第9話 ひまわりホールの赤ペン

放課後の体育館は、昼の熱を床の下に溜め込んでいた。
窓は開いているのに風が入らない。古い扇風機が首を振るたび、ぬるい空気が舞台袖の暗がりまで押し寄せてくる。黒布の端には細かな埃が絡み、照明用のコードは床を這っていた。誰かが動かすたび、仮設舞台の板が低く鳴る。
僕は舞台袖の折りたたみ椅子に座り、赤ペンの跡が増えた台本を開いていた。
柚木先生の修正。先輩の走り書き。僕自身が余白に書いた、息を吸う場所と、相手を見る場所。文字は重なり、ところどころ読めなくなっている。それでも、進路調査票の白い欄より、ずっと生きているように見えた。
台本には、迷った痕が残っている。
消した線も、書き直した言葉も、途中で力を失った鉛筆の跡も、全部が次の一行へ続いている。何もないふりをしている空欄とは違う。ここには、誰かが言葉を置こうとした時間が、そのまま傷になって残っていた。
「佐伯」
柚木先生が、舞台の中央から僕を呼んだ。
白髪の混じった頭に、照明の端の光がかかっている。手にはいつもの赤ペンがあった。先生は椅子に座らず、床板の上でまっすぐ立っていた。少し腰をかばうような姿勢なのに、舞台へ向いた目だけは疲れていない。
「三十七ページ。一行、読んでみなさい」
「一行だけですか」
「一行だから、逃げられない」
僕は台本を持って立ち上がった。
体育館の奥では、部員たちが照明の向きを調整している。金属が擦れる音、床を走る靴音、誰かが喉を鳴らす音。マイクが拾ったハウリングが、きいん、と天井へ突き抜けた。
僕は一度だけ息を止め、ページを開いた。
最初の文字を目で追う。
その瞬間、身体の内側で何かがほどけた。
喉の奥がひらく。胸の浅いところで止まっていた呼吸が背中へ落ち、そこから声が押し出される。日常の会話なら、相手の顔色を見て語尾を弱める。変に思われないように、言葉の角を丸くする。けれど台本の中では、言葉はすでに僕を待っている。
僕は一行を読んだ。
声が、体育館の奥まで届いた。
自分でも驚いた。声量を上げたつもりはない。なのに、黒布の向こうの暗がりが、わずかに揺れたように見えた。
柚木先生が赤ペンのキャップを外す。
「そこだ」
先生は台本の一箇所を丸で囲んだ。
「今のは、うまいんじゃない。届いたんだ」
僕は台本を下ろした。
「……届いた、って」
「声の大きさの話ではない。君は今、自分で置いた言葉を、自分で受け取った」
「自分で?」
「普段の君は、言葉を相手へ渡す前に、相手の顔を見てしまう。嫌われないか、変に聞こえないか、訂正した方がいいか。だから言葉が途中で細くなる。だが今は違った。言葉を置き、置いた責任を引き受けていた」
先生の声は大きくない。それでも、周囲の音が一度薄くなったように聞こえた。
「舞台っていうのは、そういう場所だ。自分を飾る場所ではない。言葉を、自分の外へ出してしまう場所だ。出した以上、戻せない。だから怖い。だが、戻せないからこそ、言葉は誰かのところまで行ける」
僕は台本の赤い丸を見た。
進路調査票の空欄も、言葉を置いていないという意味では同じだった。何も書かなければ、誰にも責められない。間違いにもならない。けれど、何かを選んだことにもならない。
「先生」
「うん」
「僕、舞台に立ちたいです」
言ってから、喉の奥が震えた。
「俳優になれるかは、分かりません。どこで学ぶのかも、まだ全部は決められていない。でも、舞台に立ちたいと思っていることだけは、本当です」
言葉は小さかった。それでも、途中で消えなかった。
先生はすぐには頷かなかった。赤ペンを台本の上へ置き、僕の言葉が床へ落ち着く時間を待っているようだった。
「それを、進路調査票にも書けるかね」
紙の白さが、鞄の中からこちらを見返した気がした。
「……分かりません」
「そうか」
「怖いです。書いたら、母さんにも父さんにも、学校にも、もう隠せなくなる。演劇を選んで失敗したら、最初から無理だったと思われる。僕自身も、そう思うかもしれない」
「失敗しないために、書かないのかね」
「失敗したことにしないために、書かないんだと思います」
柚木先生は、台本の赤い線を指でなぞった。
「それでは、成功したことにもならない」
胸の奥で、固いものが崩れた。
「舞台には、立たなかった役の記録は残らない。立って失敗した芝居なら、次に直せる。間が悪ければ赤を入れられる。声が届かなければ、呼吸からやり直せる。だが、立たなかった理由は、いつまでも直らない」
僕は先生の手元を見た。
「赤ペンを入れるのは、間違いを笑うためではない。届く形へ近づけるためだ。君の言葉も同じだよ。最初から完璧でなくていい。書いて、読み返して、削って、また書けばいい。空欄だけは、直しようがない」
体育館の奥で、照明が一度消えた。暗闇の中に、舞台袖の小さな非常灯だけが浮かぶ。次の瞬間、白いスポットライトが舞台中央へ落ちた。
光の中に立つと、汗が首筋を流れた。シャツが背中に張りつき、喉は乾いている。それでも、目だけは逃げなかった。
「来月の文化祭、ひまわりホールで通し稽古をする」
柚木先生が言った。
「客席は、この体育館より暗い。舞台袖は狭い。照明は古く、客の顔もほとんど見えない。だが、古いホールには古いホールの響きがある。壁や床が、長い時間、人の声を受け止めてきた。君の声も、そこへ置くことになる」
「ひまわりホール……」
駅前の古い市民会館。屋上から見える、くすんだ建物。子どもの頃に一度だけ入ったことがある。客席の軋む音と、舞台袖の狭い暗がりを、僕はなぜか覚えていた。
「君を主演候補に入れる」
「僕が、ですか」
「他に誰がいる」
「でも、進路のこともあって……」
「だからだよ」
柚木先生は赤ペンを持ち直した。
「舞台の上で言える言葉を、舞台の外でも持つ。その練習を、文化祭までに始めなさい。演劇を進路にしろとは言わない。君が選ぶのは、君の仕事だ。だが、舞台に立つ自分を、進路の話をする自分が最初から消してしまうことだけは、やめなさい」
真正面から期待を渡されると、僕はいつも言葉を失う。
代わりに、台本を胸の前で握りしめた。紙の端が掌へ食い込み、汗でページが少し波打つ。
「はい」
やっと、それだけ言えた。
そのとき、体育館の入口から靴音がした。
「……それ、普段も出せばいいのに」
透だった。
いつからいたのか分からない。舞台袖の柱にもたれ、片手をポケットに入れている。軽口の形をしていたが、目は笑っていなかった。
「聞いてたの」
「聞こえた。廊下まで」
「勝手に入るなよ」
「柚木先生に入っていいって言われた」
透はそう言いながら、僕の手元を見た。赤ペンの入った台本。汗で波打ったページ。握りしめた指。
「主演候補だって?」
「……うん」
「そっか」
透はそれ以上、すぐには言わなかった。
僕は、正面から褒められるのが苦手だった。期待されると、その期待に応えられない未来まで一緒に見えてしまう。
「何か言ってよ」

「何を?」
「おめでとう、とか。すごい、とか」
「そういうの、言われると困るだろ」
返す言葉がなかった。
透は舞台の端まで歩いてきた。照明の外に立ち、僕を見上げる。
「でも、今のはよかった」
「それも困る」
「じゃあ、困ってろ。俺は本当にそう思ったから言う」
透の声には、からかいがなかった。
「舞台の上のおまえは、誰かに許可を取らない。言うことを決めて、そこに立って、相手が聞くかどうかを待ってる。なのに舞台を降りると、何もかも先に諦めた顔をする」
「舞台の上だからできるんだよ」
「じゃあ、舞台の外を少しずつ舞台にすればいい」
「そんな簡単に」
「簡単じゃない。でも、舞台の上でできるなら、最初からできないわけじゃないだろ」
透はそこで言葉を止めた。
以前なら、ここで僕の代わりに答えを出したはずだ。大丈夫だとか、絶対に向いているとか、そういう言葉で僕を立たせようとしただろう。けれど透は、もうそれをしなかった。
「進路調査票、まだ白い?」
「……うん」
「そっか」
透はポケットから、折れた紙片を取り出した。小学生の頃の約束に、二文字だけ書き足された紙だ。今日はそれを開かず、指先で角だけを撫でている。
「白いなら、まだ書けるな」
軽い言い方だった。
なのに、その言葉はスポットライトの熱より長く、僕の中に残った。
僕は台本の余白を見た。赤い丸の横に、柚木先生の字で小さく書かれている。
――置いた言葉を、引き取る。
僕はそれを指でなぞった。
「先生」
「うん」
「ひまわりホールで、僕が台詞を間違えたら」
「直せばいい」
「本番で間違えたら」
「相手の台詞を聞きなさい。舞台は、間違いを消す場所ではない。間違ったあと、どう言葉を渡し直すかを見る場所だ」
「進路も?」
柚木先生は僕を見た。
「進路もだよ」
その答えは、思っていたより静かだった。だからこそ、僕は逃げずに聞けた。
「何度でも選び直せるんですか」
「何度でも、とは言わない。選び直すたびに、時間も金も、人の手も使う。だから軽くは扱えない。ただ、一度書いた名前に一生閉じ込められるほど、人生は紙より小さくない」
僕は、鞄の中の進路調査票を思い出した。
まだ何も書いていない。
けれど、何も始まっていないわけではなかった。今日、舞台の上で声を出した。柚木先生に言葉を渡した。透の前で、舞台に立ちたいと口にした。
紙へ書く前に、僕の中ではすでに一行が始まっている。
稽古が終わる頃、窓の外は暗くなっていた。体育館の照明が消えると、黒布の向こうに校舎の蛍光灯だけが残った。遠くの廊下を、誰かが一人で歩いている。靴音が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
舞台袖に置かれた折りたたみ椅子へ戻ると、座面に薄い埃が積もっていた。僕は手で払わず、そのまま腰を下ろした。汗を吸ったハンカチを首へ当てる。布から、照明と木材と、自分の体温の混ざった匂いがした。
透は舞台の端に立ったまま、客席の暗がりを見ていた。
「ひまわりホールって、そんなに違うの」
「行ったことあるの?」
「小学生のときに一回だけ。おまえと」
「僕と?」
「覚えてない?」
僕は首を振った。
透はすぐに笑わなかった。客席の暗さを見たまま、少し長く黙った。
「そっか。じゃあ、今度一緒に行けばいい」
「文化祭で?」
「それ以外に、ひまわりホールへ行く用事ある?」
「下見とか」
「それ、俺が行っていいの」
「……別に」
「ほら、また」
透の声に、ようやくいつもの軽さが戻った。
僕は台本を閉じた。赤ペンで埋まった表紙が、手の中でかすかに軋む。
「透」
「ん?」
「僕、ちゃんと書く」
自分で言ってから、その言葉の重さに息が詰まった。
透は振り返った。冗談を返そうとして、やめた顔だった。
「何を」
「第一志望。演劇を学べる場所を調べて、どこへ行きたいのか書く。まだ決めきれないところも、書く。家族にも話す」
「うん」
「反対されるかもしれない」
「されるかもな」
「失敗するかもしれない」
「するかも」
「透も、困るかもしれない」
透は少しだけ目を細めた。
「それは俺が決める。おまえが先に決めるな」
その言葉は、前にも聞いた気がした。けれど今日は、胸へ入ってくる場所が違った。
僕は頷いた。
舞台の上では、照明係が最後のライトを落とした。白い光が消え、体育館は一度、深い暗闇に沈んだ。
その暗闇の向こうに、ひまわりホールがある。
古い照明。狭い舞台袖。軋む客席。知らない人たちの前で、僕の声を置く場所。
怖い。
怖いまま、行ってみたい。
僕は台本を鞄へしまい、進路調査票の入ったクリアファイルの上へ重ねた。赤ペンの跡が、白い紙を覆うように透けて見える。
まだ第一志望欄は空白のままだ。
それでも、その白さは、もう僕を消すためのものではなかった。赤い線を引き、何度でも書き直すために残された、最初の余白だった。
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