第4話 台帳の継ぎ目

翌朝の霧丘図書館は、閉館準備の照明に白く漂っていた。
自然光の少ない地下階だけでなく、二階の閲覧室まで天井灯がすべて点いている。窓の外には薄い霧がかかり、高台から見下ろす旧市街の屋根は、輪郭を失っていた。搬出用の木箱が通路の両側に並べられ、保存、移送、廃棄と太い文字で記されている。昨日まで本を収めていた棚が空洞をさらし、その空洞へ、建物そのものの年齢が滲み出していた。
紙と埃と乾いたインクの匂いに、梱包用テープの薬品臭が混じっている。
私は受付裏の事務机へ、昨夜の貸出カードを運んだ。透明ファイルの中で、2027年11月3日の押印が白く光っている。インクはもう乾いていたが、古い紙へ染み込んだ印影の鈍さとは違った。押した人間の指の温度まで、まだ紙の表面に残っているように見える。
紙台帳、リブラXの閲覧履歴、昨夜印刷した地下端末の操作記録。三つを机の上へ並べ、端を揃えた。
揃えたはずなのに、落ち着かなかった。
紙台帳の『霧丘の水脈』には、利用者番号4186、貸出時刻十七時十二分とある。リブラXには同じ番号が残り、処理時刻だけが十七時十四分へずれている。さらに、カードそのものには4187と記されていた。
4186。
4187。
十七時十二分。
十七時十四分。
昨夜から何度も見ている数字なのに、並べ直すたび、別の形に見えた。数字は同じでも、その前後に置かれた記録が違えば、意味が変わる。記録とは、事実を保存する箱ではなく、事実をどの順番で見せるか決める枠なのだと、藤堂館長は言っていた。
私はその言葉を思い出しながら、台帳の該当ページを指でなぞった。
紙の表面は乾いている。けれど、4186の周囲だけ、わずかに柔らかかった。何度もページを開閉したせいだろうか。それだけなら、資料がよく借りられたという説明で済む。だが、その番号の前後には、台帳全体の摩耗と違う細い光沢があった。
紙を一度、外した。
そう思った。
「ここ、見てごらん」
背後から植松ふみさんの声がした。
彼女は古い返本用トレーを抱えていた。エプロンのポケットから、折り畳まれた小さな紙が覗いている。私の机まで来ると、トレーを置き、机の線と平行になるよう数ミリ動かした。それから老眼鏡を掛け、私の肩越しに台帳を見た。
「4186のところですね」
「はい。前後の紙と色が違います」
「色だけじゃありません」
ふみさんは台帳を閉じなかった。紙の端を親指と人差し指で挟み、表と裏を交互に撫でる。指先が紙の上を移動するたび、擦れる音が小さく響いた。
「紙の繊維が、ここだけ逆向きです。綴じ直した紙なら、穴や糸の跡が残る。でもこれは、一度ばらしてから別の紙を差し込んだ跡に近いね」
「差し替えたということですか」
「断定はしません。けれど、元からこの順番だった紙の動きではありません」
ふみさんは台帳を裏返し、窓から入る白い光へ透かした。数字の裏側に、薄い鉛筆線が浮かぶ。消し切れなかった線が、古い傷のように紙の中へ残っていた。
「4185の次が4187になっている」
「4186が欠番です」
「番号だけなら、使われなかった可能性もあります。貸出カードを作る前に欠番になった番号なら、帳尻は合う。でもね」
ふみさんはカードの入った透明ファイルを見た。
「4186は、使われている。電子記録に残っているもの」
「台帳から外して、リブラXには残した」
「あるいは、リブラXへ残したあと、台帳だけから抜いた」
ふみさんの声は柔らかい。だが、紙へ触れる指先は迷っていなかった。
「佐伯さん。紙は、誰がいつ触ったかを全部は覚えません。でも、順番を変えられたときの無理は残します。角を揃えて、色を合わせて、文字を似せても、紙の呼吸までは合わせられない」
「木村さんの手つきですか」
聞くと、ふみさんはすぐには答えなかった。
彼女は紙を裏返したまま、しばらく黙っていた。沈黙が長くなるほど、私の耳には館内の音が細かく分かれて聞こえた。遠くで台車の車輪が軋む音。梱包テープを切る音。二階のどこかで、空調の羽根が一度だけ震える音。
「木村さんは、紙を乱暴に扱わない人でした」
ふみさんはようやく言った。
「紙を裏返すときも、必ず右端から。帳票の番号を確かめるときは、指で二度なぞる。書類を重ねるときは、右下の角を合わせてから左上を見る。あの人は、紙の扱いだけなら、とてもきれいでした」
「それが、差し替えた理由になるんですか」
「きれいだから、分かりにくいんです」
ふみさんは台帳を机へ戻した。
「雑な人が隠したものなら、誰でも気づきます。けれど、木村さんは隠すときほど、元からそうだったように整える。紙の向きも、ラベルの高さも、日付の並びも。だから、整いすぎているところが目立つ」
私は4185と4187の間にある空白を見た。
空白は、数字そのものより黒かった。
「十年前にも、同じような欠番がある」
私は過去の記録を開いた。
紙台帳の保存区分を遡り、『霧丘の水脈』の旧番号を検索する。リブラXが導入されたのは十年前より後だったため、電子履歴には閲覧記録だけが残っていた。けれど、紙台帳の索引には、資料番号の脇へ細い鉛筆で別の番号が書かれている。
4179。
4180。
4181。
そこから先の三つが、抜けていた。
抜けた期間は、十年前の十月二十八日から十一月四日までだった。
私は日付を見たまま、息を止めた。昨夜のカードに押されていた日付は十一月三日。十年前に欠落した期間の真ん中に、同じ日付がある。
「この一週間だけ、番号が飛んでいます」
「何の資料ですか」
「郷土資料室の貸出記録です。『霧丘の水脈』と、旧水路図、それから井戸の調査報告書」
ふみさんの表情から、穏やかな色が少し消えた。
「その頃、地下で整理がありました」
「整理だけですか」
「図書館では、整理という言葉がいろいろなものを包みます。棚を動かしたことも、廃棄したことも、誰かが倒れて救急車を呼んだことも、記録の上では同じ『整理』になる」
私は顔を上げた。
「誰かが倒れたんですか」
「……今のあなたは、聞いた言葉をすぐ数字の横へ置こうとするね」
「置かないと、あとで忘れます」
「忘れることと、まだ言えないことは違いますよ」
ふみさんはトレーの中から一枚の古い返却票を取り出した。紙の端は何度も折られ、薄く白くなっている。中央には、十年前の日付が押されていた。
「これを、ずっと持っていました」
「返却票ですか」
「返本作業で見つけたものです。返却処理の箱に入っていたのに、誰も台帳へ戻さなかった。私が戻そうとしたら、木村さんに止められました」
「何と言われたんですか」
ふみさんは返却票を見下ろした。
「『その番号は、もう使わない』と」
「理由は?」
「聞きました。でも、木村さんは返却票の角を揃えてから、『使わないものに理由はいらない』と言った」
私は返却票を受け取ろうとした。
ふみさんは、すぐには渡さなかった。
「これを出すと、私も黙っていたことになります」
「黙っていたことと、隠したことは同じですか」
「違うと思いたいから、今まで持っていたんでしょうね」
ふみさんは苦笑した。
「でも、覚えているだけでは記録にならない。そういうことを、私はこの十年で何度も見てきました。覚えている人がいなくなれば、最初からなかったことになる」
彼女は返却票を私へ差し出した。
紙には、資料番号の欄があった。上から別の紙を重ねて押したような跡があり、元の数字は読めない。ただ、日付の押印だけははっきり残っている。
2027年ではない。
2017年11月3日。
私はカードと返却票を並べた。
同じ日付。
同じ資料区分。
押印の角度は違うが、数字の「3」の右端だけが深く沈んでいる。
「これは、昨夜のカードと同じ日に押されています」
「十年前のものです」
「はい。でも、押し方が似ています」
「似ているのではなく、同じ機械かもしれません」
ふみさんは、返却票の押印へ指を近づけた。
「ただし、昨夜のカードは古い貸出機を途中で止めている。こちらは最後まで押し切っている。十年前は、誰かが急いでいたのかもしれません」
「誰が」
「そこまでは、紙には書いてありません」
紙台帳の継ぎ目へ、私は返却票を重ねた。紙の色、厚み、繊維の粗さ。返却票のほうが古い。だが、折れ方だけはカードと似ている。角を一度折り、狭い隙間へ押し込んだような折れ。
「この返却票も、どこかへ隠されていたんですか」
「地下の返本箱の底です。木村さんが処分する紙をまとめていた箱」
「なぜ捨てなかったんですか」
「捨てる前に、私が拾ったからです」
ふみさんは静かに言った。
「本を返す場所が図書館なら、紙を返す場所も図書館であってほしいと思っていました。誰かが書いたものを、誰かの都合だけで捨てるのは、返却ではなく消去ですから」
その言葉は、胸の奥に残った。
私は、学生の頃に見逃した一行を思い出した。あのときも、誤記を見つけたあと、誰かが直すだろうと思った。訂正されることを期待して、何もしなかった。けれど、記録は自然には元へ戻らない。誰かが戻そうと手を伸ばさなければ、曲がったまま次の記録を支える。
事務室の扉が開いた。
藤堂亜紀館長が入ってきた。右手に閉館準備会議の原本ファイル、左手に鍵束を持っている。鍵が触れ合う音は小さく、けれど彼女が歩くたびに同じ間隔で鳴った。
「資料の確認は、許可を取ってからにしてください」
声は落ち着いていた。
私はカードと返却票を並べたまま、館長を見た。
「返却票が見つかりました。十年前のものです」
亜紀さんの視線が返却票へ落ちた。カードを見たときより長く、しかし表情の変化は少なかった。
「どこから?」
「植松さんが保管していました」
「保管ではなく、持ち出しではありませんか」
ふみさんが顔を上げた。
「持ち出したのではありません。処分される箱から拾いました」
「その箱は、処分の許可が下りたものです」
「返却票までですか」
「期限を過ぎた処理票や重複記録は、保存対象ではありません」
「では、なぜ日付と番号が残っているんですか」
亜紀さんは一拍置いた。
「残っていることと、残す価値があることは別です」
「価値を決めるのは誰ですか」
「図書館の保存基準です」
「保存基準にないものは、存在しなかったことになる」
「そういう言い方はしていません」
「でも、捨てられた紙は、あとから存在を証明できません」
私の声が硬くなった。亜紀さんは返事をせず、原本ファイルの角を机へ合わせた。置く場所を決め、ファイルを滑らせ、紙束の端を整える。
「佐伯さん。図書館の記録を守ることは、すべてを残すことではありません。限られた予算と人員の中で、残すものを選ぶ必要があります。何もかも抱えれば、最も大切なものまで保てなくなる」
「それは分かります」
「ならば、廃棄を隠蔽のように扱わないでください」
「廃棄と差し替えは違います」
「差し替えたと、もう決めたのですか」
「ふみさんが、台帳の継ぎ目を見ています」
「紙の状態だけで、人の行為は決められません」
亜紀さんの言葉は冷静だった。だが、眼鏡の縁へ触れた親指が、わずかに震えていた。
ふみさんは返却票を台帳の横へ戻した。
「館長さん、これは普通の綴じ直しではありません」
「植松さん」
「あなたも分かっているはずです。紙の色が違う。前後の穴が合っていない。差し込んだ紙のほうが、少しだけ幅が狭い。だから、右端を揃えると左側に空気が溜まる」
「古い台帳です。保管環境で変形することもあります」
「変形した紙は、糸の跡まで消しません」
ふみさんの声に怒りはなかった。怒鳴らないからこそ、言葉が逃げ場を失った。
「私は木村さんを責めたいわけではありません。あの人が何を守ろうとしたのか、十年前から考えています。けれど、守るために抜いた紙は、抜かれた側の人間をどこへ置いたのか。そこだけは、聞かなければいけないと思います」
亜紀さんは返却票を見た。
「植松さんは、十年前のことをどこまで覚えていますか」
「全部ではありません」
「では、記憶だけで判断しないでください」
「だから、紙を見ています」
亜紀さんは黙った。
私は、二人の間に置かれた紙片を見た。カード、返却票、台帳。どれも薄い。けれど、それぞれの薄さの中へ、誰かが長い時間を押し込んでいる。
「十年前の十月二十八日から十一月四日まで、郷土資料の記録が抜けています」
私は言った。
「この期間に、地下で何かありましたか」
亜紀さんの顔から、整えられた表情が一瞬だけ剥がれた。
「事故がありました」
ふみさんが息を吸った。
亜紀さんはその音を聞いたのか、ファイルの上へ手を置いた。
「地下書庫で、資料の搬出中に棚が倒れました。怪我人が出たわけではありません。資料の一部が濡れ、紛失したものもある。閉館後の整理作業でしたから、正式な利用記録として残す必要はないと判断されたのでしょう」
「誰が判断したんですか」
「当時の館長と事務主任です」
「久世静江館長と木村さん」
亜紀さんは答えなかった。
「久世館長は、その夜に亡くなったと記録されています」
「体調を崩されたんです」
「事故の直後に?」
「それ以上は、私から話すことではありません」
「記録にないからですか」
亜紀さんの指が、ファイルの表紙を押さえた。
「佐伯さん。記録にないことを、ないと言い切るのは危険です。ですが、記録にないことを、あるとも言い切れない。それが記録を扱う人間の最低限の慎重さです」
「では、地下端末の17時14分は?」
「まだ確認できていません」
「紙台帳の4186は?」
「欠番の理由が判明していません」
「十年前の返却票は?」
「保存基準から外れた紙です」
「未来日付のカードは?」
亜紀さんは私を見た。
「それは、昨日からあなたが調べているものです」
「全部、分からないままです」
「分からないことを、誰かの罪にしないでください」
「罪にしているのではありません。空白を空白のまま残したくないだけです」
亜紀さんは目を伏せた。
「空白にも、理由があります」
「その理由を隠した人がいる」
「理由を話せば、誰かを傷つけることがあります」
「話さなければ、傷ついた人がいなかったことになります」
言ってから、私は声を落とした。
「事実を知ることが、いつも人を救うとは思っていません。でも、改竄は救ったことにすらしてくれない。痛みを記録の外へ押し出して、誰も痛まなかったように見せるだけです」
館内のどこかで、箱の蓋が閉じる音がした。
亜紀さんは、長いあいだ返事をしなかった。
やがて彼女は鍵束から一本を外し、机の上へ置いた。細い金属の鍵だった。表面が擦れて、刻印がほとんど消えている。
「地下事務室の鍵です」
私は鍵を見た。
「入っていいんですか」
「三輪さんが来てからです。私は立ち会います。端末には触れない。資料も勝手に動かさない。見つけたものは、その場で記録する」
「原本台帳は?」
「地下へは持ち込みません」
「十年前の議事録は?」
亜紀さんは、ファイルの留め具へ目を落とした。
「金庫の中です」
「見せてもらえますか」
「必要があれば」
「必要かどうかを判断するために、見たいんです」
亜紀さんはまた一拍置いた。
「あなたは、手順を急ぎすぎます」
「館長は、手順の後ろへ隠しすぎます」
空気が止まった。
言い過ぎたと思った。だが、亜紀さんは怒らなかった。怒る代わりに、机上のファイルの角を揃えた。右端、左端、最後に中央。何かが崩れそうになると、彼女はまず紙を整える。
「三輪さんを呼びます」
亜紀さんは言った。
「その前に、十年前の該当ページをコピーします。佐伯さん、必要な範囲を示してください」
私は台帳を開いた。
4184。
4185。
空白。
4187。
指先で空白をなぞる。紙の継ぎ目は、見えない縫い目のようにページを横切っていた。
私は複写範囲を決め、日付を書いた。日付を書くとき、ペン先がほんの少し震えた。未来の日付のカードを見つけてから、時刻がすべて過去へ引き戻されている。昨日の17時14分、十年前の11月3日、そして欠番になった4186。
欠けた番号は、単独で消えたのではない。
誰かが記録の列から抜き、その空白を別の紙と電子履歴で塞ごうとした。けれど、塞いだ紙の色も、番号の順番も、時刻の二分差も、完全には揃わなかった。
整えられたものほど、継ぎ目を持つ。
私はコピー用紙を台帳の下へ差し込み、角を合わせた。
そのとき、ページの綴じ側から、細い紙片が滑り落ちた。
床へ落ちる前に、私は手で受け止めた。
紙片には、鉛筆で一行だけ書かれていた。
――十一月三日、閉架側の時計を止める。
筆跡は、久世静江のものに見えた。
私は紙片を裏返した。裏には、時刻があった。
17:14。
事務室の外で、三輪さんの足音が近づいてきた。
亜紀さんは紙片を見て、初めて明らかに息を詰めた。ふみさんは何も言わず、返本用トレーの中身を一冊ずつ端へ寄せている。
私は紙片を机の中央へ置いた。
その一行は、台帳の継ぎ目より細く、けれど深く、十年前の夜と昨夜のカードをつないでいた。
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