確かに何かが動き始めていた。
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