第3話 紙台帳とリブラX

翌朝、図書館は開館前から明るすぎた。
搬出用の照明が廊下の天井に並び、まだ誰も座っていない閲覧室まで白く照らしている。書架のあいだに積まれた木箱は、昨夜より数が増えていた。箱の側面には、保存、移送、廃棄の文字が太いマーカーで書かれている。紙と埃の匂いに、梱包用テープの乾いた薬品臭が混じっていた。
私は受付裏の事務机に座り、昨夜のカードを透明ファイルから取り出した。
封印は破っていない。藤堂館長と三輪さんの署名が入った預かり票も、手帳に挟んである。カードの表面には、乾ききったインクの艶が残っていた。昨夜より光は弱い。それでも、古い紙に押された日付としては新しすぎる。
2027年11月3日。
私は日付を書いた手帳の欄を開き、カードの脇へ置いた。メモには、発見時刻、場所、紙の状態、番号の相違が並んでいる。文字の大きさも行間も揃っているのに、最後の一行だけ、わずかに右へ寄っていた。
――リブラX照合。
その文字を見ていると、昨日の館長室での会話が戻ってきた。
記録は事実の置き場ではなく、事実を扱うための枠だと藤堂館長は言った。枠から外れたものは、どこへ行くのか。昨夜は答えを聞けなかった。だから今日は、枠の内側を調べるしかない。
事務室の端末を起動すると、古い冷却ファンが低く唸った。画面に蔵書管理システム、リブラXの青い起動画面が浮かぶ。導入から十年近く経つシステムで、職員のあいだでは「新しい紙台帳」と呼ばれていた。電子化された記録は紙より扱いやすい。検索も速い。だが、消した痕跡まで消えるわけではない。
私は検索欄に『霧丘の水脈』と入力した。
該当資料は一件だけ表示された。
資料番号、所蔵区分、配架場所、貸出可否。どの項目も、画面上では整っている。だが、貸出履歴を開いたところで、指が止まった。
17時14分。
昨夜も見た時刻だった。
紙台帳では17時12分。リブラXでは17時14分。二分の差は、表示の誤差として処理できる範囲かもしれない。けれど、私はその二分を見過ごせなかった。
数字は揃って見える。けれど、揃っているからこそ怖い。人が意図して揃えたものは、崩れたときの音がしない。
私は履歴の詳細を開いた。
貸出処理者の欄には、職員共通の管理番号が表示されていた。利用者番号は4186。紙台帳の番号と同じだ。カードに書かれた4187だけが、そこから外れている。
画面の下部には、処理時刻のほかに更新時刻が表示されていた。
17時14分。
貸出処理も、履歴の更新も、同じ時刻だった。
私は息を浅く吸った。誰かが一度だけ入力したのなら、処理時刻と更新時刻が重なるのは不自然ではない。だが、紙台帳の記録は二分早い。紙に先に書き、あとから電子処理をしたのか。あるいは電子記録を先に作り、紙へ写したのか。
それだけなら、単なる手順の違いで済む。
私は履歴を一つ前の記録へ戻した。
『霧丘の水脈』の前に貸し出された資料は、同じ郷土資料室の『霧丘旧水路図』だった。紙台帳の時刻は17時09分。リブラXは17時09分。一致している。
次の資料も、その次も一致していた。
ずれているのは、『霧丘の水脈』だけだった。
「その二分が、どうしてそんなに気になるのかしら」
背後から声がした。
振り返ると、植松ふみさんが返本用のトレーを抱えて立っていた。古いエプロンのポケットから、紙の端が一枚覗いている。彼女は私の返事を待たず、トレーを机の端へ置いた。置いたあと、本体と机の線が合っていないことに気づき、指先で数ミリだけ動かした。
「二分だからです」
「まあ、普通は二分なら、二分でしょうに」
「普通なら、そうです。でも、同じ資料の前後は一致しています。ここだけ二分ずれている」
「機械の時計が遅れていたとか」
「リブラXの時計が、ですか」
「ええ。機械だって疲れますからね」
ふみさんは笑ったが、すぐに画面へ目を移した。
「ただ、機械が疲れていたなら、全部の記録がずれるはずです。『霧丘の水脈』だけではなく」
「誰かがその資料を扱ったときだけ、別の時刻を使った」
「そう考えています」
ふみさんは画面を覗き込み、指で机の上のカードを示した。
「紙のほうが先だと思いますよ」
「なぜですか」
「カードの押し跡です。日付を押したあと、紙を台帳へ重ねて書くと、台帳の筆圧がカードに移る。けれど、このカードには台帳の線がありません。先にカードがあって、あとから番号だけを合わせようとした感じです」
「番号だけを?」
「日付は合わせられなかったのでしょう。未来の日付のまま残った。あるいは、残した」
ふみさんはカードに触れず、空中で指先を止めた。
「佐伯さん。紙の記録は、書いた順番を隠せません。隠そうとした人の手つきまで、紙が覚えていることがあります」
「電子記録はどうですか」
「電子のほうは、誰かが消しても、消したことを別の場所へ残します。紙も電子も、黙っているようで、完全には黙れないんですよ」
その言葉が、画面の青白さの中へ沈んだ。
私は管理メニューを開き、操作履歴を表示した。通常の職員画面からは見えない項目だが、閉館作業のため一時的に権限を与えられている。パスワードを入力し、履歴の期間を昨夜の十七時から十八時へ絞る。
いくつかの処理が並んだ。
貸出登録。返却処理。資料移動。利用者情報照会。
17時14分の行だけ、文字が濃い。
クリックすると、詳細が開いた。
操作端末は一階受付の端末ではなく、地下事務室の端末だった。
私は画面に顔を近づけた。
「地下?」
ふみさんも身を寄せた。
「昨夜、地下の端末は使われていませんよね」
「地下は閉めていました。少なくとも、私が帰るときには灯りも消えていました」
「操作した職員名は出ません」
「共通管理番号ですか」
「はい。けれど、端末番号は出ています」
私は操作履歴を印刷した。プリンターがしばらく沈黙したあと、紙を一枚吐き出した。印字された文字は熱を持ち、インクの匂いはしない。それでも、紙が出てくる音だけが、妙に大きく聞こえた。
地下事務室端末。
操作時刻、17時14分。
資料番号、『霧丘の水脈』。
利用者番号、4186。
私は紙台帳の該当箇所をもう一度見た。17時12分。担当者欄には、手書きの小さな丸印がある。丸印の右端が少し潰れていた。昨夜、藤堂館長が預かり票に押した印影とは違う。ふみさんが教えてくれた旧式貸出機の打ち痕とは別の、手書きの印だった。
「地下で処理した理由がありません」
私は言った。
「返却棚は一階です。紙台帳も受付裏にある。わざわざ地下の端末へ行って、リブラXだけ操作する必要がない」
「地下に、古い端末が残っていたのかもしれません」
「調べてみますか」
ふみさんの声には、問いかけより決意があった。
そのとき、事務室の扉が開いた。
藤堂館長が立っていた。右手には閉館準備会議のファイルがあり、左手には鍵束がある。鍵同士が触れ合う音は小さかったが、静かな部屋では金属の冷たさまで聞こえた。
「地下へ行く必要はありません」
彼女は言った。
私は印刷したばかりの履歴を机に置いた。
「地下の端末から、昨夜17時14分に『霧丘の水脈』の操作が行われています」
藤堂館長は紙を見た。すぐには触れず、まず印字の端を確認し、それからファイルの角を揃えた。
「古い端末の時刻設定がずれている可能性があります」
「時刻設定がずれていても、操作場所は変わりません」
「端末が何らかの同期処理をしたのかもしれません」
「貸出処理まで自動で行うんですか」
「リブラXの仕様について、私はすべてを把握しているわけではありません」
返事の前の一拍が、昨日より長かった。
私は画面を館長へ向けた。
「同じ時間帯の操作を確認しました。17時14分に地下端末から行われた処理は、この一件だけです。自動同期なら、ほかの資料も同じように記録されるはずです」
「システムは、必ずしも人間の都合のいい形では動きません」
「では、地下端末を見せてください」
藤堂館長は、鍵束を握り直した。
「地下は現在、廃棄対象資料の仮置き場です。書架も動かしています。安全確認なしに入ることはできません」
「昨夜のカードに関係している可能性があります」
「可能性だけで、閉館作業を止めることはできません」
「閉館作業を止めたいのではありません。記録を確認したいんです」
「記録を確認するために、別の記録を壊すことになれば本末転倒です」
「記録は、見るだけで壊れません」
「人が触れば変わります」
「触れないで見る方法を作ればいい」
私の声が大きくなり、ふみさんが静かにトレーへ手を置いた。
藤堂館長は、私を真っ直ぐ見た。顔色は変わらない。ただ、眼鏡の縁を親指で押さえている。緊張しているときの仕草だと、昨夜の彼女を見て気づいていた。
「佐伯さん。あなたは記録を信じすぎています」
「信じているわけではありません」
「では、なぜそこまで執着するのですか」
「信じていないからです。記録は、誰かが書いたものです。だから、書かれた順番と、書かれなかった部分を見なければならない」
「それで、誰かを疑う」
「疑う前に、確認しています」
「確認には限度があります。すべてを疑えば、何も保存できない」
「保存するために、何を捨てたのかを知る必要があります」
館長室のファイルが、藤堂館長の手の中でわずかに鳴った。
「あなたは、まだこの館で働き始めて日が浅い。資料が移送される順番も、廃棄の基準も、職員がどれだけ時間を使ってここを維持してきたかも知らない。ひとつの数字に引っかかって、全体を止めることが、正しいとは限りません」
「全体が整っているように見えるなら、なおさら一つの数字を見ます」
「なぜです」
「全部を調べることはできないからです。だから、最初に外れた一つを手がかりにする」
言葉にしてから、それが自分のやり方なのだと気づいた。私は全体を信頼しているわけでも、壊したいわけでもない。ただ、どこかにある最初のずれを拾い、そこから順番を戻そうとしている。
ふみさんが、ゆっくり口を開いた。
「館長さん、地下の端末が動いたなら、見ておいたほうがよろしいですよ」
「植松さんまで」
「私は機械のことは詳しくありません。ただ、使われていない場所の記録が、使われたことになっている。そのままにしておくと、あとで地下へ行った人が、最初からそこにいたことにされます」
藤堂館長は、ふみさんを見た。
「その言い方は、誰かを疑っているように聞こえます」
「疑うのではなく、順番を心配しているんです。物には順番があります。人が書類を片づけるときも、返却された本を棚へ戻すときも。順番を一つ飛ばすと、後のものが全部、別の場所へ行ってしまう」
「図書館が閉じるだけです」
「閉じるからこそです」
ふみさんの声は柔らかかったが、言葉は引かなかった。
「開いているあいだは、誰かが覚えていてくれます。あの本はどこへ移した、あの紙は誰が預かった、と。けれど閉じたあとは、覚えている人より、残った記録のほうが長く生きる。そこで順番を間違えると、あとから直せません」
藤堂館長は、しばらく何も言わなかった。
事務室の壁時計が、秒針を刻んでいる。二階の止まった時計とは違う、軽い音だった。けれど、地下端末の履歴に記された17時14分が、その音の一つ一つを押し潰していくように感じられた。
「三輪さんを呼びます」
藤堂館長が言った。
「地下へ入るなら、立ち会いが必要です。佐伯さん、あなたは端末に触れないでください。画面の写真と、操作履歴の確認だけにします」
「分かりました」
「それから、紙台帳は私が保管します」
「なぜですか」
「閉館作業の原本だからです」
「今、照合の途中です」
「原本を開いたままにすれば、紛失や差し替えの危険があります」
「では、コピーを取らせてください」
藤堂館長は一拍置いた。
「必要なページだけにしてください」
「『霧丘の水脈』の前後十件と、十年前の同じ資料の記録を」
彼女の指が、ファイルの角を押さえた。
「十年前の記録まで見るのですか」
「同じ資料なので」
「保存状態によっては、閲覧に許可が必要です」
「誰の許可が必要ですか」
「館長の許可です」
「では、お願いします」
藤堂館長は答えず、鍵束を机へ置いた。
金属の輪が、木の表面で小さく回った。
そのとき、プリンターの横に置いていた紙台帳の控えが、空調の風で一枚だけめくれた。私は反射的に手を伸ばし、紙の端を押さえた。
めくれたページの欄外に、鉛筆の跡があった。
細い数字が並んでいる。
4184。
4185。
次の番号は、4187だった。
4186がない。
私は指でその空白をなぞった。紙はそこだけ少し柔らかく、何度もめくられた跡がある。昨夜見たカードの番号、4187。リブラXに残る利用者番号、4186。紙台帳から消えた番号、4186。
三つの数字が、別々の記録の中で同じ場所を指していた。
藤堂館長が私の手元を見た。
「何かありましたか」
「台帳の番号が飛んでいます」
「古い控えなら、欠番は珍しくありません」
「4186だけです」
「番号の整理上、使われなかった可能性があります」
「それなら、なぜリブラXには利用者番号として残っているんですか」
館長は答えなかった。
ふみさんが、台帳の紙を裏返した。紙の継ぎ目を光へ透かし、指先でそっと撫でる。
「ここ、綴じ直してありますね」
「保存作業の跡でしょう」
藤堂館長の声は平らだった。
「綴じ直すなら、糸の穴が残ります。これは違う。いったん外して、別の紙を入れています」
ふみさんは台帳を机へ戻した。
「紙が嫌がっていますよ」
「紙が、ですか」
「ええ。元の順番に戻されていない紙は、触ると分かります。角が合っていても、呼吸が合わない」
私は、紙の継ぎ目へ顔を近づけた。確かに、前後の紙とは色がわずかに違う。数字の列は整っている。整っているのに、4186だけが落ちている。
その欠番の先に、地下端末の17時14分がある。
「藤堂館長」
私は言った。
「この台帳の原本を、今夜までに移送しないでください」
「移送対象ではありません」
「では、どこへ」
「館長室の金庫です」
「金庫の中に、十年前の議事録もありますか」
彼女の返事は、すぐには来なかった。
その沈黙のあいだに、遠くの廊下から台車の車輪が鳴った。ひとつ、ふたつ。床の継ぎ目を越えるたび、音が小さく跳ねる。図書館の中で、物だけが決められた順番に運ばれていく。
「三輪さんを呼びます」
藤堂館長は、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
だが今度は、地下へ入るためではないように聞こえた。
私は台帳の欠番を手帳へ写した。日付を記し、番号を書き、紙の継ぎ目の位置を測る。ペン先が4186のところで止まった。
その数字を見ていると、昨夜の壁時計が思い出された。
十七時十四分。
紙台帳は十七時十二分。
二分の差の後ろに、欠番がある。
私はまだ、何が起きたのか知らない。けれど、記録の中で消えたものが、消えたままではないことだけは分かり始めていた。誰かが紙から抜き、電子履歴へ移し、別の番号を与えた。その順番を追えば、欠けた一枚がどこへ行ったのかに届くかもしれない。
事務室の扉の向こうで、三輪さんの足音が近づいてきた。
私は台帳の端を揃えた。
整えられた数字の列の中で、欠けた一つだけが、まだ息をしていた。
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