第8話 白い欄と、黒い声

翌朝のホームルームは、窓から差し込む熱で、始まる前から息苦しかった。

開け放した窓の外で、白い雲が校舎の屋上をゆっくり越えていく。風はあるはずなのに、教室の中まで届かない。カーテンだけが、誰かに呼吸を合わせるように膨らんでは戻った。

担任が教卓の上へ、回収用の茶色い封筒を置いた。

「進路調査票は、今日の放課後までに提出。第一志望、第二志望、それから志望理由。空欄のまま出さないように」

言われる前から、僕の机の中にはその紙が入っていた。

クリアファイルに挟み、教科書のあいだへ入れ、その上から昨日の数学のプリントを重ねている。隠しているのに、紙の角が鞄の内側へ触れるたび、そこに空欄があることを思い出す。見えないもののほうが、見えるものより重い。

担任が封筒を配り始めると、教室のあちこちで椅子が鳴った。

「もう書いた?」 「第一志望だけなあ」 「俺、県外にするか迷ってる」

迷っていると言いながら、みんなの声には行き先があった。どこへ行くかは決めていなくても、どこへ向かっているのかは分かっている。僕だけが、地図の外に立たされているようだった。

隣の席で、透がシャープペンシルを指のあいだで回していた。いつもなら僕の机を覗き込んで何か言うのに、今日は黒板の横に貼られた合格実績の一覧を見ている。

国立大学、難関私立、医学部。

数字が縦に並んでいる。卒業生の進路を、学校が誇る順番に並べた表だ。そこには演劇も、俳優も、舞台もない。ないものは、存在していないのと同じ顔をしていた。

透が、黒板を見たまま言った。

「駅前のバスターミナル、夜になると無駄に眩しいよな」

「……うん」

「昼間はただの古いロータリーなのに、暗くなると行き先だけは立派に光ってる」

僕は鉛筆を回した。指先が熱い。

「何の話」

「別に。行けそうで行けない感じ、あれ何なんだろうなって」

透は軽く言ったが、言葉の端がこちらを向いていた。

僕は窓の外を見た。白い雲が、どこにも引っかからずに流れている。あんなふうに行き先を持たずに動けたら、少しは楽なのかもしれない。けれど、雲には戻る場所を選ぶ必要がない。

「バスターミナルに行けば、バスには乗れるだろ」

「乗る行き先を決めてないと、乗ったあとに困る」

「困ってから考えるのは?」

「遅い」

「おまえ、そういうところだけ妙に正しいよな」

透が笑った。

僕は笑えなかった。鉛筆の先が机に触れ、かすかな音を立てた。止めようとすると、今度は指が動かなくなる。少しでも手を休めると、机の中の空欄がこちらを見返してくる気がした。

三限の途中、教室の前の扉が開いた。

「佐伯くん、霧島先生が呼んでる」

女子生徒の声に、何人かがこちらを見た。

椅子から立ち上がる。膝の裏が妙に軽い。僕は鞄から進路調査票を取り出し、クリアファイルの奥へ押し込んだ。透がこちらを見た。

「行ってらっしゃい」

「……何それ」

「面談って、帰ってくる保証ないじゃん」

「大げさ」

「じゃあ、戻ってきたら報告しろよ。生存確認」

冗談の形をしていたが、目は笑っていなかった。

僕は返事をせず、教室を出た。

廊下には、夏の光が白く溜まっていた。窓から入る熱気が皮膚にまとわりつく。職員室前を通ると、青い提出箱が目に入った。箱の中には何枚もの調査票が重なっている。誰かが通り過ぎるたび、紙が落ちる乾いた音がした。

僕はその音を聞かないふりをして、進路指導室へ向かった。

扉を開けると、冷気が一気に腕へ触れた。廊下の暑さを背中に貼りつけたままだったから、冷房の風が薄い刃のように感じられる。紙と古い木と、霧島先生が飲んでいる茶の匂いが混ざっていた。

机の上には、僕の進路調査票が置かれていた。

第一志望欄は、当然のように白い。

霧島玲子は眼鏡を外し、書類の端を揃えていた。紙の角がぴたりと重なる。赤ペンと青ペンは、机の縁と平行に並んでいる。その整然とした机の上で、僕の調査票だけが、ひどく乱れて見えた。

「座りなさい」

僕は椅子を引いた。脚が床を擦り、部屋の冷たさの中へ音が沈んだ。

霧島先生は、調査票の白い欄を指で叩いた。

「第一志望がない」

「ないわけじゃ……」

「あるなら、書きなさい」

声は低く、短かった。

「書けない理由があるなら、理由を書きなさい。空欄は理由にならない」

僕は親指の付け根を爪で押した。皮膚の下に細い痛みが走る。

「地元の、普通の大学で」

「どこですか」

「……県内の大学です」

「大学名を聞いているのではありません。あなたが、そこへ行きたい理由を聞いています」

喉の奥が乾いた。机の横に置いた水筒を思い出したが、ここで水を飲むのも逃げるように思えて、手を動かせなかった。

「通いやすいし、成績にも合っていて、将来の選択肢も広いので」

「誰の言葉ですか」

「僕のです」

「違います」

即座に返された。

「学校案内と保護者会と、進路指導資料を混ぜた言葉です。あなた自身の言葉ではない」

眼鏡をかけ直す指が、こめかみの近くで止まった。

「普通であることは悪くありません。安定を選ぶことも、逃げではない。けれど、あなたが選んでいないものを、選んだふりで提出するなら、それは自分を守る答えではない。あとで一番困るのは、あなたです」

「でも、進路って、そういうものじゃないんですか」

思ったより強い声が出た。

「成績を見て、行けるところを決めて、親が安心するように書いて、そこへ向かう。みんなそうしている」

「みんながそうしているから、あなたもそうするのですか」

「そうしないと、誰かに迷惑をかける」

「誰に」

「家族に。学校に。……友達に」

「友達は、あなたが何を選ぶかを決める人ですか」

透の顔が浮かんだ。昼休みに見た、軽口の奥の目。僕が何かを言いかけるたび、先に黙って待つ目。

答えが遅れた。

霧島先生は、その沈黙を急かさなかった。急かされないから、逃げたことだけがはっきりする。

「佐伯君」

「はい」

「あなたは、言葉がなくても分かってほしいという顔をする生徒です。ですが、進路はそうはいきません。書かれなければ、教師は未定と読みます。家族は迷っていると読みます。友人は、あなたが何も望んでいないと思うかもしれない」

「望んでいないわけじゃないです」

声がかすれた。

「なら、何を望んでいるのですか」

僕は鉛筆を持つように、膝の上で指を握った。

俳優。

演劇。

舞台。

頭の中では、何度も言えた。けれど、声に出した瞬間、その言葉は薄くなり、冷たい床へ落ちる気がした。

「……夢を書くなら、夢を守る覚悟も書きなさい」

霧島先生が先に言った。

「覚悟がないなら、まだ迷っていると書けばいい。嘘よりは、ずっとましです」

僕は顔を上げた。

「先生は、夢なら何でも書けと言うんですか」

「何でも、ではありません」

赤ペンのキャップが外れる。小さな音が、部屋の中で異様に響いた。

「夢という言葉で、考えることをやめるなと言っています。俳優になりたいなら、どこで学ぶのか。専門学校へ行くのか、大学で演劇を学ぶのか、劇団を探すのか。費用はどうするのか。生活はどう支えるのか。失敗した場合、何をして立て直すのか。夢を選ぶというのは、夢の名前を口にして終わることではありません」

僕は赤ペンの先を見つめた。

「全部、今すぐ決めろっていうことですか」

「違います。今すぐ決められないことを、決められないままにしないということです」

「……そんなの、無理です」

「無理だと思うなら、無理な理由を書きなさい。費用が分からない。家族に話せない。失敗が怖い。約束を壊したくない。空欄にするよりは、よほど正確です」

約束という言葉が、胸の奥へ刺さった。

僕はそれまで、約束を守るために黙っているつもりだった。透と小学生の頃に交わした、「高校に入っても一緒に何かをやろう」という言葉。何をするかも決めていなかったのに、僕は演劇を選んだら、その約束を壊すと思っていた。

けれど、透に本当のことを言わないまま、僕だけが約束の意味を決めている。それは守っているのではなく、奪っているだけではないか。

「先生」

「何ですか」

「夢を書くのは、誰かを裏切ることになりますか」

霧島先生は、すぐに答えなかった。

窓の外で、グラウンドから笛の音が上がる。冷房の風が、机の上の調査票の端をかすかに揺らした。

「本音を言うことと、誰かを裏切ることは同じではありません」

霧島先生は、赤ペンを机へ置いた。

「ただし、本音を言ったあとに生じる責任から逃げれば、裏切りになることはある。家族が心配する。友人が戸惑う。学校が別の道を勧める。あなたが選んだことで、周囲の予定や期待が変わる。その反応を受け止め、必要な説明をするところまでが、あなたの選択です」

「説明して、それでも反対されたら」

「反対される可能性を、最初からなかったことにしないことです」

言葉は冷たかった。けれど、その冷たさは夢を切り捨てるためではなく、夢を軽く扱わないためのものだった。

「私はあなたに演劇を勧めません。大学も勧めません。進路を決めるのはあなたです。ただ、あなたが自分で選んでいない名前を、第一志望として提出することだけは認めない」

霧島先生は調査票を僕のほうへ滑らせた。

「今日中に書き直しなさい。大学名が決まらないなら、現時点で考えている進路を書く。演劇を選択肢として調べる。家族と話す。必要な情報を集める。そこまでを、自分の言葉で」

紙が机の上を滑ってくる。

指先が熱くなった。冷房の効いた部屋にいるのに、紙のほうが僕の体温を吸い込んでいる。

「書いたら、もう戻れない気がします」

「戻れます」

「でも、一度誰かに渡した言葉は、なかったことにできない」

「その通りです」

霧島先生は僕を見た。

「だから書くのです。なかったことにできない言葉を、自分で選ぶために」

胸の奥で、何かがゆっくりほどけた。

空欄は、何もない場所ではない。何も書かないことを選び続けた場所だ。だから、そこへ一画を置くことは、紙を埋めることではなく、今までの自分へ線を引くことなのかもしれない。

「……分かりました」

「何が」

問い返され、僕は口を閉じた。

分かったわけではない。怖さも、家族の反応も、透との距離がどうなるかも、何ひとつ分からない。それでも、分からないまま逃げることと、分からないものを調べ始めることは違う。

「今日中に、書きます」

「大学名を?」

「……まだ、決められません」

「なら、決められない理由を」

霧島先生は、志望理由書の余白を指で叩いた。

「空欄の代わりになる言葉を、自分で探しなさい」

僕は調査票を受け取った。紙の角が掌へ食い込み、細い痛みが残る。その痛みを、今度は手放さなかった。

椅子を引いて立ち上がる。

「佐伯」

「はい」

「夢を夢のままにしておくのは自由です。誰にも責められない。ですが、夢を選択肢にするなら、言葉にしなさい」

扉へ向かいかけた僕は、振り返った。

霧島先生は、もう別の書類を見ていた。赤ペンを持つ指先が、紙の端を整えている。冷たい人に見えるのに、その手は空欄を埋めるためではなく、僕が自分で書き始めるのを待つために止まっていた。

「……ありがとうございました」

「礼は、書いてからでいい」

廊下へ出た。

熱気がすぐに身体へまとわりつく。冷えていた喉が乾き、シャツの背中に汗が戻ってきた。階段の踊り場から、体育館のほうを見下ろす。仮設舞台の照明が、一度だけ点いた。

白い光だった。

マイクが拾ったハウリングが、きいん、と校舎を震わせる。遠くで誰かが台詞を言い、別の誰かがそれを受けた。

僕はその声を聞きながら、調査票を胸の前で握り直した。

第一志望欄は、まだ白い。

けれど、その白さを、もうただの空欄とは呼べなかった。

何もないのではない。

僕がまだ、最初の一画を置いていないだけだった。

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