第9話 地下書庫の空気

木村さんが取り出したのは、古い革紐で束ねられた紙の塊だった。

封筒の中に、それだけの厚みが入っていたことに、私は今さら驚いた。表に見えていた薄さは、束の端をたたんで押し込んだ結果に過ぎなかったのだ。紐の結び目は固く、何度も締め直された跡がある。結ぶたびに、指の腹で強く引いた形跡があった。

「これは」

私が尋ねると、木村さんは紐をほどきながら答えた。

「返却期限票の控えです。十年前、地下書庫で処分予定だったものの写しを、私が個人的に取っていました」

「保存していた、ということですか」

「保存ではありません。捨てられなかっただけです」

その言い方は、これまでの木村さんの物言いとは、わずかに調子が違っていた。整えることに慣れた声の底に、初めて隠しきれない湿り気があった。

「まだ、地下に残っているものがあります」

木村さんは言った。

「返却棚の欠番カード以外に、あの夜のことを直接示すものが、資料室の奥に」

「木村さん」

藤堂館長が制止しようとした。だが木村さんは、すでに束を小脇に抱え、扉へ向かって歩き出していた。踵を高く上げない、あの静かな歩き方だった。

「三輪さん、館長と原本の確認を」

私はそれだけ言って、木村さんの背を追った。ふみさんも、返本用のトレーを机に置いたまま、迷わず後をついてくる。

亜紀さんは、何かを言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。彼女の視線が、机の上に残された紙片の列へ落ちるのを、私は扉の隙間から見た。

地下へ続く階段は、二度目でも同じ冷たさで私たちを迎えた。

一段ごとに温度が下がる。踊り場の電球が、点滅を続けている。コンクリートの壁を撫でるように、湿った空気が肌にまとわりついた。木村さんの足音は、階段の継ぎ目を踏むたび、変わらない拍子を刻んでいた。長年、同じ段差を歩いてきた者の歩幅だった。

霧丘郷土資料室の扉を開けると、古紙の乾いた匂いに、湿った木の匂いが混じった。

「ここが、あの夜のままなんですね」

私が言うと、木村さんは振り向かずに答えた。

「棚の位置は変わっていません。倒れた棚だけ、新しいものに換えました」

「倒れた棚」

「あちらです」

木村さんが指したのは、部屋の奥、廃棄予定の段ボール箱が積まれた一角だった。金属棚の脚元には、床のコンクリートにわずかな凹みがある。長年の埃が薄く積もっていても、その凹みの縁だけは、他の床面と違う色をしていた。

ふみさんが、その凹みの前で足を止めた。彼女は膝を折り、指先でコンクリートの表面を撫でた。

「これは、棚が倒れたときの跡ですね」

「そうです」

「久世さんが、ここに」

ふみさんの声が、初めて低く沈んだ。

「はい」

木村さんは束の紐を完全にほどき、返却期限票の写しを一枚ずつ机の上へ並べていった。十年前の日付が押された紙が、埃の匂いの中で薄く光る。

「あの夜、館長は搬出作業の最終確認をしていました。廃棄予定の資料と、保存対象の資料を、最後にもう一度仕分けるためです。若い職員の二人が棚の上段を動かしている途中、支えの金具が外れました」

木村さんの声は、事実を読み上げるように平坦だった。だが、その平坦さの奥で、指先が返却期限票の角をわずかに震わせていた。

「館長は、下敷きになりかけた職員を庇おうとしました。棚は完全には倒れず、途中で止まりましたが、館長はその重みを一人で受け止めました。怪我はありませんでした。ただ、無理な姿勢のまま、そのあとも作業を続けたんです」

「なぜ、すぐに休ませなかったんですか」

私は尋ねた。

「休むように言いました。館長は聞きませんでした」

木村さんは、机の上の紙をもう一枚めくった。

「館長は、その日のうちに搬出リストを確定させたがっていました。職員の過失が記録に残る前に、責任の所在を自分だけに寄せておきたかったんだと思います」

「寄せる、というのは」

「棚を動かす手順を決めたのは自分だ、と記録に書くつもりでした。実際には、若い職員が手順を誤った結果でした。でも館長は、その誤りを、自分の判断ミスとして上書きするつもりだったんです」

私は、久世静江という人物の輪郭が、少しずつ変わっていくのを感じた。穏やかで、現場を尊重する館長。これまで聞いてきた言葉の奥に、もっと硬く、もっと頑なな意志があった。

「館長は、手帳を開いて、その場で書き始めました。十七時十四分、地下閉架側にて資料束を確認、と。搬出リストの下書きです。ですが、その途中で、館長の様子がおかしくなりました」

木村さんの指が、返却期限票の一枚で止まった。

「顔色が悪くなって、机に手をついた。私は駆け寄りましたが、館長は手を止めませんでした。震える手で、最後の一行だけを書き加えたんです」

「十七時十四分以後は、記録を合わせること」

私が言うと、木村さんは頷いた。

「そうです。館長が意識をはっきり保っていられたのは、そこまででした。その後、館長は座り込んで、そのまま倒れました。救急車を呼びましたが、間に合いませんでした」

部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。

金属棚の並びの向こうで、埃が光の筋の中をゆっくりと舞っている。ふみさんは何も言わず、コンクリートの凹みへ視線を戻していた。

「なぜ、その一行が『記録を合わせること』だったんですか」

私は尋ねた。

「館長にとって、あの一行は、若い職員を守れという意味だったはずです。事故の経緯を、館長の判断ミスとして統一しろ、と。私はその通りにするべきでした。でも」

木村さんは、返却期限票の束を見下ろした。

「私にはできませんでした。館長の名誉を、事故の記録一枚のために差し出させることが」

「だから、記録を消したのではなく、欠番にした」

「はい。館長の指示に完全には従わず、かといって、真実をそのまま書くこともできませんでした。中途半端に、宙に浮かせた形でしか、私には整えられなかったんです」

木村さんは、束の底から一枚だけ、色の違う紙を抜き出した。

それは、これまで見てきたどの返却票とも違っていた。日付はなく、押印もない。ただ、鉛筆で書かれた短い文章だけがあった。筆跡は久世静江のものと似ているが、線の運びが少し違う。

「これは」

「館長の手帳から、最後にもう一枚だけ、切り離しておいた紙です。館長が意識を失う直前、震える手で書いた文字を、私が清書したものです。誰にも見せられませんでした。館長の字が乱れすぎていて、そのままでは読めなかったから」

私はその紙を受け取った。

――若い者の名を、記録から消すな。私の名だけ、そこに置け。

書かれていたのは、木村さんがこれまで語ってきた指示そのものだった。だが、清書という行為そのものが、木村さんの十年間を物語っていた。読めない文字を、誰にも見せられないまま、自分の手で整えて、けれど誰の目にも触れさせずに持ち続けていた。

「木村さん」

ふみさんが、静かに口を開いた。

「あなたは、この十年、誰よりも館長の言葉を守ろうとしていたんですね。従わなかったのに」

「従えなかった、が正しいです」

木村さんは、清書の紙を見つめたまま答えた。

「館長の指示に従えば、若い職員は守られたかもしれません。でも、館長の判断そのものが、事故の直接の原因として記録されてしまう。それは、館長が生涯をかけて守ってきたものと、正反対の結果になる。私には、どちらも選べませんでした」

「だから、宙に浮かせた」

「宙に浮かせて、十年、抱え続けました」

木村さんは、返却期限票の束と、清書の紙を、机の上へ並べ直した。埃の匂いの中で、乾いたインクと、古い鉛筆の粉の匂いが、かすかに混じり合う。

「閉館が決まったとき、私は思いました。すべての記録が移送される前に、もう一度だけ、帳尻を合わせようと。ただし、今度は完全に消すのでも、完全に晒すのでもなく」

「未来の日付を、使った」

「はい。見つける人間に、委ねるために」

木村さんは顔を上げ、私を見た。

その目には、これまでのどの瞬間より、はっきりとした光があった。

「佐伯さん。あなたが返却棚の奥まで確認する人間で、良かったと思っています。そう思う資格が、私にあるとは思えませんが」

私は答えられなかった。

コンクリートの凹みが、蛍光灯の白い光の下で、静かに影を落としている。十年前、この場所で一人の人間が倒れ、もう一人の人間が、その最後の言葉を抱えたまま生き続けてきた。

地下の空気は、変わらず冷たかった。

だが、その冷たさの奥に、ようやく形をなした真実が、薄く息をしているように感じられた。

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